失いしもの[伍]
【殿】隊列や順番の最後尾を意味する言葉。
俺たちは、迫り来る大量の『パイロ・キュクロプス』を屠り続けていた。背後では騎士団と冒険者の混成部隊が雄叫びを上げながら戦線を切り広げている。
伯爵邸を視界に収める。あとほんの僅か、あと少しで伯爵邸の門に辿り着ける——そう思ったその瞬間、一部の『パイロ・キュクロプス』が伯爵邸を含め、周辺の邸宅へと火を噴き出した。
放たれた高温の火炎が、容赦なく豪華な建物を焼き尽くしていく。一瞬にして街角は炎の海と化し、凄まじい熱風が吹き荒れた。熱地獄に耐えかねた多くの住人たちが、悲鳴を上げて邸宅から次々と飛び出してくる。
「……ちっ、間に合わなかったか……。」
最悪の展開だ。民家が激しく燃え盛り、非戦闘員である一般市民が戦場に散らばったことで、後発の魔法使いたちは誤射を恐れて広域魔術を完全に封じられてしまった。これにより、魔物の撃退数は激減。そればかりか、逃げ惑う人々を保護するために、前線の騎士や冒険者たちも一斉に防戦への移行を余儀なくされ、さっきまでの優勢が嘘のように戦況が一気に瓦解していく。
爆音と悲鳴が入り乱れる中、俺は重要な違和感に気づいた。
「……ジキルは!?どこへ行った!?」
周囲を包む濃い黒煙と混沌に遮られ、先ほどまで後衛で魔法を放っていたジキルを見失ってしまったのだ。
「ノア様、あちらです!」
頭上の屋根へと跳躍していたゼノ先生が、一点を指し示した。その指先を辿るように視線を走らせると、荒れ狂う炎の中、伯爵邸から逃げ出してきたのであろう家族を、水魔法を展開して庇い続けているジキルの姿があった。
駆けつけようと走り出した、その瞬間だった。猛烈な熱気に耐えられなくなったのだろう。ジキルの背後から、一人の幼子が後方へと走り出すのが見えた。年齢からして、おそらくジキルの末の弟だ。「待ちなさい!」と叫びながら、母親らしき女性がすぐにその後を追う。
(——そっちは、ジキルの水魔法の守備範囲外だ!)
「戻れ!」
叫んだ声が家屋の倒壊音でかき消される。その刹那。無防備に飛び出した二人を、上空で好機を貪欲に狙っていた『パイロ・キュクロプス』が見逃すはずもなかった。巨大な一つ目がぎょろりと二人を捉え、その頭上から容赦のない火炎が噴き出される。
ほんの、一瞬の出来事だった。遮るものなど何もない二人に、防ぐ術などあるはずもなかった。あまりの高熱に、衣服が、肉が、骨が、一瞬にして形を失っていく。つい先ほどまで生きて、確かにそこに存在していた二人だった人影は、見る影もなく混ざり合った一つの灰へと変わり、無残にも夜風にさらわれて地へと堕ちた。
「ぅゔゔあ゙あ゙あ゙あ゙ぁぁぁぁ……っ!!」
鼓膜を引き裂くような、ジキルの絶叫が戦場に轟く。大切な家族を失った友の叫びに胸を抉られながらも、俺は全速力で伯爵邸へと突っ込んだ。崩れ落ちそうになるジキルの元へと辛うじて到達すると同時に、上空から追撃の手を伸ばす魔物たちの前に、全力でバリアを展開した。
(だが、このバリアも万能じゃない……。ここは敵の数が多すぎる。このままだと、すぐに叩き割られる……っ!)
頭上ではゼノ先生、ルクシオ先生、そしてシヴァが猛然と『パイロ・キュクロプス』を撃ち落としてくれている。だが、この場所に集まった敵の数は尋常ではなかった。退路すら見えないほど、完全に包囲されている。
「……だめだ!バリアが保たない!ジキル、後ろへ下がるぞ!援護を頼む!」
俺は四重、五重と、息つく暇もなく魔術を重ねがけし、バリアを多重展開していく。だが、長時間の複数展開に、徐々に脳が直に灼かれるような激痛が走り始める。限界が近づいている。
「ジキル!ジキル!!聞いているのか!?」
しかし、いくら叫んでも応答はない。先ほどの凄惨な光景による衝撃が強すぎたのだろう。ジキルはただ、灰が堕ちた地面を見つめたまま、人形のように呆然と立ち尽くしていた。
「ジキル!まだお前の家族は残っているんだぞ……っ!ここで全員を死なせる気か!正気に戻れ!」
喉が張り裂けそうなほど叫び、尚もジキルへと呼びかける。その言葉が、彼の鼓膜に辛うじて届いたのだろうか。ふと、焦点の合わない虚ろな瞳のまま、ジキルが俺の方へとゆっくり振り向いた。その瞳は、正気を失っていた。
「ノア様……。私の家族を連れて、どうかお下がりください……。」
「……っ、何を言ってるんだ……!?お前も一緒に下がるんだ!」
「……いえ、私は下がりません。私の家族を殺した、この虫ケラどもを、一匹残らず死滅させるまでは……。」
その声は、驚くほど静かで、それゆえに底知れない狂気と憎悪を孕んでいた。彼の身体から、突き刺すような冷たい魔力が膨れ上がっていくのがわかる。
「そんなの無理だ!だから、ジキル……っ!」
聞く耳を持たないジキルを、無理矢理にでも引っ張っていこうと腕へと手を伸ばす。だが、俺の手は勢いよく弾き返された。
「ノア様!限界です!撤退を……っ!」
後方から、ルクシオ先生の声が響く。もう一度ジキルの腕を掴もうと足を踏み出した、その瞬間だった。
すぐ側で高速の呪文が紡がれる。
「——凛冽する大気よ、光の歩みを凍てつかせ、不可侵の結晶世界を謳え!『アイシクル・パレス』!」
激しい冷気と共に、俺とジキルの間に巨大な氷柱が突き立ち、視界を、そして二人の距離を無慈悲に分断した。
「っっ……!」
バリアを維持するだけで精一杯の俺には、その氷柱を砕いてジキルを連れ戻す余力など残っていなかった。悔しさに血が滲むほど唇を噛み締める。
——諦めるしか、選択肢がなかった。
「……俺から離れずについてきてください!」
俺はジキルに背を向け、残された彼の父親ともう一人の弟へと叫んだ。二人を背中に庇うようにして、先頭に立ち走る。背後では、ルクシオ先生も即座に自身のバリアを展開し、殿を務めるゼノ先生とシヴァの退路を死守していた。炎と悲鳴に包まれる視界の片隅で、氷柱の向こう側、ジキルの姿が猛煙の彼方へと遠ざかっていく。
行き交う人々の悲鳴と、肉を焦がす炎の爆音が鼓膜を容赦なく打ち鳴らす。俺はルクシオ先生と合流し、限界を迎えていた多層バリアを、生存者を包み込むための広範囲な単一障壁へと切り替えた。だが、限界まで引き伸ばしたバリアの強度はあまりにも脆い。『パイロ・キュクロプス』の火炎を浴びるたびにガラスのような亀裂が走り、それが割れる寸前でルクシオ先生と交互に張り直すという、まさに薄氷を踏むような決死の作業を繰り返す。
「皆さん!バリアの中へ!攻撃が当たらない範囲まで近づいてください!」
ゼノ先生が声を枯らし、逃げ惑う人々をこちらへと必死に誘導する。この激戦地となった戦場の喧騒を、完全に圧するほどの「声」が響き渡り始めたのは、その時だった。
ジキルの声に重なるように、聞いたこともないほど悍ましい響きを持った呪文が紡がれ始めた。
「——空を舞う涙よ、硬質な絶望へと玻璃化せよ。闇を遮る白銀の聖骸布を掲げ、不浄なる災禍を等しく排除せん。」
重苦しい謎の詠唱が響く。大気が不自然に凍りつき、肌を切り裂くようなプレッシャーが辺りを支配した。あまりの寒気と威圧感に、逃げ惑っていた人々だけでなく、上空の『パイロ・キュクロプス』さえも動きを止め、恐怖に身を震わせる。
(……な、んだ、この詠唱呪文は?こんな大詠唱、聞いたこともないぞ……!)
背筋を突き抜けるような、底冷えする恐怖が全身を駆け巡る。
「ノア様……これは、ジキル様でしょうか!?」
ゼノ先生が、剣を構えたまま驚愕の表情で俺たちに問いかけてくる。
「……ああ。恐らくな。違っていてほしいが……。」
俺の脳裏には、かつて禁書庫の片隅で目にした『禁断魔法』という文字が浮かんでいた。それを今、ジキルは発動しようとしている。何を犠牲にし、どれほどの範囲に、どんな破滅的な影響を及ぼすのか、全てが計り知れない。
(ジキル……っ!何を唱えているんだ!?ここにいる人々を巻き込んででも、『パイロ・キュクロプス』を全滅させる気か!?)
バリアでは防ぎ切れないかもしれないと、未知の魔法に対する対処法が浮かばず、じっとりとした嫌な汗が全身を流れ落ちる。……いや、一つだけ、すべてを防ぎきる可能性の策はある。……俺の、血冥魔法だ。
訓練場でクローディアとシヴァと共に、三人で実験した魔法の中に、絶対的な強度を誇る結界の魔法があった。だが、ここでそれを使えば、俺が吸血鬼族であることが、先生たちや周囲の人々に露見してしまうかもしれない。それは公爵家次男としての破滅を意味していた。
「——降り注ぐは千の刃、天を衝くは無慈悲なる巨槍。」
絶え間ない術式の構築、激化していく戦闘。思考を整理することすら難しくなっていく中、無情にもジキルの呪文は最終節へと紡がれていく。大気が、空間そのものが、あまりの冷気に悲鳴を上げて軋み始めた。
(……っ、躊躇ってる場合じゃない。正体がバレる恐れなんかより、今、目の前で必死に生きようとしている命の方が大事だ……!)
覚悟を決めた俺と、復讐の鬼と化したジキル。両者の声が重なった。
「——終わりなき氷嵐よ、此の領域の全てを絶死の静寂へ。穿て!『ヴォルテクス・ネメシス』!」
「——赤き檻にて、現を拒め!『絶界』!」
ジキルの咆哮とともに、天から視界を埋め尽くすほどの極細の氷の刃が、文字通り世界を削り取るように降り注ぐ。それを防いだのは、俺を起点に広がった、半円状の紅いドームだった。ジキルの荒れ狂う破壊の嵐が、紅の障壁と衝突し、甲高い音を立てて砕け散っていく。俺は全力で魔力を注ぎ続け、逃げ遅れた人々を一人でも多く包み込むために魔法範囲を広げていく。
「先生!シヴァ!ドーム内に残ってしまっている『パイロ・キュクロプス』の殲滅を!数はかなり減っているはずです!」
「「「はっ!」」」
俺の叫びに応じ、三人が結界内に侵入していた敵へと飛びかかっていく。だが、血冥魔法で防ぎきれる限界は、とうに超えていた。
(だめだ……!全てを完全に防ぎきることは……っ!)
「ぐっ……、がはっ……!」
突如、喉の奥から強烈な鉄の味がせり上がり、鮮血が滴り落ちた。
(……そういえば、血冥魔法は、自身の血を贄にするんだったか。)
どれくらいの時間が経っただろうか。感覚としては永遠のようでもあり、実際には一分にも満たない時間だったのだろう。急速に力が失われ、世界の色彩が色褪せていく。
ゴボッ……、ビシャビシャ!
内臓が引き裂かれるような感覚とともに、口から大量の血が溢れた。身体の支えを失い、俺はそのまま地面へと膝から崩れ落ちる。
「「「ノア様!」」」
ルクシオ先生の、ゼノ先生の、そしてシヴァの悲鳴のような絶叫が重なって聞こえた。慌ててこちらへと近寄ってくる三人の足音。意識が飛びそうな中、いつの間にか辺りからは一切の音が消え去り、戦場だった場所を沈黙が支配していた。
「……ぐ、ぁ……、がはっ……!はぁ、はぁ……。ジキルの、家族は……無事、か……?」
「ご無事です!皆様ここにおられます!——それよりも、ノア様!血が、血が止まりません……っ!なぜ血冥魔法を唱えられたのですか!自身の血を贄とすると分かっていたのに、あれほど広範囲に……っ!」
シヴァが顔を恐怖に歪めて駆け寄り、倒れかかる俺の身体を折れそうなほど強く抱きしめて支えた。その手はガタガタと震えている。
「血冥魔法……!?シヴァ、それは一体……っ!いや、今はそんなことより……!ノア様、どうかそれ以上は言葉をお控えください!喋る度に血が溢れ出しています……っ!」
ルクシオ先生の普段の冷静さからは想像もつかないほどの震えた声が聞こえた。
「俺のことは……いい。ジキルは……。ジキルは、どうなった……。」
無理に声を出そうとするたび、喉の奥を引き千切られるような激痛が走り、口の端からドクドクと不吉な真紅が溢れ出た。呼吸を一つ繋ぐだけでも、意識が暗闇へと引きずり込まれそうになる。それでも俺は、氷柱の向こうに消えた友の姿を、霞む視界で必死に探す。
「ジキル様は……。——あちらです!少し離れていますが、あそこに倒れてらっしゃいます!」
周囲の惨状に視線を走らせていたルクシオ先生が、ついにジキルの姿を捉え、声を鋭く裏返らせた。
「俺を……ジキルの所へ……連れて行ってくれ……。」
「おやめください!これ以上動けば、本当に命に関わります……っ!どうかジキル様は我々に任せて、ノア様はここから動かないでください!シヴァ!誰でもいい、今すぐ治癒士を探してこい!」
ゼノ先生が普段の穏やかさを完全に失い、シヴァへ怒鳴るように指示を飛ばす。ゼノ先生がシヴァに代わって俺の身体を支え、シヴァが全速力で地面を蹴る音が耳を打った。
「いい、から……。俺を、ジキルの……元へ……。頼む……っ。」
力の入らない四肢に鞭を打ち、俺は二人を睨み据えるように見つめた。薄れゆく意識の底から絞り出したその瞳に、抗えない意志を感じ取ったのだろう。ルクシオ先生が息を呑み、諦めたように小さく息を吐いた。
「……ゼノ、ノア様のもう片側を支えてくれ。ジキル様の元へ行く。」
「——ルクシオ!……くっ、分かった。」
ゼノ先生が苦渋の表情で俺のもう片方の腕を自身の肩へと回す。二人がかりで、もはや自立することすら叶わない俺の身体を引きずるようにして、進んでいく。
ようやく辿り着いたジキルの姿は、俺たちの想像を遥かに絶する、あまりにも凄惨なものだった。
『パイロ・キュクロプス』の爪牙が刻んだ無数の裂傷と、黒く爛れた凄絶な火傷。それだけではない。自らが放った禁断の魔法——その制御を失った絶対零度の氷嵐に、自身の肉体までズタズタに切り刻まれていた。
さっきまで馬車の中で、家族を想って穏やかに微笑んでいたあの端正な面影は、どこを探しても残っていない。傷口から流れた血すら赤黒く凍りつき、ただ無惨な骸のように横たわる友の姿が、俺の霞む視界に焼き付いた。
「ジキル……。目を、覚ませ……。家族は、みんな無事だ……。だから……。」
必死に呼びかけるが、ピクリとも身じろぎもしない。だが、爛れた胸元が微かに、本当に微かに上下し、途切れ途切れの呼吸音が聞こえた。まだ、かろうじて生きている。
「ジキル……逝くな。約束、しただろ……。『冒険の日』に、また……一緒に遊ぶんだろ……?」
返事はない。ただ、刻一刻と冷たくなっていく友の肉体がそこにあるだけだった。
「ルクシオ先生……ゼノ先生……。俺を、ジキルの隣へ……降ろしてくれ。」
その懇願に、二人の師はかける言葉すら見つけられない様子で、ただ痛ましげに顔を歪め、静かに俺をジキルのすぐ隣へと横たわらせてくれた。もうほとんど目は見えなくなっていた。感覚の消えかけた右手を這わせ、ジキルの手を求める。触れたその指先は、すでに死者のように冷え切っていた。俺はその指を、壊れ物を扱うように、けれど決して離さないよう強く握りしめる。
「ジキル……っ。」
もう一度だけ名前を呼ぶ。それでも、やはり答えは返ってこない。
(……死なせはしない。俺の命に代えてでも、お前の家族の元へ、お前を帰してやる。)
俺は、体内に残る最期の、吸血鬼族としての根源の力を振り絞る。
「——赤き情念を以て……。」
「ノア様!?何をされるおつもりですか!?」
「これ以上は魔力を使ってはならない!おやめください!」
ゼノ先生とルクシオ先生が、悲痛な叫び声をあげる。俺を止めようとする二人の師の手が、俺の肩や腕へと必死に伸びてくる。だが、もう遅い。
「去にし時を……逆巻け。……贄刻。」
呪文を完全に紡ぎ終えた瞬間、視界が猛烈な勢いで奪われた。繋いだジキルの手へと、俺の血管を流れる吸血鬼族の命そのものが、ドクドクと濁流となって流れ込んでいくのが分かった。
「——ノア様!しっかりしてください!」
「——ノア様!ノア様!」
俺の名を叫び、必死に身体を揺さぶる二人の声が、水に溺れていくように遥か遠くへと離れていく。そのまま俺の意識は、光の届かない冷たい海の底へと沈んでいくように、完全に、途切れていった。
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