閉ざされた記憶の場5
ふと、幸矢は周囲を確認する。人気のない、森に囲まれた丸い芝生の広場。その周縁に幸矢と咲楽のふたりはいる。空は青く、地上は緑。風音もなく、静寂そのもの。
世界のどこからも遠い、書割のような空間。死の淵からの帰還を語るには、ずいぶんと適した舞台だろう。
それでも花畑がないだけマシなのだろうか。そのように幸矢はぼんやりと思った。
「しかもこうして奉神舍の学生として会話してる。なんたる運の強さ、だな」
咲楽の左手を凝視しながら呟いた。それはなおも髪を握りしめていた。あでやかな濡鴉の髪。その長さは背の中ほどにかかる程度でハーフアップにまとめてある。幸矢は咲楽の髪を誉めたことに気まずさを覚えていた。
陰のある視線の先に気づいたのだろう。咲楽はおどけたようにちいさく万歳をした。そして、いやに弾んだ口調で説く。
「いや、これ、ちゃんとした地毛ですさかい。頭をパカっとせんですみましたねん。ま、左の横っちょにちんまい穴を開けられたっただけですわ。ほんま、感謝するしかあらへんのです」
とりあえず、幸矢は安堵の息をつく。まずはあの麗しい光沢が生来のものであることに。さらに、頭部外傷のうちでもとりわけ厄介な症例を経験してなお、最低限の損失で済んだことに。強運というほかない。
急性硬膜下血腫の救急措置では開頭術が第一選択とされる。つまり頭蓋骨を広範囲で取りのぞいてしまうのだ。これは次のようにたとえられるだろう。道路直下で大規模工事をするならば、舗装をすべて剥がしたほうが、さらには街路樹も除去すればとてもやりやすい。まぁ、さすがに頭皮はめくるだけで温存されるが、街路樹にあたる頭髪は剃られてしまうのだ。どうせ年単位もあれば原状回復してしまうから。
だが、幸矢は違和感を覚える。単純に喜ぶばかりではいられないだろう、と。非常にクリティカルな事例であったことに恐怖すべきではなかろうか、と。
硬膜は頭蓋骨の内側にあって脳を包み保護している。急性硬膜下血腫とはその内側で出血し、血の塊が、つまり血腫が形成される事象だ。内容物でいっぱいの容器に強引にモノを押しこんだ状況に陥るのだ。始末の悪いことに、負傷から数時間は止血しにくいうえに形成された血腫の粘性は高い。厄介な生成物は急速に成長し、それに圧された脳は変形し、繊細な構造がおおきく損なわれる。
脳の圧壊と、それに付随する現象については、詳しく触れる必要もないだろう。
とにかく急性硬膜下血腫の措置とはなによりも時間との競争であった。頭蓋骨をおおきく除去して、いっときのうちに破断箇所を塞ぎ、血腫を洗浄しなければならない。また隔壁がなくなるわけだから確実に減圧できる。
もっとも診断された段階で不可逆的損傷を負っている症例が圧倒的多数であった。
「いや、穿頭術だけ、つうのはかなり危うい橋を渡ったことじゃねぇんか?」
咲楽は淡白に応じた。「ほんまですわ」
「あぁ……。もしかして、手術室が埋まってたか、手が空いている脳神経外科がいねかった、とか?」
「そのコンボ喰らいましてん。CTで損傷箇所はすぐに断定でけたそうですが。しゃあなしやさかい、救急措置室で穿頭してもろうて。ほんで脳圧をモニターしとぉうちに良好転帰したったですねん」
はぁ、と幸矢は曖昧に応じた。つくづく救急は過酷な職場だな、と思っていた。ごく簡単にしか全身管理ができない環境で頭に穴を開けなければならないのだから(手動ドリルがなおもひろく使われている)。
「もっとも、最近のガイドラインやと、すぐに開頭でけへんなら、とりあえず穿頭して減圧せえ、ゆうてますわな。ほんで、脳室ドレナージの併用を推奨しよってますねん。ウチもしてもらいましたわ」
そういって咲楽は前髪をたくしあげ、額の一点を指さした。幸矢はそこをよく観察するが、傷痕は見当たらなかった。形成外科の腕がよかったんだな、と評価する。
ようするに、頭蓋骨にもう一箇所、穴を開けて、脳の底にある空間に管を通したわけになる。そうやって体液を吸いだす。これもまた減圧のためだ。とにもかくにも脳にかかる圧力を逃すのが転帰を決める要素となる。血腫そのものは沈静化してから洗浄できるし、保存される場合もありえる。
「こういっちゃなんだが、論文にとりあげられそうな事例だわな」
幸矢は頭を強く掻いた。咲楽の経験談を聞いたおかげで痒みを感じたのだ。
「ゆうても特殊すぎて。なにせ、病院のすぐそばで負傷したって、救急外来に自分で辿りついたったさかい。ま、受付で昏睡しよりましたけど。ほんでも、瞳孔不同はならへんかったし、対光反射もありましたし。でなけら、頭をパッカーンされてましたわ」
咲楽は微笑んで説明してくれるが、幸矢はすこしも笑えなかった。それよりも幸運を賞賛したかった。
「まぁ、なんであれ咲楽さんは人並み以上の幸運を持ってたんだ」
急性硬膜下血腫の生存率そのものが低いのだが、生存例のうちでも健全に復帰できたのはかなり低い。
「ウチもそない思うてます。せやけど、それ以上の幸運を欲しかったですわ」
咲楽は即答した。その表情は真剣であった。対する幸矢は古のローマの詩人の言葉をすぐに思いだした。そして、そのままに発言する。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る。それ以上の望みはないものねだりだぜ」
「そないなこと、わかっとぉです!」
咲楽はふたつの拳でテーブルを叩いた。テーブルが倒れそうな勢いであった。その下で静かにしていた牝猫が素頓狂な叫びをあげる。
「左半球を負傷だろ? 言語中枢をやられらぁ、神様に幸福を願うことすらできやしねぇんだぜ?」
まずそのように声をかけてから、足元を確認する。牝猫が足首を抱えこんでいた。まぁ待て、と彼女に言いきかせて、咲楽へとふたたび対峙する。
咲楽はブリッジに指を添え、肩で息をしている。幸矢はこめかみを揉みながらこれからを考える。なりゆきにまかせる、としか思いうかばなかった。
「なんや、右半身麻痺にならへんで幸いでしたわ。ちぃとばかり難儀しとぉですけど、山歩きでける程度には歩けますし、利手の右かてペンを握ることがでける。肉体にはさほど不満はあらへんです」
そういって咲楽は両手をグー、パーと運動させる。左右を比べてみると、たしかに右手は緩慢に窮屈そうに運動していた。だが、その程度だった。
訝しげに幸矢は咲楽の目を見やる。彼女は鼻で笑った。
「せやけど、永遠に喪われてもうたもんがありますねん。ええ。たしかにあの日からウチは死んでもうたのです」
「どういうこった?」
「死んでもうたさかい、ウチはここにおるわけです。遠く坂東、多摩の奥山に」
露悪的な表現に、幸矢は歪みきった笑みを浮かべる。まるで己が救いがたい低知能なのだと糾弾されているように思えてきた。
「黄色い救急車でここに運ばれてきたわけじゃねぇだろ? それなりの難度をパスできたから、奉神舍の学生になれたんだ」
「さいですね……」やや間をおいて続ける。
「せやけど、ナンバースクールに掠りもせぇへんようになってもうたのです。そこそこの官立の高等学校、予科にもあかんでしたわ。あの日までと、それからでは別人ですねん」
「まぁ、模試は模試だ。選考の難易度を再現しきっているわけじゃねぇ」
さすがに苛った声になっていた。絵に描いた餅、という諺を幸矢は思いだしていた。
「……汝、明日のことを誇ることなかれ。そは一日の生ずるところの如何なるを知らざればなり。まさにウチのために用意されとった言葉ですねんな」
咲楽の呻くような声に幸矢は眉間を寄せる。声音のせいではなく覚えのない言葉であったからだ。
「ほんでも翼を背負って窓辺から飛びたかったですわ。蝋で固めた翼であっても、ですねん。ウチはコケてもうたら翼を失くしておりました。せやけど我慢でけずに生身で空へ翔ぼうとしました。やっぱ墜落してもうたわけですが」
バベルの塔で比喩しなかったのは謙遜かな、と思いつつ、幸矢は苦笑する。
「墜落地がここか。ずいぶんと遠くまで墜ちてきたもんだ。平均的な人間じゃそこまでできねぇ」
幸矢の皮肉は咲楽には届かなかった。
「なんや。衛星投入のロケットやのうて長距離弾道弾やったとしても、宇宙までは届きたかったわけでして。ちゃんと満タンで……。あ、ちゃうな。すんまへん。つまるとこ、もとが三段式やのに、一段ブースターがのうなった状態で打ちあげたっても……」
イライラした様子の咲楽に幸矢は静かにいう。「無理に比喩表現をしねぇでもいいぞ」
そして咲楽はブリッジに指を添えながら深呼吸をする。ついでこわばった顔で語りかける。
「なんや、どうせ現実に打ちのめされるにしても、本来の能力を発揮でける状態で挑んでおったなら、そらウチの限界やとあきらめがついたやろ、と」
「ま、わからんでもねぇが。ただな。比喩を使ってすまねぇが、失敗したのは補助ブースターを欠いてたとかいいだすかもしんねぇぞ。本来の能力なんざ理想的な発展余地みてぇなもんだわな」
幸矢は咲楽の双眸を覗きながらいった。そして咲楽は幸矢の視線を受けとめて応える。
「なんや、幸矢さんはこうゆうておるわけですか? 能力が欠落したもうたのに、おとなしく無視せぇ、と?」
そうじゃねぇが、と幸矢は短く応じた。右頬がピクピクと蠢いている。思考の冷静な部分は彼女の訴えたいことを了承していた。だが、しかし。
「うちの予科に合格できた事実がありゃ、とてもじゃねぇが障碍とは認めらんねぇよ」
しょせんは過去の最良予測にすがっているだけだ、との考えが幸矢を支配していた。咲楽は無言でテーブルを殴って応じた。ふたたび牝猫が鳴き、さらには幸矢のふくらはぎを盛んに引っかいてきた。
こいつはいかんな、と幸矢は自嘲する。それが表情にも浮きでていた。咲楽は舌打ちすると、震える声で訴えてくる。
「程度の問題とちゃいますさかい。昨日でけたことが今日はでけへん、ゆう経験をどないせぇと思いますのん?」
幸矢は煙草を咥えた。ニコチンの働きが欲しくなってきたのだ。
「ややこしい問題はパズルみとうに解いておりましたわ。センスよかテクニックですわ。つまり、ルービックキューブの攻略法ですねん。一一九のパターンを覚えおけば、どないな初期状態からでも下段を揃えら、あとは手順をなぞるだけ、ゆうやつです。そないな感じで長くても三十秒でこなしとけばええわけです」
「よくわからん領域だな」
「そん短時間の処理がうまくでけへんのです。なんや、パターンの記憶は残っとぉですが、検索、参照、検証がどうにもこうにもチグハグな感じがあって混乱してまうのですわ。ややこし設問ですぐ積んでまうのですねん。奉神舍は素直な問題ばかりで気楽なもんですが」
瞬発力が欠けちまったわけか、と幸矢は呟く。
「そこまでいうなら、脳神経とか精神で決定的に変質したというエヴィデンスはあんのか?」
「知能検査を受けましたわ。言語性のスコアは平均よりもえらく上やけど、動作性が平均よかやや低い、ゆう結果でしたわ。ほんで……」
そこで咲楽は時間をかけて呼吸をする。ついで全身を緊張させながら告げる。
「遂行機能や注意機能、情緒で困難が予期される、と。つまり、障碍やと診断でけるほどではあらへんかったですけども。ほんで、認知機能にも桶の理論ゆうのがあって、パフォーマンスはもっとも低い機能で規定されるゆう……」
「困ったもんだな」幸矢はごくちいさな声を吐いた。
幸矢は鎖の比喩を思いだした。鎖全体の強度はもっとも脆弱な部分に規定される。いかに突出した知性があっても出力する機能が弱ければ、傍からは木偶の坊にしか見えないだろう。
そして、だ。咲楽は認知機能におおきな凸凹があるのだが、治療対象となる基準に達していないわけだ。つまりもっとも苦しむ集団に属しているのだ。健常者と障碍者の境界線上にあり、有効な支援を受ける資格を得られない人間たち。
「けど、事故以前からだったかもしれんぞ」
「そのへんは幼少期のエピソード聴取から、蓋然性は低いやろ、ゆうことでしたわ。それよか外形的な病巣があって、たぶん、そいつが悪さしよると診断されましたわ」
咲楽は左の側頭部を指さした。せせら笑うような表情で告げる。
「ほんの豆粒みとうな血腫のせいですわ。ASDHのもらいもんみとうなもんですねん。左半球を中心にいくつか。ほんまにちんまいもんで、保存治療が選択されましたけど」
咲楽の脳に隠されているものについて幸矢は重い声でいう。
「細けぇだけじゃなくて、手術するにゃクリティカルな箇所だった?」
「御明察ですねん。カテーテルを通すにも困るよな」
これが脳神経外科の困難な点であった。不用意な侵襲は即不可逆的な結果をもたらす。命までといわなくても、人格の一部を奪ってしまう。
「ま、血腫は投薬治療でさっぱり消えてもうたのですけども……」
「……神経の損傷までは回復できない、か」
わずかな時間、咲楽の顔から感情が消えた。ついでむりやりな笑みを浮かべて、はい、と呟いた。ごくごくか細い、力ない肯定の言葉。
幸矢は思いだした。この美しい才女の夢想を。
咲楽は神経細胞の分化の機序を明らかにし、再生医療に貢献しようとしていたのだ。その夢が実現すれば、生命の歴史においてどれほどのインパクトを与えることができるのだろうか。
これは以下の事実を示している。現在では夢物語。
将来、咲楽も含めた人類の誰かが夢を現実のものとしても、咲楽の人生のクリティカルな局面が補完されるわけではない。
なんたる皮肉。救いがたい現実。
神経の再生という具体的な目標があればこそ、咲楽は深く理解できてしまったのだ。
ほんの、ほんの、ちいさな血の塊が咲楽の知性を損ない、可能性を奪った。
その事実を認めればこそ、死んだ、と表現したくもなる。それでもなお生きているという現実に対して、いかなる感情で処理すべきか。
笑うしかなかろう。怒っても哀しんでも過去は戻らないなら、冷笑を装うのだ。マヌケな己を。
幸矢は咲楽の不可解な笑みを悲劇的に解釈したのだった。
幸矢はうなだれる。顔面の筋肉が震えていた。彼は怒りを覚えていた。なにに対してなのかはわかっている。己へ、だ。不見識な言動を行った、己へ。
幸矢は己へ問いかける。咲楽へなにができるのか、と。
しょせんは赤の他人ほどの関係だが、なにかしらの助けができるなら、すべきだと感じていた。それがストレスから逃れたいという欲求からであっても、試みるべきなのだ。
生きているだけでいいんだよ、と簡単な言葉で済ませたくはなかった。不作為による害悪ほど愚かしいものはない、との想いをこの幸矢という男は背負いこんでいた。
幸矢は静かに問いかける。
「なぜに関東へ?」
短い問いかけだが、それが幸矢の覚悟の表明であった。




