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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
4・どこからも遠い場所にて
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閉ざされた記憶の場4

 凛々しさ、という言葉に含まれる美的感覚を、このときの咲楽は体現していた。威圧されて幸矢はかしこまったように腕を組んだ。表情も相応に緊張している。


 さて、と幸矢はもちあわせている情報について整理する。とはいえ、たいしたものはない。しかし、この美少女が望んでいたものについて強い興味が湧いてきていた。


「京都の吉田、ねぇ……。あぁ、そういや、神楽岡の麓だわな」


「神楽岡?」咲楽は不機嫌そうに訊ねた。


「ほら、吉田神社だよ。二十二社のうち下八社が一座。主祭神はいわゆる春日明神。そんでまぁ、別社の斎場所大元宮さいじようしよだいげんぐうが素晴らしい建築なんだわ。あと、節分がすごいとか。……まさか、そのために京都へ?」


 咲楽はうつむき、荒い息を吐いた。そしてひどく抑えた音量の声を漏らした。幸矢には、ダボが、と聞こえた。ついで咲楽は胡乱な目で先輩を見る。


「なんや、コケにしてますのん? 乱暴に、神さんに絡めんでください」 


 もっともな反応といえた。幸矢は頭を掻きながら反省を示す。


「すまねぇ。ま、たしかに湯島天神を崇敬してるんで本郷に決めた、なんつう話は聞いたこたねぇしな」


 咲楽の視線は和らぐことはなかった。幸矢の足元では牝猫が尾で叩いてきた。


「ほんま、坂東の人間は見識が狭いもんですわ」


 あんまりな言い草に幸矢は苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、吉田にしかねぇのはなんだ? ……折田先生像?」


 幸矢はいたってまじめなふうの口調であった。だが、正確には大学ではなく高等学校にあるのだが。


「ええ。唯一無二の存在やと思っとります。興味を惹かれたきっかけですねん」


 ここで咲楽はニンマリとする。当然、彼女も認知していたということだろう。


「自由な学風のアイコンだしねぇ。いや、浮世だった知性の箱庭の、かな? とにかく、息苦しさを感じねぇのはいいことだ。すくなくとも表面的にゃ」


 幸矢は広場の中心を見やる。弓庭幸德の像はいくつか存在するが、いずれも悪戯の対象として受容されるとは思えなかった。


「しかし、問題はそこでなにをやりたかったつうことだが」


 咲楽は伏目がちにいう。


「細胞分化の機序とか、その制御。とくに神経系統とか……」


 そのキーワードに幸矢はすぐに反応する。


「すると、再生医療、か。なら、医学部を目指してたと?」


「ちゃいます! ……そこまでおこがましくはありまへん」


 おこがましい、ね。幸矢はうなづいた。たしかに常人の向こう側の領域であろうと思った。


「なんや、理学部を目標に、現実的には農学部資源生物科学科、ですねん」


「いっそのこと、大阪府立で獣医を目指すとかは考えなかったんか?」


 咲楽は露骨に不機嫌な顔になった。「博士課程を考えたら九年ですで」


 そうだったな、と幸矢は応じる。それぐらいは幸矢も知っている。そして、経済的な問題があるのかな、などと留意することにした。


「まぁ、なんにしろ、たいした目標だ。俺なんざ、奉神舍予科に合格するかどうか、いまいち自信がなかったんだしさ」


 幸矢はおおげさに微笑んでみせた。


「ほんまのとこ、ウチは自信ありましたわ。ほんまですねん」


 疑っているわけじゃねぇ、と幸矢は声に出そうとしたが、やめる。咲楽の口許はひきつっていて、ヘタに刺激することは抑制したほうがよさそうであった。


「模試ではものごっつ手応えありましたわ。全教科でA+の評価ですで。もっとも、数学と政経がちと怪しいもんでしたけども」


 高等学校の統一入学選考での評価では正答率八割以上をAとし、九割以上をA+としていた。なお、ナンバースクールの受験ではA+の狭い範囲内で高低を争うという次元だ。わかりやすい差が検出されるのは二次の独自試験からだ。


「やっぱ、たいしたもんだ」幸矢はそう呟くと、溜息をついた。


「俺なんざ、A以上を確実視できるの地理と国語しかなかったんだもん。そういや、いつぞやの地理で偏差値八十オーヴァをマークしたんだけど、たかがそんぐれぇはしゃいでたぐらいだわな」


 苦笑を浮かべて幸矢は対面する才媛を見やる。が、なにが気に喰わないのか、咲楽は唇を噛んでいた。さらには舌打ちまでする。


「そら喜んで当然ですわ。上位○・一三五パー以内ですさかい。ウチ、そこまでブチ抜けた成績はとったことあらへんです」


「さすが統計に興味があるだけあって、パッとそんな数字が出てくる」


 これで咲楽の表情がいくぶん緩んだ。


「ただ暗記しておっただけですねん。算出する式は覚えておりますねんけど」


 そして、咲楽は直上をあおいだ。春の空はあいかわらず快晴であった。


「ま、なんや。なんぼ記録では安定しとぉても、人生の運行は確率論ですわ。σ3ぐらいの振れ幅は平気でありよる」


 つまり、偏差値五十を基準として、その前後三十ぐらいの幅はあるといっているのだ。


「ほんで、ウチは京都の高等学校二回生やのうて、多摩で大学予科一回生をやっておるわけでわ」


 幸矢は沈黙していた。想定状況のうち下位から〇・一三五%に属する現状に対して、安易に憐憫の情をかけるわけにはいかなかった。


「いや、それこそ生きとぉだけでまるもうけかもしれまへんですわ」


 幸矢は抑えた声音で訊ねる。「そいつはまたどうして?」


 声にしてしまったが、あまり回答を聞きたくはなかった。どうせ愉快なものではない。


 咲楽はひどくぎこちない笑みをつくって、致命的な過去を語る。

 

「去年の、統一選考の二日前ですねん。よりにもよって、そんタイミングで怪我してもうたんですわ」


 そういうと、咲楽は左の側頭部の髪を掴んだ。本来、涼し気なはずの切長の双眸は眦が裂けんばかりにひろがり、イヤな熱を孕んでいた。直視しがたいはずの視線を、幸矢はただ受けとめていた。なにも語ることができないならば、せめてそれぐらいはすべきと彼は考えていた。


「なにを焦っておったかわからへんけど階段を走って降りておったんですわ。ほんでコケてもうて、頭をものごっつ打ってもうて……。ASDHでしたわ」


 わざとはぐらかしているのか、と思いつつ、幸矢は記憶にあるものを検索する。わりとはやく該当するものに辿りついた。彼の顔面がひきつった。咲楽が経験した事態に対し、かなりの強い情動が生じたのだ。


「Acute Subdural Hematoma。急性硬膜下血腫、だよな?」


「よく知っておりますね」咲楽は左の側頭部を掻きむしりながらいった。


 幸矢はうつむきながら応じる。


「姉さん、からね。タッパがあるから人並み以上のリスクがある、とおどしやがったんだ。ま、咲楽さんの場合はさほど関係じゃねぇだろうが」 


「どうやら、受け身をとれんかったようですわ」


 ひどい笑みを浮かべながら咲楽はいった。対して、幸矢はゆっくりと呼吸する。かけるべき言葉は見つかったが、それを発するには少々落ち着きが必要だった。


 そして幸矢は咲楽の瞳を凝視しながらいった。


「ま、なんつうかね。生還できてよかったな」


 抑揚の乏しい、感情が消えた声音であった。しかし幸矢の本音であることは間違いなかった。


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