閉ざされた記憶の場3
さて、と幸矢は視線を起こし、ついで煙草を咥えた。まじめに耳を傾ける態度ではないかもしれないが、これからのストレスを考えればどうしてもニコチンを摂取しておきたかった。
咲楽は広場の中心、銅像を虚ろに見つめていた。煙を避けてのものではなさそうだった。
「予定じゃ実家から通学してたはずだとか? そりゃ小遣いも増えるだろうな」
咲楽が志望して東京に来たわけではないことは記憶していた。
「それだけやありまへんで。学費もようけ浮いておりましたわ」
やっぱり、と幸矢はのんびりとした返事をした。けして蔑みを含んでのことではない。幸矢は咲楽は一浪したうえで予科一般選考を経ていることから、私立専願ではなく官公立を志望していたと想像していたのだ。奉神舍の予科は試験科目のおおさゆえに、私立専願からは忌避されているのだ。
「となりゃ、第一志望は神戸予科、もしくは大阪市立予科、かな?」
これはあてずっぽうだった。咲楽が文科丙種であることのからの空想だ。丙種は商学部が主な供給先であり、神戸、大阪市立の両大学は東京商大とともに三大商大として知られる商学分野における名門校であった。なお、乙種は法学部へ進学する予定の者に対応しており、甲種はとくに展望のない者の収容先であった。
ちゃいますよ、と咲楽は敵意のある視線を振ってきた。幸矢は苦笑を返す。
「京都の吉田にある学校の、理科ですねん」
幸矢は表情を正し、深く煙を吸った。少々、返答に迷っていた。具体的な名称には触れてないが、京都の吉田にある大学準備課程となれば、幸矢でもあたりがつけられた。そして、志望するだけなら俺でもできるが、と思っていた。
「あぁ……、駒場の学校ではなくて?」
幸矢はわざとそう訊ねてみた。すぐに鼻にかかったような声音が返ってきた。
「坂東もんの悪いとこ、ゆうもんですかね。ナンバースクールはただひとつだけやと思うておるようで」
「いや、まさか。けども、駒場は〈神宮〉みてぇもんだわ。吉田は、たぶん〈熱田神宮〉かな。勝手な印象だけど」
咲楽は、不快感も露わに見やった。たしかに意味のわからない例えであった。
「ほなら、ここはどないなもんですのん? 楠公さん? 西宮のえべっさん? ま、そこらの神さんよかマシゆう位置でしょうけど」
「まぁ、湊川神社よりゃ歴史はあっけどな。とにかく、今の位置は決定的つうわけでもねぇや。うちの予科からだって本郷の大学に進めるぜ。実績はある」
事実ではあったが、とりあえずの気休めの言葉でしかなかった。
咲楽は虚脱した笑みを浮かべると、遠くの空を仰ぐ。幸矢は別の方向の空を見やった。そうして、二本目に火を着けた。
「せや。猫も王様を見られる、ゆう諺がありますねんな。ほなら、ウチかて、鉄門くぐれるゆうわけですわ。ほんでも、そんだけでしまいですねんけど」
咲楽は沈んだ口調で呟いた。幸矢には言葉が見つからなかった。
*
日本に存在する大学群を山脈とすると、いくつかの抜きんでた頂がある。北は札幌、中央に東京、南の福岡まで。皇国大学を冠する九つの官立総合大学だ。その頂へ招かれるには、大学準備課程の選択が致命的な要素となる。
法制上、大学準備課程とされている教育機関は高等学校と大学予科のふたつがある。また教育内容という点では両者に差はないとされている。だが、卒後の進路がおおきく異る。
その附属している大学への進学を原則とするのが大学予科で、制限が存在しないのが高等学校だ。乱暴な表現だが、高等学校を卒業できれば、必ずどこかの大学に拾ってもらえる権利を得るのだ。
なお、学生は第二学年秋学期開始までに志望先を決定しておく必要がある。当然、複数の志望を提示する。が、内定を獲得できなかったり、もしくは必修科目を落とすなどした場合は第一学年秋学期に戻されることになる。
この”進振”と呼ばれる制度は過酷だ。一方で学生の質を担保しているともみなせる。昭和改新の前など、高等学校に入学してしまえば、あとは放蕩の限りを尽くすのがごく当然であったのだ。伊豆あたりで行きずりの少女と恋愛をするのが盛んだった時代があるのだ。
では進振ではなにを基準としているのか。本来は履修科目の成績を参考にすべきなのだろう。が、すべての学校が均質な水準であるはずもない。そのために統一公試が用意されている。一回の試験ですべてが決まる、じつに公平な制度であった。
学生にとって進振は巨大な苦難であるが、高等学校の経営にしても同様であった。高等学校は名門大学へ送りだした人数で評価されるのが一般的だからだ。また、高評価を得るには、優秀な人材を囲いこむのが手っとりばやい。すべての愚鈍な輩を二年間で俊才へとしたてあげる方法論など存在しないからだ。
中等教育を終えた者たちは以上を幼いころから心得ているものだ。結果として、高等学校への進学がもっとも苛烈な学力競争の場となっていた。
この局面で特異な現象が観測される。第一から第八までの連番が振られた官立高等学校へ、そこで学ぶ権利をめぐり全国の秀才たちが殺到するのだ。地名を冠することなく、無機質な番号を背負っている学園を目指し、己の才のかぎりを競いあうのだ。人生を賭けて。
世間では連番が振られた官立高等学校を、ひとくくりにナンバースクールと呼ぶ。ナンバースクールとは名門にして進学校を体現する稀有な存在であった。
なお、興味深いことにナンバースクールは、けして少数精鋭でというわけではなく、官立では収容定員の上位を占めている。官立大学でも同様で、東京皇国大学の収容定員は最大規模であった。また官公立の上位十校だけで全学生数の四分の一を抑えているのだが、そこには皇国大学のほとんどが含まれている。
さらにおもしろい事実がある。ナンバースクールと皇国大学、それぞれの入学定員はたいして違いがないのだ。わずかにナンバースクールの人数がすくない程度。
そして、ナンバースクールは中等学校卒の最優秀層の大半を取りこんでおり、皇国大学は学部準備過程卒の最優秀層を収容すべき大学とされていた。つまるところ、ナンバースクールは皇国大学へと直に接続している存在でもあった。または、皇国大学の予科として機能しているともいえる。
この体制に組織だって割込むことができるのは、私立の伝統校(これらは官立よりも学生への要求基準が高いといえた)、または地方の最高峰とされる高等学校の上澄みとされるぐらいであった。ぽっと出の新興、いわゆる自称進学校ではとても太刀打ちできない領域なのだ。
むろん、統一公試という関門がある以上、ナンバースクール在籍が皇国大進学を保証するのではない。ただ、ナンバースクールなどは凡百の秀才程度ではそもそも進学できない。センスじみたものが必須だ。また統一公試は特定領域に対する理解の深度を測定する性格があり、課題の概要は事前に公開されている。つまり短い期間でいかに詳らかに調査できるかが問われる。ある意味、網羅的に学力を問われる高等学校の入試よりは、気が楽であろう。ナンバースクールの学生のほとんどはそういった人種であった。
以上を踏まえて、大学予科の存在について触れてみる。
大学予科はその設置母体となる大学へ進学するための課程だ。つまり進振のような艱難とは本質的に無縁だ。しかし、怠惰な学生を量産するわけにもいかないので、先述の統一考試の受験を必修単位としている例もある。たとえば官立大学予科がそうであり、また奉神舍も同じだ。奉神舍予科学生では統一考試を”黄金の二単位”と読んでいた。
とにかく、学部選択の悩みはあれど、予科の学生たちにはほぼ確定的な未来が入学当初から存在しているのだ。さらに学部教育との円滑な移行を図るため、学部開講の講義を受講させるなどの措置がとられていた。しかも取得単位は大学卒業要件に編入できる。いやはや、なんともおおきな魅力であった。
大学経営者にとっても魅力的であった。学部三年間にくわえ予科二年間の学費も徴収できるからだ。もっとも、予科学生が素直に学部へ進んでくれるともかぎらない。なまじ学力の高い場合、脱出をめざしがちとなる。逆もまたしかりだが。なんであれ、必ず転出する学生が発生する。
かような事態が生じるのは、関連法規に”大学が相応の能力があるととくに認める場合にかぎり”他所からの入学を認可するといった条文が存在しているからだ。また志望者に対しできるだけ門戸を開放する義務があった。規制の弾力的運用の一例なのだが、私立にとってはありがたいことこのうえない。その経営力は抱えている学生の数に依存するものだから。
とりわけ上位校は下から昇ってくる傍系を吸収し、また上から落ちてくる者も拾えるのだ。奉神舍はまさにその位置にぴったりとはまっていた。たとえば、ナンバースクールの落伍者たちにとり、よくわからない官立へ飛ばされる、もしくは第一学年に戻されるよりは、奉神舍はまだ納得できる選択とみなされていた。いちおう、新宿まで一時間ほどで行ける土地だからだ。
一方で、上位校への供給源という位置を積極的に是認している予科も存在している。まぁ、往々にしてボッタクリのような学費であるから、妥当な戦略といえるだろう。
ただし、かような相互依存はいわば雲の下での話だ。一度、土の臭いを嗅いだ人間が至高の頂を侵そうとすれば、超絶的な才能を備えていなければならない。
皇国大学とて高等学校を経ていない者――傍系のための門を用意している。が、あまりにもそれは狭すぎた。皇国大学は合意に基づき傍系枠は学部で一桁に抑制しているのだ。となれば、枠が存在しない学科も発生することになる。それでも挑戦するに足ると考える者は後を絶たない。
で、肝心の選考だが、統一考試ならびに個別試験によるものとしている。まぁ、純粋な学力を図るには公平な手法だろう。しかし注意すべきは、その年の進振実績が参照される点だ。つまり、すでに内定している学生よりも好成績が要求される。
最低合格ラインを超えている程度ではおぼつかない。それぐらいの算段がある人間が群がってくるのだから。傑出した成績を見せつけねばならないのだ。結果、傍系枠で選ばれた学生は不気味なほどに優秀であった。いや、そうでなければ受けいれてもらえないのだ。
なんとも不思議な現象であった。それほどに頭がキレるなら、素直に高等学校を選択すべきなのだ。わざわざ針の穴にラクダを通すような芸当をしなくて済む。
やはり、変人だからなのだろう。傍系出身者は周囲から浮いてしまっていると、いや、自由気まますぎる、と評されていた。天才肌というよりは人格破綻者という印象が強いというのだ。まぁ、皇国大学のような環境でなければ、ただただ破滅するだけなのだろうが。
だが、悲劇的なのは遥かな高みを目指すのは、なにも狂人だけでないのだ。いたって常識的な、ごく普通に優秀な人間さえも地上世界から脱出しようとするのだ。彼らは翼が生えているという幻覚に囚われているのだろうか。だが、鳥がどのように羽撃くのか、おうおうにして考察しない。一方、雲の上に住まう者は、そこへと至る道を自然に見つけたか、もしくは本物の翼が生えているために辿りついたのだ。
*
幸矢は煙草を吸いきってから、咲楽に言葉をかける。それまでの間、彼女は沈黙していた。
「白門をくぐるんだったら、まぁ、いけんじゃねぇかな。八王子の奥地だったかにあると思ったけど」
我ながらひどい冗談だと、幸矢は思った。
「白門? そいつはなんですのん? ここの、紅白門の上位互換ですのん?」
幸矢は曖昧に笑いながら、どうなんだかな、と応じた。
紅白門とは法学部棟に存在する門を模したオブジェであった。門柱自体は変哲のない石造なのだが、根本の地面は赤白のタイルで敷きつめられていた。これは学部の崇高な理念を表していて、赤門と白門を踏みこえていく覚悟がある学生だけを認める、というものだ。幸矢としては、控えめにタイルを白一色にすべきだと思っていた。
「うちは隠れた実力者ポジだから。法曹はともかく、会計士の世界じゃなかなか差が埋めきれねぇな。あっちは学内に資格学校をつくっちゃうぐらいだし」
淡々とした幸矢の説明を聞いて、咲楽の表情がとたんに曇っていく。
「あ、でも、うちの附属のおかげかな。調布に奉神舍商工があんだけどさ。そこで簿記一級を取得した生徒は、推薦で八王子の奥地に登ってくのがおおい」
幸矢としてはちょっとした自慢話のつもりであった。が、咲楽はちいさく溜息をつくと、厳しい視線で幸矢を射る。
「なんや、誤解しておりますね。ウチ、文科丙種だからゆうて、帳簿を眺める生活をしとうあらへんです。せやったら、六甲台めざしておりますわ」
「そいつはすまん。まぁ、文系つっても、数字の操作に強いってのはおおきな武器になるわな」
数字の操作、という言葉に咲楽の目尻がピクッと跳ねた。幸矢はそれに気づかなかった。
「さいですね。せやけど、ウチ、数字を操作しとぉやのうて、現象を解釈しとうて統計学の理論を噛っておったですねん。それも、形而上的な理論やのうて、ウチの手でつくりだした結果の蓄積に適用しとうて、ですねん」
「つくりだした、ねぇ。こさえた、じゃねぇのは当然だとしても、なんとも実験主義みてぇな……」
そこらの文系人間の思考ではないな、と幸矢は感じていた。ついで、結論に至る。己が扱うべき道具について具体的に理解できている人間が、願望だけで志望先を選択するはずがない。咲楽は過去の夢想を語っているのではない。非常な確度があった想定が崩れてしまった事実を語っているのだ。
「ええ、実験やりとうて、女学校時代は必死こいてやっとりましたわ。ま、本郷のほがなんぼか資金が潤沢かもしれへんですけども」
関西出身者が語る本郷と比べられる大学といえば、幸矢はひとつしか思いあたらなかった。
「……なら、やっぱり、あそこか。で、もとは文科志望ではなくて」
おずおずというふうに、幸矢は呟いた。
「ええ。あこですねん。あこの理科ですねん」
咲楽は断言した。美しく緊張した表情で。




