第十七話 恋と失踪
ご飯を食べていた聖さんの手がぴたりと止まった。
まさか、元カレだと勘違いしているんだろうか。
否定するために首を横に振る。
「見たことがないです。
昨日、初めて会ったばかりですよね?」
「そっか。……“あんかけわさび”って知ってる?」
玲司さんは箸を置いて前のめりになり、ニヤリと笑った。
「聞いたことがあります。すごく人気だって……」
「蒔菜ちゃんは好きじゃないの?」
「普通ですかね。好きだと思うこともありましたけど」
「わさびをあんかけにするなんて聞いたことがない。
ふたりで秘密の話をするのはやめてもらっていいか?」
聖さんは私と玲司さんの会話を切り裂くように冷たい口調で言った。
「まさか、隠語だと思ってる?
朝から嫉妬してるねえ」
「そっ……、そうではない……」
「顔が赤くなってるよ。
心配しなくてもいいから。オレは、人のものを奪う趣味はないし。
イノシシに追いかけられて、大切なものが入ったバッグを失ってから強くそう思ったよ」
「…………」
チュンチュンっと雀の鳴き声がはっきりと聞こえてくるくらい静かになる。
沈黙を破るために箸を置いてから聖さんの方を向く。
「あんかけわさびっていうのは、人気バンドの名前です。
四人グループで、男性三人が演奏して、女性一人が歌っています。
新曲が発売されるたびに、ゴールデンタイムの音楽番組に出演しているんですよ」
「なっ、なんだ。バンドのことか。
最近の音楽についていけてないから分からなかった」
聖さんは安心したのか、ははっと軽く笑う。
「オレはあんかけわさびのメンバーでベース担当だったんだ」
「ボーカルの人しか見ていなかったので知りませんでした。
ウクレレ担当もしていたんですか?」
「もう二度とベースを弾くつもりはないから、ウクレレに転向したんだよ」
「まさか、バンドをやめたとか……?」
「うん。まだ誰にも言ってないけど。
今、SNSでベース担当の玲司が失踪したって話題になっているけどね」
「失踪したくなるほど嫌なことがあったのか?」
「ボーカルの子と付き合っていたんだけど、浮気をされてね。
その浮気相手がドラム担当の男だったから、色々と上手くいかなくなって……。
彼女と別れてから、叔母さんが住んでいる田舎に逃げてきたってわけ」
放浪していた理由を知って開いた口が塞がらなかった。
もし、玲司さんのことを知る人が現れたら大変なことになるだろう。
ストーカーされたり、SNSで拡散される可能性もある。
「オレの噂が落ち着いたら、バンドのメンバーに引退するって言うよ。
その前にバッグを探さないと連絡ができないか」
「自宅に帰るための交通費も必要だろうな」
「元カノと同棲していたから帰る場所なんてないよ。
今頃、オレの荷物が置いてあるアパートで浮気相手と幸せに暮らしているだろうし」
つらい出来事があっても玲司さんは明るく話をしている。
仲間に裏切られて傷ついているはずなのに。
「そうか……。何もかも困っていたんだな。
よかったら、うちでバイトをするか?」
「聖の務めている会社でバイトするってこと?」
「いいですね! 若い男の人の手があると助かります」
「何の仕事なのか分からないけど、交通費を稼ぐために喜んで働くよ。
考えるよりも体を動かしたい気分だし。
それに、もう二度と野宿をしたくないからね」




