閉ざされた記憶の場9
「なにがおもろいですのん?」
咲楽に訊ねられて幸矢は視線を瞼を開いた。あなたが正気なのか疑わしい、といった面持だった。どうやら自嘲が外に漏れてしまったらしい。
「確定的と思えるあるべき未来。当然のように存在していたもの。そのどちらが喪失しやがったあとに予後不良になるんだろ、てな」
「ウチはふたつとも喪失したわけですねん」
咲楽は目を伏せた。
対照的に幸矢は頭上へと視線を。快晴の空を見ているうちに、薄っすらと雲がたなびいているのに気づいた。そして風に吹かれて刻々と形を変えていくことにも。よくよく見れば、いつでもどこでも流れはあるのだ、と幸矢は感じる。
月に叢雲華に風、と幸矢は呟いた。ようやく、咲楽にかけるべき言葉が見つかったように思えていた。ならば、もはやためらいはなかった。たとえ、今は脱殻であったとしても、言葉だけなら発せられるのだ。
「ま、人間はなにがどうなだろうが、随神に従うしかねぇんだよな」
第一声がそれだった。幸矢は苦笑する。
『結局、ここでもオトクンが頼りか。……ま、いいか。弟としてありがたく利用していただくわ』
「……随神? そいつは、主の御言葉に立ちかえれ、ゆう意味ですのん?」
「いや、言葉で理解できるもんじゃねぇんだ。つまり、だ。現世の人間なんざ、しょせん万物の流転つう川を降ってく笹舟だ。逆らうことも、その場に留まる力なんざねぇ」
「なんや。方丈記の冒頭みとうな話ですやん?」
「そうかもな。とにかく、だ。行末ははかりしれねぇつっても笹舟の主たる者にゃ意志がある。まなざしをどこに持ってくかぐれぇの裁量はあらぁ。つまり、どこにいたって心を閉ざしちゃなんねぇ。そんで、感じるもんを拒むな」
「されど彼すなはち真理の御霊きたらん時、汝らを導きて真理をことごとく悟らしめん。彼、己より語るにあらず、おおよそ聞くところの事を語り、かつ来たらんことどもを汝らに示さん」
「たぶん新約聖書の一節かな?」幸矢はニヤッとしながら訊ねた。
「ヨハネ書の十六章の十三節ですねん。つまり、幸矢さんは聖霊の働きに耳を傾けろとゆうてるわけですのん?」
咲楽はごく真剣な表情だった。幸矢は困惑気味に、あぁ、と応じる。演技ではなかった。どうしたもんだろ、と思い、彼はこめかみを揉んだ。
咲楽は本物のキリスト者であるらしい。社家の家系である幸矢には具合が悪いが、かまわず続けることにする。
「ようは、人間の心は神であって、神は天地と、万物の霊とも同一なんだ。ようは生きてるかぎり、いろんな縁が絡んでくる。そいつらにゃ善いもんも悪ぃもんもあんが、判断すんのは鎮まった心、つまり清い神様だ。いわゆる、清き潔き偈。善き縁から力を頂けば己の産霊が強まる。そうなってくっと、今度はてめぇが誰かにとっての善き縁となるわな」
そこで幸矢は顔いっぱいに力強い笑みを浮かべた。
「まぁ、なんだ。正直な心で得たもんは、なんであっても無上にして唯一の価値がある。そう思えば、ちったぁ気が楽だろ?」
しばし沈黙の時間。その間、咲楽の唇はもどかしそうだった。やがて、彼女は言葉を発する。
「せやったら、ウチには喪われた明日なんぞあらへん、ゆうおるんですのん? 今、目の前にひろがっておる世界がすべて、なんやって……」
幸矢は首肯する。表情にはでないが、内心、咲楽の言葉に動揺していた。
『でも、俺はステラがいねぇ世界はゴメンなんだ。……まったく。意に諸の不浄を思いて、心に不浄を想わず。俺自身がそいつができてねぇくせに』
咲楽は言葉を続ける。ただし、ひどく陰りのある声音で。
「せやけど、ウチは蜃気楼を目指して生きておったようなもんですねん。そないな人間が、人生なんぞ流されてゆくだけやで、ていきなりゆわれてもうたら、いっそのこと身投げしとうなりますわ」
「ちと、不穏な発言だな。冗談だとしたらおもしろくねぇ」
軽い口調だったが、幸矢のまなざしは厳しく咲楽を捉えていた。しかし、咲楽は蛙じみた目へ抗うように睨む。腰を浮かせて、咲楽は声を投げかける。
「わからへんですか? 目の前は具体的な夢へと繋がっておると思っておったら、実はなんもあらへん水面やったなんて、どないせぇゆう話ですわ」
「次の目標が見つかるまで、とりあえずはのんびりと流れてゆくしかあるめぇ。まわりの状況に注意しつつ、転覆しねぇように努めつつ」
幸矢は間をおかずにそう応えた。もっとも、表情は明らかに不快そうだった。
「ほなら、次の目標が見つかったとして、それがまた幻に終わってもうたら? また、次の目標を見つけるまで流されよって……。人生の最期まで、ウチは挫折することに怯えておらなあかんわけです?」
幸矢は即座には応答しない。煙草を咥えてから、鼻頭を揉んだ。まったく面倒な問題を提示してくる、と感じていた。だが、幸矢は答えを用意しなければならない。とはいえ、挫折の連続だよ、としたり顔で諭すことは選択肢から外している。無責任な冷笑主義者を演じていれば、いずれは無気力という泥沼に沈んでゆくことになるだろうから。
「挫折するごとに強くなったり、優しくなったりするわけでもねぇが……」
幸矢は無根拠な楽観主義者にも堕落したくなかった。陽性の言葉を吐いていれば幸せになれるなど、反知性そのものに思えるからだ。
「ただ、支えになるもんがありゃ、そうそう沈みはしねぇだろうさ」
ふと浮かんできた言葉が声となってでていた。咲楽は険しい口調で訊ねる。
「それが夢ゆうもんとちゃいます?」
幸矢はゆっくりと首を振った。いよいよ困ったな、と幸矢は足許を覗く。牝猫はそこで香箱をつくっていた。のんびりと尻尾を振りながら。
『羨ましいもんだわ。メルはこんな七面倒な話につきあわねぇでいいわけだし。……いや、猫にとっちゃこの俺につきあっていることが仕事のつもりなんかもな。どんなくだらねぇ人間だろうが餌をくれるんだったら、いくらでもつきあってやらぁ。とかなんとかと思ってるんじゃねぇだろうか』
幸矢は白い背中を見つめ問題から逃げていた。
『まぁ、それだったら、俺は喜んで餌を確保しちゃうね。なんだかんだで話を聞かせる相手がいるつうのは、心の支えになる。……益体もねぇが』
その時、幸矢の心の中でぼんやりとしたものが形を帯びてきた。
顔面を緊張させて、幸矢は咲楽を凝視した。咲楽の表情に変化はない。
「いや、夢は具体的に達成されるべき構想だ。俺がいいてぇのはそういうことじゃねぇ。なんでもいい、役に立たなくたって、そいつが人格の一部だと思えるようなもんだ。それが人生の支えとなるんだと思えるんだわ」
「信条、ですのん?」咲楽は喰いかかるように訊ねた。
「いや、外部に存在するもんだ。そうだわな。家族だったり、恋人だったり……」
「ずいぶんと平凡な答えでねんな」
咲楽は歪に笑いながら腰を下ろした。失望したのだろうか、と幸矢は思うが、己は哲学者ではないことに気づいた。
「しかし、具体的すぎて許容誤差の狭い夢よりゃマシになるんじゃねぇかな。もっとも、相手もまた同じ流れゆく存在だ。もっとずっと変わらぬものを……」
幸矢は不意に天頂を見上げた。青空があったが、それは太陽光の散乱によって染められたものだ。
「そう、星の光みてぇなもんだ……」
そうして幸矢は目許にくすぐったい感触を覚えた。涙が流れでる前兆だとわかった。だが、感情を抑えこむことにした。咲楽に不安を感じさせてはいけないからだ。
幸矢の耳元に牝猫のちいさな声が届いた。なにごとかを訴えていることはわかった。だが、ここは無視することにした。咲楽に答えを提示せねばならないからだ。
「ずいぶんとぼんやりとしたもんですわな」
咲楽は視線を逸しながらいった。目が潤んでいるのを警戒しているのだろう。対して、幸矢はとりたてて不満を感じない。似たようなことを以前にも聞いた記憶がある、などとと思っていた。
「つってもまぁ、もっと身近なもんでいいんだ。趣味とか、な」
そういうと、幸矢は瞼を抑える。生理現象はどうにも意志では抑えがたいものだ。
「趣味? せやけど、ジャンルごと滅びることはままあるとちゃいます?」
「なにをほざく。廃墟からだって価値を探りだす人間はいらぁ。無為にも思える発見でもおおいに喜んだりするわな。流行り廃りがどうとかじゃねぇ」
幸矢はひと呼吸おいて咲楽に告げる。
「なんでもいい。趣味を深めるなり、つくるなりしたほうがいい。それも現実生活に直結しねぇ奴を。まぁ、小遣い稼ぎになるぐれぇなら、それを目指すのもいいが、せいぜい余技でやってるつもりでな。ちょうどよくやってるかぎり、趣味は裏切るこたぁねぇよ」
「ものごっつえらいもんですやん」
「実際、たいしたもんだと思うぞ、俺は」
堂々とした発言であったが、幸矢は己の趣味がなんであるのか、いまいち把握していないことに気づいた。とりあえず無視して至高の勢いに任せることにする。
「趣味とは世界を体系化し、深化させてく営為だわな。いくら個人的に閉じていようが、これも産霊に他ならん。そんで己のうちの好ましいもんを外形的に構築してくわけだ。才能の一部を研いでく、ことでもあって。まぁ、こいつは幸魂を見つめるわけだ。……つまり、幸魂の作用を強める産霊の行為だ」
やや間を開けて咲楽は応答する。「幸矢さんのゆうておること、さっぱりわからへんです」
「そりゃ残念だ。けどな、俺もよくわからん」
咲楽ははっきりと訝しげになる。だが、幸矢はおおいに微笑む。
「己が深く愛でる、愛でたい世界を確立した人間はそいつを守りてぇがために生きるし、拡張してぇがために努めるもんだ。そういうことじゃねぇか?」
深い窪みに引っこんだ双眸から、凛冽な切長の双眸へと意思が送りこまれた。咲楽は硬直した表情でブリッジを抑えた。そして彼女はボソボソと古人の言葉と呟く。
「今われらは鏡をもて見るごとく見るところおぼろなり。されど、かの時には顏を対して相見ん。今わが知るところまったからず、されど、かの時にはわが知られたるごとくまったく知るべし」
じっくりと三十秒ほどの静止。幸矢は凝視して沈黙を過ごす。
やがて、咲楽は溜息をついた。彼女のうちで解答が決まったらしい。
「なんや。ほどほどに夢中になるもんがあらええわけですねんな」
そう発言した咲楽は笑みを浮かべていた。べつに幸矢を罵るようなものはなかった。彼女の顔に本来あるべき凛々しい笑みであった。
「納得がいったんか? こんな簡単すぎる解答に?」
咲楽は肩をすくめてみせる。
「考えてみら、ウチ、探索することが好きやったかもしれへんですわ」
「だろうな」幸矢は深くうなずいた。
救難ヘリのパイロット。神経細胞の再生医療。ごくちいさく、しかし重要なものを探し求めることでは同じようなものだ。
「せやけど、趣味らしい趣味はあらへんですねん」
「なら、つくりゃいい。咲楽さんの能力ならすぐにいっぱしの趣味者になれらぁ」
「とりたてて今、興味があるゆうなら……」
咲楽は再びブリッジを抑えた。その彼女に幸矢はにこやかにいう。
「どんなに醜いことだっていいわな。ここにゃ俺しかいねえし、なんなら、ここで聞いたこたぁ忘れたふりをするさ。あと、触法しねぇかぎりは忠告するつもりはねぇ」
すると咲楽はごく緩慢にうなづいた。幸矢の目を捕捉しつつ。
「……過去の詮索に興味があるゆうのは、どないですのん?」
「俺のなにが知りてぇんだ?」
幸矢はすぐさま反応していた。まったく素早いものだった。言質を理解することにかけては優れた素質があることに、幸矢自身は無自覚であった。




