3 目指せ沈黙のカリスマ
大事な落とし物かもしれないから、フランシーヌとしてもすぐ落とし主に届けたかったのだが、陰キャの口ベタが災いした。
ルディガー皇太子とその側近のエッケルトに会う機会などわざわざ望まなくてもいくらでもあるだろうと思っていたのだけれど、意外となかった。
というか、新妻フランシーヌはルディガー皇太子から完全に忘れ去られることになった、らしい。
フライア王国の大聖堂で代理結婚式を済ませているので、フライアの法律ではフランシーヌとルディガーはもう正式な夫婦である。ロスデルム帝国では来週に予定されている皇帝陛下主催の大披露宴をもってフランシーヌとルディガーの結婚が宣言されることになっていた。
でも大披露宴にルディガー皇太子は出席しないかもしれない、という噂が流れていた。
フランシーヌの周りには、ロスデルム帝国宮廷の華やかな女官たちが絶え間なく集まって世話を焼いてくれる。フランシーヌは女官たちのおしゃべりの中心でもじもじしているのが関の山だが、聖なるフライア王国からきた神秘的な乙女を物珍しがる女官たちにとっては、陰キャのキョドりも聖なる乙女の思慮深い沈黙に見えるのだ。
「先年に恐ろしい事件があって以来、宮廷全体が暗く沈みがちで、笑い声を響かせることも憚られるような空気でしたの」
「フランシーヌ様のお輿入れは、ロスデルム宮廷にふたたび眩しく明るい光を取り戻すための、皇帝陛下のお計らいと存じますわ」
「フランシーヌ様がいらっしゃってから、宮殿が浄らかに洗われていくように感じますわ。さすが聖女様のお血筋でございますわ!」
「フランシーヌ様が通り過ぎたあとにはいつも百合の香りが残るのをご存知? 聖女様の肌や髪から自然に漂いだす香りの何という尊さでしょう……」
人がいないところでフランシーヌはメルテレースをふりかえり問い質した。
「メルテレース。あなた私の後ろでこっそり何をしてくれてるのよ」
妖しく輝く魔界製の香水壜を手にメルテレースがぱふぱふと白い霧を噴霧している。
――宮廷にて同性の味方は多いに越したことはありません。
しれっとした顔でメルテレースが答える。
――黙っていても誰もがフランシーヌに従うのが理想の状態です。宮廷内に一大権力を築いてしまえば、グリモワールに没頭しようが、庭園に実験塔を建てようが自由です。沈黙のカリスマを目指しましょう!
「この魔物は何を張り切っているのかしらね。ロスデルムに着くまでは異様にむっつり沈みこんでいたくせに……?」
メルテレースはフランシーヌの縁談を知るや暗い顔をしていることが多くなって、隅のほうでいじけたようにうじうじしているなど、この三ヶ月間ずっと情緒不安定な様子を見せていた。それが、ロスデルムに着いて最初の日にグロリエッテでルディガー皇太子からフランシーヌが塩対応をかまされた辺りから、急に元通りの従順でかいがいしい従僕のメルテレースに戻ったのである。いやむしろ以前より溌剌としてノリがいい感じのメルテレース兄さんになっていた。まるで長年の密かな憂いから解放されたみたいに……。
まあでも、環境の激変に心身が追いつかず目を回しているのはフランシーヌも同じだ。
フライア王国は豊かな国ではあったけれど、規模は小さく、国民の気質ものんびりしていた。
ロスデルム帝国は生馬の目を抜く覇権国家にして、経済&文化の流行の中心地だ。
宮殿は広大で、昼も夜もどこもかしこも、目が潰れそうに眩しい。
綺羅星のごとき宮廷人の微笑みさえが、フランシーヌが裸足で逃げ出したくなるほどにきらきらと眩しい。
母国フライアの社交界も陽キャの展覧会のように感じていたけど、ロスデルムは数百倍の規模の大博覧会だ。陽キャって、どこにでも無尽蔵に湧いてくる。この世にどれだけ陽キャは棲息しているのか……土中や葉っぱの裏に産みつけられた卵から陽キャたちの群れが続々と孵っているのか……想像するだに膝が震えてくるフランシーヌだった。
そんなふうに絢爛なロスデルム宮廷ではあったが、昨年に起きた皇太子暗殺事件のショックが引きずる暗い影も、そこかしこに感じることがある。
皇帝陛下の長男フランツ皇太子が閲兵式のパレード中に白昼堂々刺し殺された事件は、帝国にとどまらず西海大陸中に大きな衝撃を走らせた。
皇帝陛下の盤石な治世と威光が混乱を最小限におさめ、孫のルディガー皇子も凛々しく成人済みであったことから速やかな立太子がなされて、動乱の芽は陽の目を見ることなく平穏な日々が戻ってきつつある――フランシーヌがロスデルムに嫁いできたのはそういう時期である。
暗殺の実行犯はすぐ捕まったが、事件の背景は未だによくわかっていない。
よくわかっていないことになっているだけでは? とフライアを含む諸外国は皇帝による真相の隠蔽を疑っていたりもする。しかし……。
「お父上を殺されたのだもの。黒幕探しに必死になるのは息子として当然のことだと思うのよ」
あのルディガー皇太子の様子では、どうやら事件の真相は本当にまだ解明されていないようなのだ。
それならば、生涯の結婚相手への初挨拶程度の些事で時間を一秒も無駄にできるか! というようなルディガー皇太子の態度も納得できる、とフランシーヌは思っていた。
読者のみなさんに先にお伝えしておこうと思うが、実はフランシーヌという少女は、聖女の娘だけあって、黒魔術などという薄暗い趣味を持っているわりに、おっとりとして他人を疑うことを知らず、人が良いのである。
「忙しいのにきっちり挨拶はしにきてくれたし、説明も簡潔だったのよ」
――1分かかりませんでしたもんね。そこに好感を持つのはどうかと思いますが。
人疲れ(女官疲れ)したときに時々隠れるリネンの詰まれた小部屋にこっそり入って、棚の一つに腰掛け、フランシーヌは言った。
「皇帝陛下は私を放っておくルディガー皇太子におかんむりらしいけれど、私にとっては放っておかれたほうが好都合なんだってこと、どうしたらわかってもらえるかしらね」
そこのところの微妙なニュアンスを恐れ多くも皇帝陛下に向かって無礼にならないよう上手く伝える度胸があればそもそも陰キャになってない。
――僕にとっても好都合です。
「ん? どうして? メルテレースに関係ある? ルディガー皇太子と喋らなきゃならないのはメルテレースじゃないじゃないのよ」
――ええ。何でもありません。
「だけど落とし物は早く届けなくちゃね……」
しかし側近のエッケルト――フォルク公爵エッケルト・ロスデリヒが正式名称で、彼はルディガーの従兄弟だという――ともども、初対面の日以降どこかに出掛けて彼らは宮殿を不在にしているという話だった。