得難きもの[壱]
【皓月】白く光り輝く明るい月。
【至白】白の極み。この上なく白いこと。
【天色】晴天の澄み渡った空のような、鮮やかで力強い青色。
中庭の舗石に、規則正しい足音が染み込んでいく。感情を排した一定のリズム。けれど、堅い石床を蹴る靴底に、微かな動揺が滲んでいた。これは、どこか不安げな響きだ。
心地よい風が通り抜け、引きずり込まれそうだった浅い微睡が、その靴音によって破られる。探し人を見つけたのだろう、急いたように靴底が一段と高なった。
「——ノア様、なぜこちらにいらっしゃるのですか。授業はどうされたのです。芝生に寝転ぶなど……。せっかくの純白の髪が汚れてしまいますよ。もしかして……具合が悪いのですか。」
目を開けずとも分かった。
普段なら漆黒の燕尾服に刻まれる軽微な皺さえ許さないシヴァが、汚れを気に留めることもなく芝生に膝を突き、俺を覗き込んでいる。直に伝わってくる彼女の切迫した気配と視線の熱。
「……心配するな。授業が面倒だっただけだ。もう知っている講義を聞かされても、退屈なだけだからな。」
重い瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、さらりと流れる漆黒の髪の隙間から覗く、氷の結晶を溶かし込んだような淡いブルーの瞳だった。もう片方の瞳は、右目をそっと遮るように斜めに流された前髪に隠れて、窺い知ることはできない。
肩に届かない絶妙な長さの、タイトなショートヘア。首筋に沿って優しく外に跳ねる襟足が細い首筋を際立たせる。皓月のような美貌に差す、揺らぐことのない気品。男とも女ともつかない、危ういほどに均整の取れた中性的な美貌。
そんなシヴァの頬へ、大丈夫だと伝えるようにそっと片手を添える。その端正な顔立ちに、張り詰めていた緊張がほどけ、安堵の色が浮かんだ。
「それなら安心いたしました。ですが……ノア様がどれほど優秀な御方であるかは周知の事実であっても、約束の刻限に、約束の場所に身を置く。それもまた、尊き者の務めにございますよ。」
頬に添えた俺の手へ、彼女が自らの手のひらを重ねてくる。きつくはめ込まれたバトラーグローブの布越しでも伝わる、俺への純粋な優しさ。彼女が指にはめた紋様入りの大きな指輪が、遮るもののない陽光を弾いて鈍く光る。
彼女が俺に危害を加えることは、何があろうともあり得えはしない。ただただ、己の身を案じてくれているのだと、その手のひらの温もりが告げていた。
「それもそうだな。次男とはいえ、公爵家の者としての自覚と礼節を欠くわけにはいかない。——戻ろうか。」
互いに触れていた手を離し、立ち上がる。身に纏った上着からサッと土埃を払い、指先でまとわりつく毛房をすくい上げる。無造作に波打つ髪をまとめて耳の後ろへと引っかけると、黒いドロップピアスと重ね付けしたシルバーの指輪が交差してカチリと硬質な音を立てた。
歩み出そうとした背中に、再び彼女の凛とした声が掛けられた。
「あっ。間もなく授業が終わる時間ですので、先生は帰られました。代わりにクローディア様とジキル様がいらっしゃる時間ですよ。」
シヴァのその言葉に、ハッと大事な予定を思い出す。あぁ、もうそんなに時間が経っていたのか。自分で感じていたよりも、大分深く微睡んでしまっていたらしい。
近頃はどうにも日中の眠気が酷い。身体が鉛のように重く、思うように動かない日すらあるほどだ。まるで、自分の内側にある何かが、じわじわと蝕まれていくような感覚さえある。重い頭を揺らし、シヴァへと向き直る。
「——そうか。なら、2人は自室に通してくれ。茶菓子の用意も頼んだ。」
「かしこまりました。」
シヴァは恭しく一礼すると、本邸へと戻って行った。遠ざかるその後ろ姿を見つめながら、こらえきれずに一つ欠伸を噛み殺す。
重たい身体とは裏腹に、胸の奥から期待が込み上げてくる。さて、ここからはお楽しみの時間だ。深く息を吸い込み、頭を強制的に覚醒させる。
クローディアとジキルを歓迎するため、二人を待つ本邸の扉へと歩みを進めた。自室へと戻り、約束の時間まで所在なく過ごしていると、静かに扉を叩く音が響いた。
「どうぞ。」
応じると同時に開かれた扉の先に、まず従者であるシヴァの姿が目に入った。その背後には、帝国の第三皇女クローディア、そして伯爵家の嫡男、ジキルの姿がある。
クローディアは、まばゆい至白の髪が毛先にかけて徐々に黒く溶けていくような長髪を波打たせていた。心を見透かされているような射抜く緋色の瞳に、艶っぽい唇。完璧なほど、洗練された立ち振る舞いに近寄りがたいオーラを纏っているが、慈愛を含んだ微笑みに全てを委ねてしまいそうになる。
隣に立つジキルは、見上げる天の青をそのまま映し込んだかのような、瑞々しくも鮮烈な天色の髪を揺らし、親しげな微笑を浮かべている。ウルフマッシュの髪型と涼やかで意志ある眼差しが好青年の印象をより深くする。清廉な佇まいの中に、どこか守ってあげたくなるような憂いを秘めた、不思議な魅力の持ち主だ。
「ディア、ジキル、ようこそ。ひとまずここで寛いでくれ。」
俺は腰を上げ、クローディアの手をそっと取ると、宝物を扱うかのような手際でソファーへとエスコートした。彼女がしなやかに腰を下ろしたのを見届けてから向かいの席へ戻ると、ジキルもまた、滑らかな動作で彼女の隣へと腰掛けた。
俺達の動きに合わせるように、シヴァが手際よく淹れたての紅茶をテーブルへと並べる。そして一礼すると、まるで初めからそこに誰もいなかったかのように、気配を消して部屋を退出していった。
しばらく三人で言葉を交わし、歓談がひと息ついたところで、ジキルが弾んだ声を上げた。その瞳には、期待を隠しきれない少年のような輝きが宿っている。
「さて、お二人とも。本日はどのような冒険をなさるご予定ですか? いつものように魔術の研究に没頭するか、あるいは新たなる地へと気の向くままに馬を走らせるか……。」
俺やクローディアよりも年上のジキルが、無邪気な色を滲ませて語りかけてくる。
「ふふっ。ジキルは毎月一度の『冒険の日』が楽しみでたまらないのね。」
クローディアが華奢で美しい指先を口元に添え、クスクスと笑った。
「それはもう。社交界の夜会など、将来の足場固めのために神経を磨り潰すばかりで、面白味がありませんから。」
「そうなのか?女性に囲まれている姿を見ていると、嬉々として参加しているのかと。」
揶揄うような口調で言葉を投げる。するとジキルは、参ったなと言わんばかりに困ったような苦笑いを浮かべ、少し頬を掻きながら答えた。
「それは誤解ですよ。暇を持て余してるだけに過ぎません。贅沢な悩みだとは自覚していますが、講義だの執務の手伝いだの、貴族の日常とは退屈なものです。お二人と過ごすこの時間と、弟たちと触れ合い、遊ぶ時間が無ければ、私の心臓はとうに動きを止めていたでしょうね。」
ジキルはやれやれといった風に肩をすくめ、手にしたティーカップを傾けた。
「初めて皇宮の晩餐会で、ディアとジキルに出会ったのはもう十年前になるか。いつしか始まった『冒険の日』という名の悪戯や、お忍びの外出の記憶も、数え切れないほどあるな。」
俺は視線を斜め上へと彷徨わせ、懐かしい日々に思いを馳せながら、静かに目を細めた。
「そうね。私もこの一日だけは何があっても譲れないわ。」
それで——とクローディアが言葉を継ぐ。
「今回の『冒険の日』はこれが良いと思うの。」
そう言いながら、彼女は傍らに置いていた、降り注ぐ光を乱反射して虹色に煌めく精緻なクリスタルカットが施されたバッグから、一つの鍵を取り出した。
「それは……?」
ソファの背もたれに深く身を沈めていたジキルが、好奇心に突き動かされるようにして上体を起こした。
「神殿の地下深くにある禁書庫の鍵よ。」
クローディアの声には、秘密を口にする者特有の、興奮と神妙さが入り混じっていた。
「神殿のって……。あそこは皇宮の秘匿書庫すら凌ぐ厳重に守られた聖域じゃないか。そんな場所の鍵をどうやって手に入れたんだ。」
目の前に横たわる現実が信じられず、俺の喉からは困惑の声が振り絞られる。
「お父様がいつもは厳重に封じる引き出しの鍵を、かけ忘れて席を外したの。だからこれは極秘よ。すぐに元の場所へ戻さなければ、お叱りだけでは済まされない、これまでで一番危険な悪戯よ。」
クローディアは周囲を警戒するように声音を落とした。その瞳には、恐れを塗りつぶすほどの冒険心が宿っている。
「それはもう……。」
「行くしかないですね。」
俺の言葉に重なるようにして、ジキルが唇の端を吊り上げる。溢れんばかりの期待が満ちていた。計画が露見すれば厳罰に処される。俺たちは息を潜め、シヴァに馬車の用意を急がせた。
興奮と恐れを混ぜ合わせ、俺たちを乗せた馬車は、禁書庫のある大神殿へと静かに滑り出した。
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