閉ざされた記憶の場8
幸矢は沈黙している。単純に、かけるべき言葉が見つからなかったからだ。
咲楽は失敗した。くわえて万全を期して再挑戦する機会を永久に喪失した。厄介なことに、彼女は誓約に対する責任感が甚だしいときている。
さりとて幸矢は物憂げな視線を受けながら時間を空費するのも耐えられなかった。彼はたまらず煙草を咥える。紫煙を見つめながら、彼は思う。
『乾咲楽の親御さんへ。娘さんを立派に育てられましたね。魂をしっかりと継承していますよ。でもひとつ批難したいことがあります。挽回不能な挫折を克服する方法を教えてやるべきでした。……クソ、俺にもわかりゃしねぇんだ』
幸矢がそのようなことを考えている時、咲楽はうなだれたまま呟く。
「……ウチ、ほんまは航空学生を目指しておったんです。お父さんと同じよにヘリを駆って、救難任務に従事しとうて。せやけど、身体的な問題で……」
咲楽は眼鏡を指さしている。弱視か、と思いつつ、幸矢はちいさくうなづいた。昔と違い、操縦士は眼鏡使用者でも採用される。それでも裸眼視力の制限が存在している。
「俺も航空学生を考えてた時期があってな」
幸矢はあいかわらず煙だけを見ながらいった。海軍ではなく、空軍航空学生として、また輸送機を志望していたが、たしかに事実であった。
「そんで狂ったように福生に詣でて、エアバンドをチェックしてたんだ……。咲楽さんと同じく、身体条件でヤメにしたんだ」
けしてそれだけの理由ではないが、ここでは触れないことにした。
「なんや。幸矢さんなら、ファンシードリルで指揮者が似合いそうですで」
幸矢は苦笑して応じる。「俺は不器用なんでな」
どういうわけだか航空学生はファンシードリルが、つまりショーとしての儀仗が盛んであった。航空祭などに出演する機会もおおい。
「それこそ咲楽さんなら、さぞかし華があるんじゃねぇかな。サーベルをブンブンまわしてな」
「ライフルならいけますで」咲楽はニヤリとした。
「ウチ、地元のドラムコーに参加しておったんですけど、ファンシードリルの予行のつもりやったんですねん。ほんま、アホらしい話ですけどね。お父さんのバット回しがえらくかっこようて。……そいつも航空学生への憧れのひとつですねんな」
そういうと咲楽は俯く。幸矢からは表情がまったく窺えない。
「空への夢が絶たれよっても、代わりのもんを見つけることができましてん」
聞いているだけでも息苦しくなってくる、喉から漏れでてきた声。
「救った命の、そん後のためになること。そいつを研究の最前線で学ぼうと。せやけど、あかんことになって……」
そうして咲楽は顔をあげた。美しい切長の目には濡れた光があった。幸矢は身体を緊張させる。
「なんで、夢は逃げてまうんですのん? ウチ、情けのうて、ようあかんです」
咲楽の問いかけに、幸矢はうわずった声で応じる。
「……いや、咲楽さんはなかなかにいい選択をしたと思うぜ」
幸矢は胃のあたりが締めつけられる感覚を覚えた。それでも続ける。
「奉神舍は脳まわりの研究ではそれなりに充実してるわな。総合教養学部人間学類統合人間科学専攻。そこの神経・認知科学講座は神経の再生を扱ってんだ。文科からでも募集してっから大丈夫だ。そんで統合人間科学研究所は新潟皇大の脳研究所と、理研の脳科学総合研究センターとも提携してるし、この分野では日本でも最良の環境といっていいと……」
幸矢は咲楽の双眸に変化がないのを認めて、口を閉じた。
幸矢は額を抑えて天を仰ぐ。
「そういう問題じゃねぇんだよな」そういうのがやっとであった。
咲楽は弱々しく微笑みながら呟く。
「なんや、宇宙人や未来人、それに超能力者とかおったらええのに、と思ってまう日々ですわ。いえ、こないな時こそ、主を信じるべきなんでしょうが……」
「すまねぇが、俺はそういうもんを呼び寄せる特異点じゃねぇんでな。それに、そんな連中なんざ西宮あたりにゃいそうな気がするわな」
幸矢は苦々しく冗談を吐くと、瞼を閉じる。
才気溢れていたこの娘は恐れているのだ。夢に挑んで、結果としてそれを喪うことを。そのせいで、現状を破壊してくれるなにかに憧れるようになってしまった。デタラメであろうと、外から来るものを望んでいた。神隠しに興味を惹かれたのが、まさにそうだ。
より端的に表現すれば、自己肯定感の喪失に伴う、認知の歪み。それをどうにかしなければ、なにごとも卑屈に解釈するしかできなくなる。そこまで至れば、咲楽は動く骸でしかない。
一方で幸矢は己についても顧みる。
もはや、外にはステラの残滓も残っていないと思っている。彼女は夢での存在となった。しかし、ステラがいてくれるならば、夢の世界で生きるのも望むところだった。
かような脱殻のような存在が他人の救いになろうとしているのだ。
なんとひどい皮肉!




