失いしもの[陸]
暗闇の中に、微かな光が見えた。身体の奥底へ、何かが流れ込んでくるような気がする。光は揺らめきながら闇の中を漂っていた。俺はそれに触れようと手を伸ばそうとしたが、——触れられない。手がないのだ。気づけば、身体も、足も、すべてを喪失していた。ただ深い闇の底に、俺の意識だけがぽつんと存在しているような奇妙な感覚。
やがて、漂っていた光が徐々に大きくなりながら近づいてきた。存在しないはずの俺の身体を包み込むようにして、闇の中に確かな輪郭を創り出していく。光はさらに輝きを増した後、激しく弾けた。ただ流れに身を任せていた意識が、その音に弾かれるようにして、急速に明瞭さを取り戻していく。
(——身体の感覚が戻ってきた……。)
暗闇を漂っていたような感覚のなか、最初に鼓膜を震わせたのは、切迫した声だった。
「治癒士! どうなっている……っ! ノア様は助かるのか!? まだ目を覚まされないではないか!」
この焦りと不安の混ざった声は、ゼノ先生か。目を覚まさないというのは、きっと、俺のことなのだろう。
「ゼノ、先……せ……。」
唇をどうにか動かすが、目も口も、ほんの僅かにしか開かない。全身に力が入らず、指先一つまともに動かせなかった。
「ノ、ノア様……! お気づきになられたのですね!?」
ゼノ先生が気遣うように俺の手を己の顔へと寄せた。視界の端に映る先生の表情は、完全に余裕を失っている。
「もう……目覚められないのかと……っ!」
ゼノ先生の目から溢れた涙が彼の頬を伝い、俺の手の甲へとこぼれ落ちる。
(……相変わらず、過保護な人だ……。)
この人は、俺がまだ幼い頃からずっとこうだった。訓練中にほんの少し転んで膝から血を流しただけでも、まるで致命傷でも負ったかのように大騒ぎし、大事そうに抱きかかえては侍医の元へと全速力で駆け込んでいく。俺という存在を、自身の命よりも大事にしてくれる。どこまでも優しい、俺の師。もう大丈夫だ。そう言って安心させようとした、その瞬間だった。
ズクンッ……!
心臓が嫌な音を立てて跳ね、生々しく覚えのある感覚が這い上がってきた。喉の奥からせり上がった熱い塊が、俺の唇を割り、再び真紅の血となって流れ落ちる。
ドクン、ドクン、ドクン、と身体が激しく脈打ち、鼓動が速まっていく。それと同時に、俺の耳は——すぐ近くにいる「他人の鼓動」を、そしてその肉体の中を脈打ちながら巡る「血の音」を、恐ろしいほどの鮮明さで拾い始めていた。
(……くそ、これは……っ。)
吸血への『渇望』だ。血冥魔法の代償として、自らの血を削りすぎたのだ。いくら強力な治癒魔法を重ねたところで、失われた血までは再生できなかったらしい。枯渇した俺の肉体が、生存本能のままに生き血いきちを求めて苦悶の声を上げている。
「……!? ノア様、また血が流れています! ……治癒士、どういうことだ! 傷はすべて塞いだと言ったではないか!」
吐血に気づいたゼノ先生の顔が、一瞬で引きつった。彼は俺を寝かせ、背後に控えていたであろう治癒士へと、凄まじい剣幕で詰め寄っていった。
「先生……っ!シヴァを……呼んで、ください……っ!」
上手く機能しない喉から、壊れた音のような声を無理やり絞り出す。理性が飢餓感に塗りつぶされていく恐怖が、俺を焦らせていた。
「シ、シヴァですか!? ……かしこまりました! シヴァ! シヴァ! 今すぐノア様の元へ来い!」
困惑を隠せない様子ながらも、ゼノ先生は声を張り上げてシヴァを呼ぶ。一瞬の間の後、駆け寄る足音がこちらへ向かってきた。
「ノア様! お目覚めになられたのですね……っ!? どれほど、どれほど心配したことか……!」
膝をついたシヴァが、震える手で俺の頬を包み込む。
「シ……ヴァ。もっと……近くへ、寄れ……。」
「は、はい……!」
俺の言葉に応じ、シヴァの顔が至近距離まで迫る。他人の皮膚の熱量と、その奥を流れる極上の「香気」が鼻腔を突き、暴れそうになる本能を無理矢理押さえつける。
「血を……。理性が……保てなくなる……っ。」
シヴァは俺から顔を離し、ハッと息を呑んだ。だが、次の瞬間にはすべてを察した冷静な表情へと切り替わる。彼女の中の「有能な執事」が、悲しみを一瞬でかき消したのだ。
「……ゼノ。こっちへ。」
シヴァは治癒士を問い詰めていたゼノ先生を、緊迫した囁き声で呼び寄せる。
「シヴァ? 一体何だ——。」
「ゼノ。ノア様の顔周りを周囲の目から隠すように跪いて。それから——これから目にするものは、一切口外しないこと。何があっても、誰に対しても、何も言わないように。」
シヴァの有無を言わせぬ口調と真剣な眼差し。その気迫に圧されたのだろう、ゼノ先生はそれ以上の追及を止め、静かに頷いて俺の側へと跪いた。
シヴァもまた、先生と並ぶようにして俺の元へ跪いた。迷いは一瞬すらなかった。彼女は衣服の胸元から鋭利なナイフを滑り出させると、躊躇なく自身の手のひらを深く切り裂いた。肉の裂ける音とともに、鮮烈な真紅が溢れ出す。シヴァはその傷口を、俺の唇の上へと当てがい、自らの血を流し込む。
「シ、シヴァ……っ! お前、正気か!? なにを、してる……!」
ゼノ先生の喉から、信じられない光景を目撃したかのような驚愕の声が漏れる。先生の目が見開かれ、その視線が俺たちの間で激しく彷徨った。
「静かに。説明は後だ。」
シヴァは周囲を警戒しながら言い捨てると、さらに自身の掌を強く握り締め、溢れ出る血を俺の口内へと注ぎ込み続けた。
シヴァの生温かい血が喉を潤すたび、俺の身体に徐々に力が戻り始める。霞んでいた意識が急速に冴え渡っていった。
「……シヴァ、もういい。助かった。」
俺はまだわずかにフラつきながらも、ゼノ先生とシヴァに両脇を支えられ、ゆっくりと上半身を起こす。唇の端に付いた血を、手の甲で乱暴に拭った。
「……ゼノ先生、今見たことは他言無用でお願いします。説明は、必ず後でしますから。」
「……かしこまりました。……ノア様、もう、起き上がっても本当に大丈夫なのですか?」
先生の瞳には、俺への恐怖や忌避の色は一切なかった。ただただ、教え子の身を案じる顔で、じっとこちらを覗き込んでいる。
「ええ、なんとか。ゆっくり歩ける程度には回復しました。ありがとうございます。……それより、ジキルは? ジキルは無事なのですか?」
激痛のしていた喉から、ようやく本来の調子を取り戻した声を出す。
「……ジキル様なら、あちらです。」
ゼノ先生の視線を追うように、俺もそちらへと目を向けた。俺たちの斜め後方。そこには、駆けつけた治癒士から絶え間なく治癒魔法をかけ続けられているジキルの姿があった。
そのすぐ側には、ルクシオ先生が付き添っている。
「……容体は?」
「ノア様が施された血冥魔法『贄刻』のおかげで、致命的な傷は塞がり、呼吸や脈拍も落ち着きました。ただ、あまりにも出血が多すぎたせいか、未だに意識が戻らないのです。今も治癒士が体力を回復させていますので、近いうちには目を覚まされるとは思うのですが……。」
シヴァが、横たわるジキルを痛ましげに見つめながら、声を潜めて説明してくれた。
「……やはり、禁断魔法で負った傷は、『贄刻』でも消し去れなかったか。」
命の危機こそ脱したものの、ジキルの顔や露出した身体には、あの絶対零度の氷嵐が刻んだ無数の痕が痛々しく残っていた。
「……はい。そのようです。」
シヴァは暗い影を宿した顔で視線を落とした。そのときだった。
「ぅ……くっ、ゴホッ、ゴホッ……!」
ジキルの身体がくの字に折れ曲がり、激しく咳き込んだ。
「ジキル様! お気づきですか!?」
ルクシオ先生が素早く彼の身体を支え、強く声をかける。
「……私は……生きて、いる……?」
ジキルはまだ現実が掴めない様子で、辺りを見回すように力なく首を動かした。
「……治癒士が治療魔法を施し、一命を取り留めました。」
ルクシオ先生は俺が放った未知の魔法、そのことにはあえて一切触れることなく、ジキルに説明をした。先生のその気遣いが、今の俺にはとてもありがたかった。
「か、家族は!?」
ジキルは記憶が蘇ると同時に、愛する家族の姿を探し始める。
「ご無事だったご家族は、先にノア様の公爵邸へと避難していただいています。ここに残っているのは、容体が重く、動かすのが危険だったノア様とジキル様だけです。」
「……ノア様が、怪我を……!?」
ジキルは再び、慌てたように辺りを見回し、やがて俺の姿を捉えた。
「……っ! ノア様! 大丈夫なのですか……っ!?」
「ああ、問題ない。ジキル、お前が生きていてくれて本当によかった。ディアに、全員無事に帰ると約束したからな……。」
俺はジキルを安心させるように、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ジキルの家族のことも心配だ。早く公爵邸へ戻ろう。ゼノ先生、肩を借りてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。しっかりとお支えいたします。」
ゼノ先生が俺の身体を支え上げる。
「シヴァは、その手の傷を治癒士に治してもらってから馬車へ戻れ。急がなくていい、必ずだぞ。」
「……かしこまりました。」
俺はゼノ先生に、ジキルはルクシオ先生にそれぞれ肩を貸してもらい、ゆっくりと馬車へと歩き出す。しばらくして、手の傷を塞いだシヴァも馬車へと乗り込んできた。全員が揃ったところで、馬車が走り出す。
——車内には、誰も言葉を口にする者はいなかった。目の前で家族を失った至哀の悲しみ、ジキルの放った禁断魔法、そして俺が使った血冥魔法の正体。誰もが、胸にそれぞれの想いを深く押し込み、ただ沈黙だけが支配するなか、馬車は夜の闇の中を公爵邸へと向かっていった。
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