第8話 生存本能は時にして、料理と化すとおや?ヒロインが登場らしいよ?話
2026/06/06 改稿済
ヒロイン力って大事だとおもうんだ。
――――――【???】
彷徨って7日目。
身体中の打撲は治るどころか、日に日に痛みを増していた。
胃の中はとっくに空っぽで、胃液だけが腹の中で揺れていた。。
何日も何も食べていないせいで、腹が減っているはずなのに、その感覚すら曖昧だった。
それでも身体だけは正直だった。
口の中に唾液が溢れたかと思えば、次の瞬間には喉が焼けるように渇く。
腹の奥では何かが捻じ切れるような痛みが続き、歩くだけで嗚咽が込み上げる。
「う……あ……」
視界が滲み、足元が二重に見える。
どこに地面があるのか分からない。
ふらりと身体が傾き、そのまま石に躓いた。
受け身も取れず顔から地面へ叩きつけられる。
鈍い衝撃、地面の石が頬を掠り裂けた。
「ぐっ……い……だい……!」
起き上がろうとしても腕に力が入らず、何度も地面を掻き、ようやく身体を起こす。
膝を見れば、ズボンはとっくに破れ、傷口から流れ続けた血が黒くこびりついていた。
乾いたと思ったらまた裂ける。
その繰り返しが、黒杉の精神を削り続けていた。
「くっ……うぐっ……」
泣きそうになる……なぜ自分が……どうして……けれど泣く余裕すら無い。
涙を流せば身体の水分を失う。
そんな馬鹿なことまで考えてしまうほど追い詰められていた。
だから下唇を強く噛む。
血が滲むほど強く、痛みで意識と命を繋ぎ止めるために。
細くなった腕で岩壁を掴み、黒杉は立ち上がる。
身体は限界だった。
それでも倒れない、立っているだけで奇跡。
『生きたい』
ただその纏わりつく執念と浮かび上がる言葉で身体を動かしていた。
先の見えない出口を探し続けて七日目。
何度も死にかけた。
魔物の気配を見つけては岩陰に隠れ、息を殺し、震えながらやり過ごす。
村人は能力も力もない。
そんな自分が魔物と戦うなど、自殺と変わらない。
だから逃げ続けた。
ただ生きるためだけに。
「(何故……俺が……)」
岩壁に寄りかかり、上を見上げると変わらず闇が広がっていた。
目を閉じて、あの時の流れる映画のフィルム用に思い出す。
クラスメイトの中に混ざり、美空の後ろからこちらを見ていた板野の不気味な笑み。
今思えば、あの時点で違和感はあった。
あの笑顔は偶然じゃない、最初から俺を陥れるつもりだった。
そして、胸に向かって後ろから剣を突き刺した、もう一人の板野。
影のような漆黒の兜で顔は見えなかった。
だが、あの声だけは間違えようがない。
皮肉にも、散々聞かされてきた声だったからだ。
「(どんな手を使った……?)」
荒い呼吸を整えながら考える。
今度は頭の中に、写真を一枚一枚取り出すような形で、当時の事を整理する
分身か?そうとしか思えなかった。
だが、板野の職業は忍者じゃない、確か剣士だったはず。
なら、あれは本当に分身だったのか?
誰か別の人間だったのか、それとも俺の知らないスキルか。
分からない、情報足りなさすぎる。
けれど、もし、あれをもう一度使えるなら。
「(美空が……危ない……一樹も……)」
あの目の狂気はきっと、周りを巻き込む。
板野が何故、あそこまで狂気的になったのかは分からない。
しかし、野放しにすれば、美空の周りにいる奴ら、関わった奴が傷つく。
きっと、美空も、一樹も佐野も――。
「……」
ふと、頭の中に最悪な光景が浮かんだ。
俺と同じように胸を貫かれ、地面に横たわり血の池に溺れる一樹と佐野。
泣きながら穢され助けを求める美空。
一緒にもとに帰るはずだったクラスメイト達が死体の山になる光景
そして、それを見下ろしながら絶景だと愉悦に浸り笑う板野。
「(……っ)」
心臓が嫌な音を立てる。
違う、そんな未来、あってたまるか。
一樹は俺の親友だ。
佐野も美空だってそうだ。
「(許せねえ……俺の友達を……親友を……!)」
あいつらまでもが、未来の俺の姿になるなんて絶対に認めない、認めてたまるものか!
胸の奥で、凄い力で何かが切り替わる。
バチンッ
「(諦めねえ……俺は絶対に諦めねえぞ……!)」
その瞬間だった。
荒れ狂っていた感情が、不思議なほど静まっていく。
恐怖も、絶望も、焦りも消えた訳じゃない。
ただ、それら全てが一つの感情へと収束していく。
——怒り。
板野への怒り。
自分の無力さへの怒り。
何も出来ずに死んだ自分への怒り。
そんな純粋な怒りが、胸の奥で煮えたぎるそれは、暴れる炎ではなく、静かに燃え続ける炉火のようだった。
死にかけていた心の灯火が、その怒りを薪にして再び燃え上がり、再び鉄を叩く。
濁っていた視界が鮮明になり、乱れていた呼吸が整う。
震えていた身体から無駄な力が抜けていく。
「……待ってろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
生きて戻る。
そして——必ず強くなる。
強く握り締めた拳から血が滴る。
黒杉は壁を殴った。
一度、二度、三度。
怒鳴り散らすこともない。
泣き叫ぶこともない。
ただ、胸の奥で燃え続ける怒りだけが、その拳を動かしていた。
岩壁には徐々に血が染み広がっていき、いつの間にか血が足元まで池のように溜まっていた。
黒杉は再び、板野の不気味にあざ笑う顔を思い出す。
「クッソ!! 腹立つ!!」
胸の奥から込み上げる怒りが収まらない。
ふざけるな……ふざけんなよ……!
クソッ!!クソッ!!!
自分のくだらない欲のために、美空と一樹を傷つけようとしているのか?
俺を殺しただけじゃ飽き足らないのか?
アイツの思惑通りになんて、させてたまるものか……!
板野の笑みが脳裏に焼き付く。
何度も、その度に胸の奥で何かが軋む。
「――殺す」
気づけば口から零れていた。
今までなら考えもしなかった言葉。
争いなんて嫌だった。
誰かを傷つけるのも嫌だった。
だからずっと避けてきたし、我慢してきた。
笑って誤魔化してきた。
けれど、アイツだけは違う。
あいつは俺の地雷、いや以上に俺にやってはいけないことをした。
アイツだけは許せない。
絶対に殺す。
コロス……コロスコロス……コロスッ……!!
誰よりも惨たらしく殺す。
お前が俺にやったように、お前が奪ったものを、全部思い知らせてやる。
生き残ってやるさ、絶対に生きて帰ってやる。
アイツに復讐するために。
俺は諦めねえ。
どんな事をしたって帰ってやる……!
元の世界に絶対帰ってやる!
何が勇者だ!何が救ってくれだ!!そんな事……知ったことか!!
勝手に呼び出しておいて、俺一人だけ死んだことになってると思うと、スッゲェ腹立つ。
だったら、そっちがその気なら。
俺は俺のやり方で生き残る。
俺は自分の手で元の世界に帰ってやる!!
「俺はアイツを許さない。絶対に許さない。世界なんて知るか……一樹、美空、佐野……会いてぇよ……」
言葉を吐き出した瞬間だった。
胸の奥で何かが蠢くどす黒い感情。
怒りとも違うし、憎しみとも違う。
もっと粘ついていて、冷たくて、底の見えない何か。
「……なんだよ、これ」
気持ち悪い、本来なら拒絶するはずだった。
なのに――。
その感情は"甘かった"。
身体の奥へ染み込むように広がっていく。
傷口から毒が流れ込むみたいに、心の隙間を埋めるみたいに。
「(殺したい……)」
思わず浮かんだ考えに自分でも息を呑む。
違う。
俺はこんなことを考える人間じゃなかった。
誰かを殴ることすら嫌だった、争うのも嫌だった。
なのに今は、板野が苦しむ姿を想像すると、少しだけ胸が軽くなる。
その事実が何より恐ろしかった。
それでも感情は止まらない、止まってくれない。
どす黒い何かは心の奥へと沈み込み、静かに根を張っていく。
まるで最初からそこに居場所があったかのように。
ふと周りを見ると、いくつか武器が落ちていた。
この谷で命を落とした者達のものだろう。
風化した骨が、あちらこちらに転がっている。
どれも名も知らない誰かだ。
どんな人生を歩んできたのかも分からない。
だが、最後まで、その武器だけは手放さなかったらしい。
黒杉はしばらく無言でそれらを見つめる。どこか他人とは思えなかった。
そして、小さく呟いた。
「俺に……力を貸してくれ」
地面に落ちていた剣を手に取る。
冷たい感触が掌に伝わる。
誰の物だったのかは分からない。
けれど、この場所で朽ち果てるよりはいい。
いつか、この剣をアイツに"返す為"に腰へ装着した。
ふらつきながら歩き続けると、ある場所にたどり着く。
「何だここは・・・」
思わず足を止めた。
こんな谷の底だというのに、そこだけ別世界のようだった。
青々とした草が地面を覆い、木々が枝を広げている。
岩と闇ばかりだった景色の中で、そこだけ色彩を取り戻したような空間だった。
普通ではありえない。
まるで誰かが意図的に作った庭園のようですらある。
これは魔素で育った自然なのだろうか?
木を見上げると、枝には丸い実や歪な形をした実が鈴なりに実っていた。
そして、甘い香りが風に乗って鼻をくすぐる。
「・・・ッ!まさかこれは!果物!?」
その瞬間、胃が激しく収縮した。
空っぽだった腹が悲鳴を上げる。
身体中がそれを食えと叫んでいた。
勢いよく果物へ飛び付き、そのまま齧りつく。
果汁が口いっぱいに広がった。
甘い、ただ甘いだけなのに、涙が出そうになる。
今まで食べたどんな料理よりも美味く感じた。
ひとまず、空腹で死ぬことはない。
食べるのに夢中で気づかなったが、何かが流れる音がした。
まさかだと思い、音の方に向かうと、そこには・・・。
「水……」
目を見開く。
「水……水だ……!」
死を宣告された人間が、生存の可能性を見つけたような気分だった。
乾き切った喉が震える。
身体中の細胞が歓声を上げているようだった。
砂漠でオアシスを見つけた旅人は、きっとこんな気持ちだったのだろう。
「水……水もある!!!」
黒杉は転ぶように駆け寄る。
両手で掬い、そのまま口へ流し込んだ。
冷たい。
ただそれだけなのに、また涙が出そうになる。
森を抜けると、何処まで続いているのか分からない長い滝と湖が広がっていた。
黒杉は7日間飲まず食わずの生活が続いたのだ。
すぐさま手で掬い、水を飲み始める。
乾き切った喉を冷たい水が流れていく。
身体中に染み渡る感覚に思わず息を吐いた。
熱を帯びていた頭が少しずつ冷えていく。
改めて、自分がまだ生きていることを実感した。
ふと周囲を見回すと、見たことのある植物が地面に生えていた。
「薬草だ・・・」
黒杉はこの世界で知識を身に着けようと図書室で勉強をしていた。
地面に生えていたのは本で見たことのある薬草だった。
薬草を摘み口へ入れる。
すると、みるみると身体の傷が治っていく。
折れていたであろう骨の痛みも消えていた。
「な・・・!?」
それもそうだ。
普通の薬草ならここまで回復するわけがない。
かすり傷ならまだしも、明らかに致命傷と思われる傷まで回復していく。
黒杉は自分の身体を見下ろした。
さっきまで支配していた焦りや絶望が少しずつ薄れていく。
空腹も満たされ、水もあるし、傷も治る。
今なら冷静に考えられる。
「・・・生きられる」
そう呟いた後、周囲を見渡す。
果物がある。
水もある。
薬草もある。
少なくとも――すぐに死ぬことはない。
「これなら・・・しばらく暮らしていける!」
生きられる。
まだ、生きられる――!。
そう言って黒杉は果物を取ろうとすると、ガサガサと音がする。
音の方を振り向くと、魔物が涎を垂らしながら黒杉を見つめていた。
「グルルルルッ・・・」
「ッ!?」
気配もなく、いつの間にか魔物に囲まれていた。
あまりのも、奇跡的な状況に目の当たりしたせいか、完全に油断をしていた。
ここは俺たちの縄張りだと言わんばかりに牙を剥く。
「ック・・・! 折角生きたんだ! 俺はまだ死ねない!」
そう言って黒杉はそこらへんに落ちていた短刀を取り出す。
狼のような魔物は全部で五匹。
正直、この状況は詰んでいる。
普通ならそう思。
だが、不思議と恐怖は無かった。
いや、感じる余裕が無かっただけ。
生きる。
その一点だけが頭の中を支配していた。
死にたくない、生きたい。
その動物的な生存本能からくるものだろうか、"異様"な自信と執着が沸き立つ。。
狂ってしまったのだろうか?
否、至って正常であり"合理的"な行動をしたまで。
固い決意をした時だった。
一匹の狼が地面を蹴り、一気に間合いを詰める。
大きく開かれた牙。
狙いは首、普通なら避ける。
だが黒杉は違った。
躊躇いなく片腕を差し出す。
ガブリ、と肉を噛み千切る音が響く。
激痛が体中に巡ると同時に、身体一つ一つの神経が覚醒するようにうごっき始まる。
痛みすら頭の奥で遠く感じ、嚙みついたオオカミの眼を見つめ言う。
「――捕まえた」
狼が異変に気づいた時には遅かった。
噛み付かせたまま喉元へ短刀を突き立てる。
一突き――。
人間の急所って、70ヶ所以上あるらしい。
それはどんな動物も例外なく共通して、一ヶ所狙うだけで"簡単"に命を奪うヶ所がいくつか点在する。
どんなに大きく格上でもだ。
血飛沫が舞う。
狼は断末魔も上げられず絶命した。
「クッソ……いてぇなぁ・・・!」
そう言いながらも、黒杉のギラついた目はまだ死んでいない四匹を見ていた。
怯えもなく、怒りもない。
ただ、生き残るための計算だけがあった。
拾った薬草を噛み千切る。
腕の傷が徐々に塞がっていく。
その光景を見た狼達が僅かに後退った。
まるで――どちらが魔物なのか分からなくなったかのように。
「来いよ!犬ども!!お前ら全部ぶっ殺してやる!!」
そういうと、狼は威嚇して、2体同時に攻撃してくる。
突進してくる一匹は避けたが、もう一匹は脇腹に噛みついた。
グルルと音をならし、さらに強く噛みき、牙が食い込むと血が吹き出した。
抉られるそうな脇腹の痛みを耐えながらナイフを構える
「グァアアアアアアアア!? ふ……ざけるなぁ!!!!」
脇腹を食い破られる激痛に叫びながらも、黒杉の目は狼から逸れない。
牙の位置、頭の角度、首の動き。
怒りで頭は焼け付いている。
それでも身体だけは冷静だった。
「死ねぇぇぇ!!」
短刀を振り下ろす。
狙ったのは脳天、頭蓋の薄い部分を狙うように何度も突き立てる。
狼は痙攣し、力を失った。
既に絶命している。
それでも黒杉の腕は止まらない。
何度も、生き返らないと理解できるまで。
短刀を突き立て続けた。
その時だった。
残っていた一匹が飛び掛かる。
ガブッ――!
短刀を握る右腕へ牙が食い込んだ。
激痛と共に短刀が手から零れ落ちる。
「邪魔だ……!」
狼がさらに噛み砕こうと顎へ力を込める。
その瞬間、黒杉は狼の首根っこを掴んだ。
「邪魔だ!! 邪魔だ!! 邪魔だァァァ!!」
岩壁へ叩き付ける。
狙うのは頭部、脳を揺らすように、首の骨を砕くように。
何かが割れる音が聞こえると同時に、狼の身体からは、もう抵抗する力すら感じられなかった。
しかし腕が止める子を許さなかった。
ドガッ!ドガッ!ドガッ!
生存を邪魔する怒鳴り止まらない。
しかし狙いだけは外さない。
そして十回目。
何度目かの衝突で、生物としての形を維持できず、首は不自然な方向へ折れ曲がっている。
ようやく黒杉は狼が完全に死んだことを確認した。
そして、残りの二匹へ向かって睨みつける。
黒杉の全身は血塗れだった。
脇腹から流れた血、腕を噛み千切られた傷。
拳には狼の血と自分の血が混じって付着している。
それでも立っていた。
それどころか、一歩前へ踏み出す。
狼達は明らかに狼狽えていた。
たった一人の弱そうな人間。
本来なら獲物でしかない存在が、自分達の同胞が三匹も殺された。
しかも、目の前の人間はまだ戦う気でいる。
その瞳には恐怖も怯えも無い。
獲物を見る目ではない、生き残る為だけの殺す相手を見る目だった。
「・・・・・・」
狼達は低く唸る。
だが、その声には先程までの威勢が無かった。
本能が警鐘を鳴らしている。
これ以上近づけば死ぬ。
目の前にいるのは獲物ではない、もっと別の何かだと。
そして二匹は堪えきれず踵を返した。
逃げるように森の奥へ消えていく。
「ハァ・・・ハァ・・・クソッ!」
壁を殴ったあと、薬草を飲み込んだ。
傷はみるみる治っていき、傷跡も消えていく。
しかし出血したことによって血が足りない。
視界が少し揺れた。
流石に血までは再生されない、身体から力が抜けていく。
緊張で無理やり動かしていた身体が限界を訴えていた。
腕は重いし、脚も上がらない。
頭もぼんやりする。
今なら子供に押されただけでも倒れそうだった。
落ち着いた所で黒杉は水辺の近くまで歩く。
安全になったことを確認すると、その場へ倒れ込むように横になった。
冷たい地面が気持ちよかった。
瞼が鉛のように重い、抗う気力すら残っていない。
そのまま目を閉じると、深い眠りへ落ちていった。
―――――
久しぶりに見るな。
夢の中だ。
周りを見ると、いつもの少女がいた。
―――――――待ってる
いつものだ。
なぁ、あんたは何なんだ?
―――――私は、私は・・・ごめんなさい・・・
そう言うと、悲しそうに俯く。
なんで悲しそうなんだろう。
なんで謝るんだ?
別に悪いことしていないんだろ?
黒杉は小さく息を吐く。
今までは分からないまま終わっていた。
だが今回は違う。
「なぁ、せめて名前だけでも教えてくれないか」
―――――私は、私の名前は■■
聞き取れなかった。
またか、黒杉は思わず眉をひそめる。
少女は光か闇か分からないものへ吸い込まれていく。
消える前に、黒杉は無意識に手を伸ばした。
「待て――」
届かない。
そのまま視界が白く染まり――。
黒杉は目を覚ました。
「また、あの夢か。」
そう言って起き上がる。
どれぐらい経ったのだろうか。
身体は驚くほど軽かった。
薬草と果物のおかげか、全身を蝕んでいた疲労がかなり抜けている。
傷の痛みもほとんど無いし、空腹も収まっていた。
不思議と力が湧いてくる。
まるで死の淵から引き戻されたような感覚だった。
「・・・生きてるな」
自然とそんな言葉が零れる。
七日前までは当たり前だったことが、今は妙に嬉しかった。
視線を向けると狼の死体が残っている。
「狼の死体が残ってるな・・・」
黒杉は狼の死体を担ぎ、安全な場所で皮を剥ぐ。
意外と慣れた手付きで捌いていた。
家で料理や家事はよくしていたが、皮を剥ぐのは初めてだ。
これも器用さの影響なのだろうか。
短刀が滑るように動き、肉を切り分ける。皮を剥ぐ。
作業する度に上達している気さえした。
生きるための技術を身につけている。
その実感が妙に心地良い、こんな状況だというのに。
「・・・」
気付けば口元が少し緩んでいた。
この世界に来てから初めてだった。
心の底から――少し楽しいと思えたのは。
「ふふーん」
鼻歌を歌いながら、狼の皮を丁寧に剥いでいく。
腹を裂き、内臓を取り出す。
肉を傷付けないよう慎重に解体しながら、不要な部分だけを切り離した。
血抜きも忘れない、血が残れば臭みが出るし腐敗も早くなる。
せっかくの食材を台無しにする訳にはいかなかった。
切れ込みを入れると、赤黒い血がゆっくりと流れ落ちる。
それを見ながら黒杉は満足そうに頷いた。
「うんうん、やっぱり下処理は大事だよな」
まるで狩人ではなく料理人だった。
十分に血を抜いた後は、水辺まで運ぶ。
冷たい流水で丁寧に洗い流すと、肉本来の色が姿を現した。
鮮やかな赤身、適度に乗った脂。
魔物の肉なのに空腹のせいか、それだけで胃が鳴る。
「おぉ……これは期待できるぞ」
思わず頬が緩む。
その後、周囲を散策する。
果実、香草、食べられそうな木の実。
一つ一つ確認しながら集めていく。
やがて手頃な石を見つけると、黒杉はそれを積み上げ始めた。
風が抜ける隙間を作りながら組み上げられた石の炉。
即席とは思えない出来栄えだった。
「村人なめんなよ」
拾った枝に火を点ける。
パチパチと音を立てながら炎が育っていく。
やがて炉の内部は赤く熱を帯び始めた。
「さて、仕上げといこうか」
木の実を細かく刻む。
果汁が溢れ、甘酸っぱい香りが漂う。
それを石皿代わりの平たい岩の上で潰していく。
簡易ソースの完成だ。
「醤油も塩も無いなら無いなりに工夫するしかない」
そして肉を炉の上へ置いた。
ジュゥゥゥ――。
表面から脂が滲み出す。
滴った脂が火に落ちる度、香ばしい煙が立ち上る。
焼ける音だけで腹が減る。
肉の表面には綺麗な焼き色が付き始めていた。
香りだけなら既に満点だ。
「やばいな……腹減りすぎて倒れそうだ」
黒杉はごくりと唾を飲み込む。
肉をひっくり返す。
今度は反対側が焼かれていく。
こんがりと色付いた表面、溢れる肉汁、そこへ木の実のソースを絡める。
甘酸っぱい香りと肉の香ばしさが混ざり合い、食欲を容赦なく刺激した。
完成した料理を、口の中に入れた。
「うまっ……」
思わず声が漏れた。
表面は香ばしく焼けていて、中からは熱い肉汁が溢れ出す。
噛む度に濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、その後を木の実の甘酸っぱさが追いかけてきた。
野性味のある肉の香りと果実の風味が意外なほど相性が良い。
「なんだこれ……普通に店出せるんじゃないか?」
冗談混じりに呟く。
気付けば二口、三口と手が止まらない。
空腹だったこともあるだろう。
だが、それを差し引いても美味かった。
久しぶりに食べる温かい料理に感じる満腹への期待。
それだけで、少しだけ生き返った気がした。
「やっぱり料理は下処理だな……」
そんな結論に至りながら、黒杉は夢中で肉へかぶりついた。
「はあ、なんというか自分の環境適応が恐ろしく感じるよ」
そう言って苦笑しながら、彼は食事を終えた。
生きるためとはいえ、つい先ほどまで魔物だったものを平然と口にしている自分に、どこか複雑な気分になる。
「そういや、あっちの方は探索してなかったな」
呟きながら立ち上がり、まだ足を踏み入れていない通路へと視線を向ける。
七日間。
死ぬことだけは考えなかった。
生きるために足掻いて。
怒って、苦しんで。
それでも、まだここに立っている。
「……行くか」
黒杉は未探索の通路へと足を踏み出した。
しばらく、一時間ほど歩き続けた。
進むにつれて道幅は徐々に狭くなり、岩壁が両側から迫ってくる。
この先は行き止まりなのではないか――そんなことを考え始めた頃だった。
ふいに視界が開ける。
「なんだこれ?」
思わず足を止めた。
開けた空間の中央には、巨大な扉がそびえ立っていた。
あまりにも大きい。
黒杉の身長など比較にならないほどの高さがあり、その存在感だけで周囲の空気を支配しているようだった。
そして、その扉へ続くように無数の柱が並んでいる。
まるで誰かを迎え入れるための参道のようにも見えた。
「こんな場所に遺跡みたいなのがあるのか……?」
警戒しながら近づく。
柱には所々文字が刻まれていた。
だが、やはり読めないが、ただの落書きではないことだけは分かった。
何か意味がある、儀式に使われた文字だろうか?
それとも何かを封印するとかに使われたりとかだろうか?
柱の数を数える……。
「13本?」
そのうちの一本だけが折れており、酷く風化していた。
普通はこういうのは偶数なのではないだろうか?
いや、偶数とは限らないか。
だが言えることは、これは"意図的"に作られたものだということ。
「もしかして、何かを"信仰"していたってことか?」
そう考えると、この柱の配置にも説明がつく。
だが、なら何故一本だけ壊れている?
「でも信仰してたものを、何故わざわざ壊すんだ?」
そんな罰当たりなことを普通はしないだろう。
ましてここは異世界だ。
もしかしたら、本当に"神"が実在していたかもしれない。
それをわざわざ怒らせるような真似をするだろうか。
「いや……」
かなり頭が狂っているか。
あるいは――。
神に対して深い"憎しみ"を抱いていたか。
「それなら全部壊してもおかしくないよな……」
他に起こりうる可能性としては……。
「"裏切られた"のか……?」
そう呟く。
断定はできない。
だが、自分と"鏡写し"みたいなこの場所に親近感を覚える。
まるで、自分も同じように何かに裏切られた存在だからだろうか。
無意識に、この場所が自分と何か縁のある場所のように思えた。
「……いや、流石に考えすぎか」
そして、その文字を見ているうちに妙な違和感を覚えた。
このうねうねした文字……。
「うーん……どこかで見たことあるんだよなぁ」
眉をひそめながら記憶を辿る。
この世界に来てから見た文字など数えるほどしかない。
だからこそ引っかかった。
しばらく考えていると、不意に脳裏へ一つの光景が浮かぶ。
「……あっ」
ケルベロスだ。
あの化け物と戦う前に見た文字とよく似ている。
「まさか、ケルベロスだから冥府の文字だったりしてな」
半分冗談のつもりで呟く。
だが、笑えなかった。
実際、この谷の異様さを考えれば有り得ない話とも言い切れない。
黒杉は慎重に柱の間を進み、巨大な扉の前へ立った。
近くで見ると、その威圧感はさらに増している。
扉の表面にも文字が刻まれていた。
しかし今度は柱の文字とは少し違う。
より複雑で、どこか神聖さすら感じる奇妙な文字列だった。
冷たい。
まるで長い年月、誰にも触れられることなく眠り続けていたかのような冷たさだった。
「さっぱり読めないな……」
文字の意味は分からない。
だが、不思議とこの扉が普通のものではないことだけは理解できた。
「しかし、なぜこんな所に扉があるんだ?」
黒杉は扉に触れる。
見た目に反して重さは感じない。
開けられる。
唾を飲み込む。
ズズズ……。
重々しい音を立てながら扉がゆっくりと開いていく。
暗闇を想像していた。
だが――。
「……は?」
思わず声が漏れた。
そこにあったのは、洞窟の奥とは思えない光景だった。
空間の中央には赤く妖しく光る巨大な魔法陣が刻まれている。
その周囲には幾重もの鎖が張り巡らされ、まるで何かを封じ込めるために作られた檻のようだった。
そして――。
"あの"少女がいた。
どこか、見たことがある。
夜空に浮かぶ月光を編み込んだ銀髪。
熾火を閉じ込めたようなルビー色の紅い瞳。
雪解けのように儚い白い肌。
顔立ちは少し幼く見えるのに、不思議と大人びた雰囲気を纏っていた。
少女は鎖に繋がれたまま静かに俯いている。
「…………」
何故だろう。
初めて見るはずなのに、胸の奥がざわついた。
まるでずっと前から知っていた誰かに再会したような感覚。
音に気づいたのか、少女はゆっくりと顔を上げる。
そして、こちらを見た。
目が合う。
その瞬間だった。
時が止まったような気がした。
同時に、時計の歯車のパーツがカチリと噛み合う音が聞こえる。
歯車は軋むような音を鳴らしながら、ゆっくりと動き出した。
今まで見てきた膨大な夢の記憶。
その全てが津波のように脳裏へ押し寄せる。
「あ……」
思わず声が漏れる。
間違いない、夢の中で何度も見てきた少女だった。
すると少女は弱々しく口を開く。
「貴方は……誰?」
掠れた声だった。
不思議そうに、じっと黒杉を見つめている。
敵意はない。
その紅い瞳を見ていると、何故だか心が落ち着いた。
初対面のはずなのに、いつの間にか、自分が警戒していないことに黒杉は気付く。
そして同時に、胸の奥で一つの疑問が浮かんだ。
――何故、この少女はここにいるんだ?
「あんたこそ、そこで何をしていんだ?」
「私は・・・」
そう何かを言おうとすると俯く
「どうした、何処か悪いのか?」
「ううん、違うの」
「じゃあ、なんだ」
黒杉はもどかしく感じるが、彼女が答えるまで待つことにした。
しばらくの沈黙の間、彼女はゆっくり口を開ける。
「わからない・・・」
「わからない?」
「うん、なんでこんな所にいるのも、なぜ私は生きているのかも、ここにいるのかも・・・わからない」
そう言うと少女は小さく俯いた。
黒杉はその顔を見つめる。
綺麗な顔立ちだった。
だが、その表情には年相応の感情がほとんど浮かんでいない。
無表情、けれど本当に何も感じていない訳ではない。
僅かに伏せられた瞳。
力なく揺れる睫毛に微かに震える唇。
ほんの些細な変化だったが、それだけで分かった。
彼女は悲しんでいる。
「・・・・・・」
記憶を失っているのか。
自分が誰なのかも。
何故ここにいるのかも、何一つ分からないまま、この場所に閉じ込められていたのだろうか。
憶測になってしまうが、彼女も過去に誰かへ裏切られたのだろうか。
そう考えると、なんだか他人事には思えなかった。
黒杉はもう一度少女を見る。
紅い瞳の奥には諦めとも違う、言葉にできない寂しさのようなものが見えた。
その姿が妙に胸に引っ掛かる。
ただ、どうしたらいいのか分からない。
何を言えばいいのかも分からない。
結局、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
「そうか・・・」
「うん、だけど・・・なんだか、寂しい・・・何も覚えてないのに、何もしてないのに・・・おかしいよね」
気の利いた言葉も言えず、情けなく思えてきた。
少女は静かに語る。
「だけど、寂しくても・・・良いような気がする。それで皆が救われる・・・殆ど記憶にないけど、誰かが言ってた気がする」
「・・・」
「ご、ごめんね・・・? 急に変な話をしちゃって・・・困ったよね?」
少女は黒杉の顔色をうかがうように見ていた。
目が合う。
今度は儚げな笑みを浮かべたあと、力なく項垂れた。
身体は小さく震えている。
寂しい、孤独、それでも良い。
そんな諦めかけた言葉が、自分の胸へ深く突き刺さった。
「・・・・・・」
分かってしまった。
何故かは分からない。
けれど、その言葉だけは痛いほど理解できた。
誰にも助けてもらえないこと、気付いてもらえないこと。
一人で我慢し、諦めること。
たった七日。
それだけなのに、自分は嫌というほど味わった。
死ぬかもしれない恐怖も、誰も来ない絶望も、助けを求めても届かない孤独も。
全部知っている。
だからだろうか、初対面のはずなのに、他人とは思えなかった。
まるで、自分と同じように置き去りにされた存在を見ている気がして。
胸の奥が少しだけ苦しくなったと同時に"怒り"を覚える。
黒杉はしばらく考え、改めて少女の姿を見る。
足には枷が嵌められ、鎖によって繋がれていた。
逃げられないようにするためなのか、しっかりと固定されている。
今更ながら気付いた。
服も酷い状態で、所々破れている。
薄布が辛うじて身体を覆っているだけ。
洞窟の冷たい空気の中では、とてもまともな格好とは言えなかった。
「ったく、風邪ひくぞ」
黒杉は肩を竦める。
そう言って、自分が身に着けていたボロボロのローブを脱ぐと、そっと少女の肩へ掛けた。
少女は少し目を丸くする。
「なにしているの?」
「何って、そんな状態だと風邪ひくだろ?」
「風邪……」
少女は胸元のローブへ視線を落とした。
まるで初めて受け取った贈り物を眺めるように、ぐっと布を握る。
そして、おずおずと顔を上げる。
「心配してくれるの?」
「まぁ、そうだな」
深く考えたわけじゃない。
放っておけなかった。
ただ、それだけだ。
「……」
少女はしばらく黒杉を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「ふふっ」
それは先程まで浮かべていた悲しそうな笑みとは違う。
無理に作った笑顔でもない。
年相応の、どこにでもいる少女の笑顔だった。
紅い瞳が柔らかく細められる。
その瞬間だけ、彼女を覆っていた寂しさや諦めが少しだけ薄れたように見えた。
「ありがとう」
小さな声だった。
けれど、その一言は妙に胸に残った。
黒杉は思わず息を吐く。
気付けば、自分も少し笑っていた。
さっきまで張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「ありがと。そういえば、貴方の名前を聞いてなかった」
「俺か? 俺は黒杉 楊一だ。楊一が名前だ」
「ヨウイチ?」
「そうだ」
少し発音はたどたどしかったが、すぐに名前を覚えてくれた。
少女は黒杉の名前を何度も復唱する。
「ヨウイチ……ヨウイチ……ふふっ」
「なんで笑うんだ?」
「いえ、人の名前を呼ぶなんて久しぶりな気がするの。それがちょっと嬉しくて」
「そっか……」
不思議だった。
ただ名前を呼んだだけ。
それだけなのに、少女は本当に嬉しそうだった。
まるで大切な宝物を見つけたみたいに。
「ずっとここに閉じ込められてたのか?」
「気づいたらここにいた……そうしたら……何年も過ぎていった。それが何年なのかも分からないぐらいに……」
「記憶はないのか?」
「うん……何も覚えてない……」
少女はローブの裾を小さく握る。
その仕草は何処か心細そうだった。
「……」
黒杉は言葉を失う。
この子はずっと孤独のまま、ここにいたのか。
こんな暗い部屋で。
記憶もなく、誰とも話せず、一人きりで。
それも、何かを待ちながら、宛てもなく。
記憶にすら残っていない"何か"を。
「ヨウイチ」
不意に名前を呼ばれた。
顔を上げる。
少女はいつの間にかこちらを見ていた。
紅い瞳と目が合う。
「なんだ?」
「なんでもない」
少女は小さく微笑む。
けれど、その笑顔はどこか嬉しそうだった。
まるで名前を呼べる相手がいること自体が、彼女にとって特別なことみたいに。
黒杉は少しだけ視線を逸らす。
何故だろうか、さっきまで寒かった洞窟の空気が、ほんの少しだけ温かく感じた。
「そういや、あんたの名前聞いてなかったな」
「私は、私は……」
少女は言いかけて、ふと口を閉じた。
そして視線がゆっくりと下へ落ちる。
「ごめんなさい……わからない……」
小さく呟く声は、どこか申し訳なさそうだった。
長い睫毛が伏せられ、肩が僅かに落ちる。
まるで叱られた子供のようにしゅんとしていた。
「そっか、んー、名前がないのも不便だな」
「……」
少女は何も言わない。
ただ膝の上で指先をぎゅっと握りしめる。
自分でもどうしようもないことなのに、どこか落ち込んでいるようだった。
その姿は妙に小さく見えた。
先ほどまで見せていた笑顔も消え、紅い瞳はどこか不安そうに揺れている。
名前すら思い出せないし、自分が誰なのかも分からない。
それがどれほど心細いことなのか、黒杉には想像もつかなかった。
それでも、今にも耳が垂れそうなほど落ち込んでいる姿は、少しだけ可愛らしく見えてしまった。
黒杉は頭を捻りながら考える。
ふと、元の世界にいた母さんのことを思い出した。
そういや、母さんの好きな花は――。
「アイリス」
「アイリス……?」
少女は小さく首を傾げる。
「そうだ。今日からアイリスだ。俺がいた世界じゃ花の名前なんだ」
「アイリス……」
少女は確かめるようにその名前を口にした。
まるで壊れ物を扱うみたいに。
「花言葉は――幸せは必ず来る」
その言葉を聞いた瞬間だった。
アイリスは目を丸くする。
紅い瞳が揺れた。
そして、自分の胸にそっと手を当てる。
まるで大切な宝物を抱きしめるみたいに。
「……素敵な花言葉だね」
掠れるような声だった。
けれど、その言葉には確かな喜びが滲んでいた。
「まぁ、元々はカキツバタって花なんだけどな」
「カキ……?」
「カキツバタ」
「かきつ……ば……た……」
途中で噛んだ。
アイリスは少しだけ眉を寄せる。
「難しい……」
「だろ? だから女の子にその名前はちょっとあれかなって」
「ふふっ」
小さな笑い声が漏れる。
先ほどまでの沈んだ表情が少しだけ和らいだ。
「他の国じゃアイリスって呼ばれてるんだ。ちなみに由来は虹らしい」
「虹……?」
「ああ。空に七色の橋が広がるんだよ」
アイリスは目を瞬かせる。
知らない景色を想像しているのだろう。
紅い瞳が僅かに輝いた。
「それは……素敵……」
ぽつりと呟く。
そして。
「アイリス……」
もう一度、自分の名前を呼ぶ。
今度は誰かを真似するみたいではなく。
確かめるように、愛おしむように。
「アイリス……」
少女の唇が緩み、ふにゃり、と。
今まで見た中で一番柔らかい笑顔だった。
嬉しいのだろう。
名前を貰ったことが、自分が誰かになれたことが。
黒杉はそんなアイリスを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「気に入ったか?」
「うん」
アイリスは何度も頷く。
そして少しだけ照れたように視線を逸らした後、小さく呟いた。
「ありがとう、ヨウイチ」
その一言が妙にくすぐったくて。
黒杉は思わず頬を掻いた。
身体をモジモジさせながら、黒杉の顔を見る。
アイリスは何か言いたそうだった。
「聞きたいことでもあるのか?」
「ヨウイチは何故ここにいるのって聞きたかった……」
「あぁ、なるほどね」
黒杉はアイリスの隣へ腰を下ろした。
そして、自分のことを話し始める。
別の世界から来たことや、勇者召喚に巻き込まれたこと。
ここへ来てから修業していたこと。
そして、仲間だと思っていた相手に裏切られたこと。
谷底へ突き落とされたこと。
ぽつり、ぽつりと、誰かに聞かせるつもりもなかった話を、気付けば全部話していた。
何故だろう。
アイリスになら話してもいい気がした。
アイリスは途中で口を挟まない、ただ静かに聞いていた。
時々悲しそうに眉を下げたり、驚いたように目を見開いたり。
怒ったように頬を膨らませたりする。
表情がころころ変わって、それが少しだけ可笑しくて、黒杉は思わず笑いそうになった。
全部話し終える頃には、胸の中が少し軽くなっていた。
「ヨウイチ、悪くない……頑張った」
アイリスは涙ぐみながらそう言った。
まるで自分のことのように。
「……あぁ、そうだな」
黒杉は小さく笑う。
「でも俺は弱いし、仕方ない」
そう言った瞬間だった。
アイリスの表情が曇る。
紅い瞳がじっと黒杉を見つめた。
「ヨウイチ……悲しい顔してる……」
「え?」
言われて初めて気付く。
自分では笑っているつもりだった。
だけど本当は違ったのかもしれない。
その時、アイリスがそっと身体を寄せてきた。
「アイリス?」
小さな腕が黒杉の頭を優しく抱き寄せる。
抵抗する暇もなかった。
ふわり、と銀髪が頬に触れる。
「大丈夫……」
優しい声だった。
まるで泣いている子供をあやすみたいに。
「弱くなんてないよ」
頭を撫でる手はゆっくりだった。
一本一本の髪を梳くように。
傷付いた心を癒やすように。
「ヨウイチは諦めずに、皆の為に頑張ってたんだから……」
その言葉が胸に沁みる。
誰も言ってくれなかった言葉だった。
誰かに認めてほしかったのかもしれない。
頑張ったなって、生きてていいんだって。
その一言が欲しかったのかもしれない。
アイリスの手は少しひんやりしていた。
けれど不思議と心地よかった。
七日間。
誰とも話せなかった、誰にも頼れなかった。
そんな黒杉にとって、その温もりはあまりにも優しかった。
だから少しだけ、本当に少しだけ、張り詰めていたものが緩んだ。
しばらくして、アイリスは名残惜しそうに腕を離した。
「ありがとう、アイリス」
「うん、私も誰かと話せてよかった」
しばらく沈黙が続く。
不思議と居心地の悪さはなかった。
静かな空間に聞こえるのは、互いの呼吸だけ。
やがて、アイリスが小さく口を開いた。
「私……ヨウイチと一緒にいたい」
「俺と?」
思わず聞き返す。
「力もないし、何もできないぞ?」
「それでも……良い」
アイリスは黒杉を真っ直ぐ見つめた。
紅い瞳に迷いはない。
「ヨウイチと一緒に行きたい」
「……」
黒杉は黙る。
改めて周囲を見渡した。
見たことのない文字、不自然に並ぶ柱。
そして、アイリスの足を繋ぐ枷と鎖。
嫌でも分かる。
この少女はここに閉じ込められていた。
いや、封印されていた。
何のために?誰が?
それは分からない。
だが、こんな大掛かりな封印だ。
きっと理由がある、外せば面倒なことになる。
そんなことは考えるまでもなかった。
もしかしたら厄災かもしれないし、世界を滅ぼす存在かもしれない。
だから封じられたのかもしれない。
「……」
だが――。
(本当にそれでいいのか?)
黒杉はアイリスを見る。
寂しそうに、何もかも諦めたように笑う少女。
何年待ったのかも分からないまま、たった一人で閉じ込められ続けた少女。
そんな彼女に向かって、
『危険だからここにいてくれ』
そう言えるのか?
「ご、ごめんね……今のやっぱり無しで……」
言えない、言えるわけねぇだろ。
アイリスが視線を落とす。
遠慮するように、期待してしまった自分を誤魔化すように。
その顔を見た瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
冗談じゃない、そんな顔をするな、そんな風に諦めるな。
やっと、見つけた希望を、自分から捨てようとするな。
自分を見た時。
アイリスは確かに笑った、嬉しそうだった。
救われたみたいな顔をしていた。
だったら、その笑顔を守れないなら。
この先、俺は何一つ守れない……。
一樹も……美空も…佐野も!
誰も、誰も……助けられないじゃないか……!
そんなのまっぴらごめんだ。
ドクン――。
心臓が大きく脈打つ。
胸中に燻っていた火が一気に燃え広がり、感情が言動となり、炎となって口から噴き出そうとする。
恐怖はある、不安もある、面倒事になるのは目に見えている。
だが――だから何だ。
封印?厄災?知ったことか!
この世界で見守る神が助けないなら……別世界にいる仏も救わないなら、そんなもの全部ひっくり返してやる。
俺が……俺の手で!!この少女を連れ出してやる!
ドクン――。
もう一度、脈打つ鼓動が、目覚める時と鳴り始めた。
答えは決まったな?
覚悟もとっくにできている。
なら、やることは簡単だ。
ここまで来たなら、なるようになる。
普通の人間なら馬鹿だと狂ってる言うだろう、危険だと止めるだろう。
だが今更だ、村人という普通の肩書は職業で十分なのだから。
勇者でも英雄でもない。
それでも――。
(目の前で泣いている奴くらい助けてもいいだろうがっ!!!)
黒杉は立ち上がる。
そしてアイリスの前にしゃがみ込んだ。
「アイリス」
「え……?」
アイリスが顔を上げる。
黒杉は枷に手を掛けた。
そして、迷いなく言う。
「・・・じゃあなんとかしないとな」
その一言に、アイリスの紅い瞳が大きく揺れた。
そう言って、楊一は短刀を取り出す。
「何をするの?」
「何をするって、一緒に旅をするんだろ?じゃあこれが邪魔だろ?」
「・・・!!」
楊一は鎖に触る。
――バチッ!!
瞬間、拒絶するように紅い雷が弾けた。
「ッ――!」
全身が跳ねる。
皮膚が焼ける臭いが鼻を刺し、握った手から感覚が消える。
アイリスは目を丸くして楊一を見つめた。
「ヨウイチ・・・!」
「っく・・・」
それでも手を離さない。
短刀を振り上げ、そのまま鎖へ叩きつけた。
ガキィン!!
火花が散る。
だが傷一つ付かない。
まるで侵入者を拒むように、再び紅い電流が楊一の身体を貫いた。
「ぐっ・・・クソッたれ!」
膝が折れそうになる。
それでも止まらない。
もう一度………もう一度っ……もう一度!!
ガキンッ!バチンッ!キィン!!
衝撃に耐えきれず短刀が折れる。
楊一は無言で立ち上がった。
そして部屋の隅に積まれていた武器の残骸から、新しい短刀を拾う。
再び振り下ろす。
ガキィン!!
折れる、拾う、叩く。
その繰り返しだった。
身体中は火傷だらけになる。
腕は焼け焦げ、皮膚は裂け、血が流れる。
だが、その度に薬草を噛み砕いた。
「っ・・・!」
苦い汁を無理矢理飲み込む。
焼けた肉が再生すし、裂けた皮膚が塞がれば、そしてまた短刀を振るう。
まるで自分の身体など最初から惜しくないかのように。
「なんで・・・」
アイリスは震えた声を漏らす。
「なんで、そこまでするの・・・?」
楊一は答えない。
答える余裕などなかった。
ただ目の前の鎖だけを睨みつける。
(この鎖が邪魔だ。この鎖がアイリスを閉じ込めている。)
なら壊す。それだけだった。
「ヨウイチ・・・もういい・・・!」
「よくねぇよ」
即答だった。
一切迷いのない声。
「だってお前、ここから出たいんだろ」
ガキィン!!
また短刀が砕け散る。
「でも・・・!」
「寂しかったんだろ」
アイリスの身体が震えた。
「違う・・・私は・・・」
「違わねぇよ」
楊一は新しい短刀を握り、焼け爛れた手で、血の滲む指で、それでも強く握り締める。
「俺には分かる」
その声だけは妙に静かだった。
「一人は辛い」
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓が脈打つたびに、胸の奥の何かが肥大していく。
止まらない。鼓動を重ねるごとに、その感情は確かな形を持ち始めていた。
暗い谷で七日間彷徨った。
誰もいない、助けてくれる奴もいない、話し相手すらいなかった。
だから分かる、分かってしまうんだ。
「ヨウイチ・・・!やめて!死んじゃうよ!」
遠くでアイリスの声が聞こえる。
だが痛みでその声すらも遠のいていく。
あの時、板野に肺を刺された痛みに似ていた。
何処までも、アイツが邪魔してくるようだ。
思い出せば、沸々と怒りが湧き上がり、唇を噛みしめる。
「上等だ・・・この野郎!!!」
ナイフを構え、そのまま鎖を叩く。
ガキィンッ!!
赤い閃光が弾ける。
叩く度に紅いスパークは強くなっていた。
まるで侵入者を拒絶するように、少女は止めようとする。
だが楊一は無視した。
幸いにも鎖は錆びている。
所々にヒビも入っていた。
壊せる、絶対に壊せる。
「良いの・・・?こんな所に訳も分からない場所にいるのに・・・何かが起こるかも知れないんだよ・・・?」
「あぁ・・・だろうな!!」
ガキンッ!!バチンッ!!
赤い電流が身体を焼くが、纏わりつく呪いを振りほどくように振るい続ける。
それでも構わない。
「なんで・・・会ったばかりの私を信じるの・・・?もう大丈夫だから・・・だから・・・」
「だから?・・・なんだってんだ!!」
ガキィン!!
その言葉と共に、アイリスの瞳から涙が零れ落ちた。
一粒、また一粒と、透明な涙が頬を濡らしていく。
何年ここにいたのかも分からないし、どれだけ孤独だったのかも分からない。
そんな少女が、自分のせいで傷付く姿を見ている。
痛々しいに決まっている。
罪悪感だってあるだろう。
だけど。自分の心は叫んでいた。
「俺がしぶといのは・・・"特権"だからな・・・!」
ここで諦めるな、と。
「アイリスはついて行きたいんだろ!?」
「・・・っ」
「だったら、何もかも諦めたような顔すんなよ」
アイリスの肩が震える。
「でも・・・ヨウイチ・・・」
「それにな」
楊一は笑う。
焼け焦げた腕で、血だらけの身体で、それでも笑った。
「俺は元の世界に戻らなきゃいけないんだ」
感覚なんてとうに無い。
それでも渾身の力を込めて短刀を振り上げる。
そして――。
"アイツ"を連想させる鎖へ叩きつけた。
「なら!!」
ガキィンッ!!
「こんな腐った世界よりも!!」
ガキィン!!
「元の世界で!!」
ガキン!!
「お前に本物のアイリスの花を見せてやりたいと思ったんだよ!!」
アイリスの瞳が大きく揺れた。
「本当に・・・本当なの・・・?」
震える声l信じたい、でも信じるのが怖い
そんな声だった。
楊一は鼻で笑う。
「当たり前だろ」
また鎖を叩くl身体中が悲鳴を上げる。
だが知ったことか、一生孤独でいるくらいなら……。
世界を見せてやりたい、空を見せてやりたい、笑わせてやりたい。
そう思った。
「だから悲しそうな顔すんな」
楊一は振り返る。
涙を流す少女を見て。
少しだけ優しく笑った。
「自分で言うのもあれだけどさ」
ガキィン!!
「せっかく気に入った名前貰ったなら――」
ガキン!!
「花の名前通りに」
ガキィン!!
「ちゃんと幸せになりやがれ!!」
その一声に乗せ、ナイフを振る。
パキパキパキと甲高い音が鳴り響いた。
「あああああああああああああああ!!!!」
眩い赤い閃光が奔る。
次の瞬間――パキンッ!
乾いた破砕音が部屋中に響き渡った。
恐る恐る鎖へ視線を向ける。
壊れていた。
アイリスを縛り続けていた鎖は、確かに砕け散っていた。
同時に、手に握っていた愛用の短刀もまた、限界を迎えたように砕ける。
「これで良し……あーあ、愛用してたんだけどなぁ」
焦げた臭いが鼻を突く。
全身から力が抜け、そのまま地面へ倒れ込んだ。
周囲を見渡せば、折れた武器の残骸が散乱し、部屋の中には鉄臭い匂いが充満している。
痛みなんてどうでもよかった。
生きていることすら忘れそうなほど疲れているのに、不思議と心は軽かった。
大の字になって横たわる。
すると、何かが勢いよく飛び込んでくる気配がした。
「ヨウイチ……ごめんなさい……ごめんなさい!」
アイリスだった。
涙をぽろぽろと零しながら、勢いよく抱きついてくる。
「うおっと! 急に抱きつくな! ナイフ持ってるだろ! 危ないだろうが!」
「ご、ごめんなさい……」
怒られた子供のように肩を落とし、しゅんと俯く。
その様子に思わず苦笑が漏れた。
「ったく……アイリス」
黒杉はゆっくりと身体を起こし、アイリスの頭を優しく撫でる。
「覚悟はできてるか?」
「できてる……」
アイリスはこくりと頷く。
その先に待つのは平穏な日々ではない。
苦難もある、絶望もある。
もしかしたら、また命を落としかけることだってあるかもしれない。
それでも、彼女は迷うことなく頷いた。
「そっか」
黒杉は優しく笑う。
「ならいいよ」
流れる涙を指で拭い、その頭をぽんぽんと撫でる。
しばらくして立ち上がると、アイリスにも手を差し伸べた。
彼女はその手を握り返す。
長い間拘束されていたせいか、立ち上がった身体がふらりと揺れた。
倒れそうになる身体を黒杉がしっかり支える。
「ありがとう……」
「礼なら外に出てから聞く」
黒杉は笑った。
そして、砕けた鎖を一瞥する。
もう後ろを振り返る理由はない。
「さぁ――まずは生きてここから出るぞ」
「うん……!」
その返事は弱々しくも、確かな力を宿していた。
村人だからなんだ、才能がなくてなんだ。
最弱だろうが、無力だろうが関係ない。
ここまで来たんだから、何度倒れても、何度踏みつけられても。
それでも立ち上がってきた。
だから――。
「まぁ、なんとかなるだろ。」
黒杉陽一は前を向く。
アイリスの手を握りながら。
二人は、暗闇の先にある出口へと歩き出した。
あと、気に入っていただけたら・・・ブクマしてくれると・・・うれしいなぁ(チラチラ
皆様の一回のブクマで励みになりますので、今後とも応援していただけると嬉しいです。
あわよくば、評k(ごめんなさい、調子乗りました。




