今年からは四個で
空間は白煙と肉とタレが焼ける臭気で支配されていた。
奉神舍大學学生会館、その居住棟に面した庭の至るところにコンロが置かれ、それらを囲む者どもはひたすらに肉を網に並べては、適当な焼き加減で胃に収容する作業を行っていた。時折、液体を摂取するが、たいていはアルコールを含んだものであった。
彼らの表情は真剣そのもの。いや、眼前で焦げていくものしか意識していなかった。
業務用という、それなりの工夫で食味をごまかすことを前提にした肉をただ焼くしかない。二十円という金額でその権利を購った。ならば見合うだけの満足を得るには量をこなすしかない。
苦行じみている。
奉神舍大學学生会館春季祝祭恒例の焼肉大会の、いつもの情景であった。
弓庭海香はエキゾチックな顔貌に疲労感を漂わせながら、この様を眺めていた。彼女のスラリとした肢体を包むのは淡桃のワンピース。長い黒髪はひっつめて一本のおさげにして背中に垂らしていた。そして左の薬指には指輪をはめている。だが、ペアとなる指輪を持つ男は、そばにいない。
海香は焼肉大会を十年ちかく見ているのだが、どうも慣れないでいる。どうして楽しそうにできないのだろう、と思っている。学生は時間を金で買うという観念が発達していないのだろうし、また、今晩のためにカロリーを溜めこんでおきたいという欲求があるのだろうか。
とはいえ、少女期に毎週末に浜で焼肉を楽しんでいた経験からすると、ただ消費しているだけにしか思えず、嫌悪感も覚えることがあった。そうした感情を自覚しながら今年もまた同じ情景を眺めていた。
予科文科甲種に始まり、人文学研究科博士後期課程・神道学専攻を修了した海香は、現在では奉神舍とは直接の関係はなかった。もちろん母校としての愛着はあるが、学生時代への憧憬に学生会館は含まれていなかった。
どちらかといえば、避けていた印象があった。しかし学生会館の行事にはだいたい顔を出してきた。そのたびに空気に馴染めないでいたが、それゆえに忌避するようになったとも思っていた。
しかし海香の伴侶は異なった認識を有していた。彼女にとりそれは許容できる価値観の違いであった。だから毎年の春に好みではない情景を眺めている。またその伴侶と初めて食事を共にしたのがこの焼肉大会であることも影響していた。
「よぉ、すまねぇ。待たせちまったな」
海香の夫がその気もないこともあからさまな調子で声をかける。灰色のポロシャツにジーンズという地味ないでたちだが、非常な長身ゆえに遠くからでも目立ってしまう男だった。そのために海香はその姿をずっと視界に収めることができた。顔は彫りが深く、眼鏡がよく似合うと海香は思っていた。ブッシュハットを被っているのだが、海香は薄くなってきた頭頂を隠すためだと知っている。
弓庭海香はほのかに赤く染まった弓庭幸音の顔を見つめて穏やかに笑う。
「それだけの収穫はあったでしょうね?」
優しい声音で海香は問いかける。幸音はニカッと笑いながら、パンパンに膨れたビニール袋を掲げた。それが今年の獲物すべてであるということであろう。
「あと珍獣も捕獲しちゃったわ。どうすんべ?」
そういって幸音は後ろを振りかえった。すぐ後ろにはセーラー服姿の、若い男が立っていた。一見、好青年風の黄色の瞳の男。彼は幼い男の子を肩車してニコニコとしていた。社交辞令ではなく、顔色からして単純に酔っているからだろう。
「私はいらないけども……。コウクンはどうしたい?」
海香は肩車されている男児に訊ねた。つとめて明るい声音であった。
「カミさまのとこで飼う!」
三歳児にしては達者な滑舌で海香の長男である幸鋼は宣言した。弓庭の血筋に連なる人間に特徴的な鼻筋を持っていた。名は幸音が考えたものだ。弓庭の通字である幸に、音に対して硬い印象のある漢字を用いたかったのだという。海香はこれに意見はしなかった。彼女は幸音という男と、弓庭という家とも結婚したのだと思っていたからだ。
「まずは大神様に御伺いをしないとねぇ」
「僕のほうは覚悟できてますよ! 今日からでも大丈夫です!」
平岡は甲高く喚くが、弓庭夫妻は微笑みながら頭を振った。その息子は手を叩いて煽る。すでに平岡のあつかいについては学んでいるらしい。
「まったく……。コウクン。パパやママに、親しき仲にも礼儀あり、という言葉を教えてあげるんだよ?」
平岡は苦笑しながら幸鋼を地面に降ろしてあげた。そうして頭をポンポンと叩く。幸鋼はニヒヒと笑いながら、平岡の瞳を見つめていた。まったく微笑ましい情景であるだろう。平岡が女装していなければ、素直にそう思えるはずだ。
「いみわかんないよ、ハル兄ちゃん!」
つれない返事に平岡はとくに落胆した様子はなかった。代わりに幸音へと目配せした。そして、父はしゃがみこんで視線を幼い息子と同じ高さにする。
「お友達にはいつも優しくしといて、いじわるなことはしちゃいけねぇ、てこった。こうしておけば、コウクンはお友達と仲良く遊べらぁな」
「でも、パパはハル兄ちゃんにいじわるしたじゃん。チンジューて、人間に使うとよくねぇんでしょ?」
その指摘に対し、幸音はしごく満足そうな笑みを浮かべて息子の肩を掴む。
「そうだね。いじわるしたね。パパは穢いことをしちまったんだ。うん、コウクンはえらいね。立派だよ」
言葉の意味を理解できないでいる幸鋼を、父の幸音は強引に肩に乗せた。やはりというべきか、幸鋼は平岡の時よりもおおいにはしゃいだ。まぁ、より高みから世界を眺められるからでもあるだろうが。
「情けねぇことに三歳児から叱られちまったわ。そんなわけで、珍獣はさすがに失礼だったわ。すまねぇ」
「いいえ、幸矢と比べたらこんな程度。……なんか、息子さんをダシにして謝らせちゃったみたいで、すみませんね。珍獣と名乗ったのは僕のほうなのに」
「うん。ボクを食べようとして、チンジューとかいってたもん。そんで、そんで、パパはチンジューはあんまりよくねぇ言葉だって」
さすがに平岡はしんみりとした顔になる。幸音はにこやかに受けとめた。
「ま、おかげで我が息子の成長ぶりを知れてよかったわな。それと将来を期待したくなっちまった」
「あら、期待できる、じゃなくて?」海香は夫の脇腹を小突いた。
「ああ。もっと世界を知ってくると、ウンコチンコを連呼するようにならぁ」
そうなのかしら、と海香は平岡を見やる。彼は朗らかに応じる。
「男の子はそういう時期があるんですよ。そして下世話な語彙力を鍛えていくんです」
「まぁ、私はそんな人間と結婚したわけね」
海香は肩をすくめる。「それでも私は幸福を実感しているわけで」
「でしょうね。理想的な家族だと思いますよ。いや、ほんとに」
平岡は見下ろしてくる幸鋼とタッチしながらいった。単純な社交辞令ではないのは彼の表情からわかる。
「羨ましがってんなら、ここで出会いを求めりゃいいじゃんよ」
学生時代の知人と結婚した男ははにかみながら宣った。
「いやぁ、ここには、いつものメンツしかいねぇもんで」
「つっても、発見がねぇわけじゃねぇべ?」
「たしかに。カネクンなら弓庭の柱になってくれそうで、安心できますわ」
これには幸音も鼻高々といった顔になり、平岡はさらにいう。
「ですから、家庭教師が御所望の際はぜひ僕にお声がけしていただければ……」
即座に海香は手を振って拒否する。しかし、顔では微笑んでいる。
「それなら幸矢くんに頼むわ。おそらく、あなたは自分の家族のために資産運用に血道をあげているか、はたまた社会から退場しているか。そのどちらかだろうから」
「……誉めているんですかね?」
苦笑する平岡に海香はうなづく。「進みたい道筋をすでに歩いているもの」
まいったなぁ、と呟き、平岡は幸鋼にウィンクしてみせた。だが、幼子にはその意味するものを理解できなかったのだろう。いみわかんないよ、と返した。
「ま、なんであれ、せいぜい仲間内で騒いで楽しんでくれや。ほどほどに」
即座にうなづく平岡に幸音はつけくわえる。「無理だろうが、これも仕事だ」
「土曜日なのに、大変ですねぇ」
「ああ、半休取得しといてな。寝てすごすよりゃまだマシかもしんねぇが」
海香は同調してうなづく。表情はやや硬かった。視線は周囲を確認していた。この場にいるのは学生だけではない。中年の姿も散見できた。焼肉大会がOB会の場として利用されているのだ。それだけでなく、大学に籍を置く人間は学生たちがハメを外しすぎないように監視する役目も担っていた。
そのあたりの事情は海香も理解しているが、やはり貴重な休暇をくだらない用件で潰されるのは、おもしろくはなかった。
夫妻は土曜日でも神社で奉仕しているのが通例であった。日曜日も毎回、休めるわけでもない。考えてみれば、土日・祝日こそが神職は忙しくなるのだからしかたがないだろう。それでも、この日に年休を取得したのは、時期的に暇であることと、残業時間の抑制のためであった。神職は早朝の開門に始まり、夕刻の閉門後には夕拝があり、残務処理がある。
くわえて〈大神靈神社〉が経営する保育園が土曜日保育を極力避けたがっている事情もある。弓庭家もなるべく協力する姿勢を見せねばならないのだ。
なんとも俗な理由であるが、神職とて労働している人間であることに変わりはない。そして、社会学を扱う大学と関係が深いだけあって〈大神靈神社〉は業界の規範となるよう労働環境を整備していた。むろん、おおきな社であるからこそ可能な体制ではあるし、改善すべき点はままある。
海香は神道学者として中世神道が専門であったが、現代の神社経営については被雇用者としての関心があった。そして〈大神靈神社〉に奉職できた幸運をひそかに感じていたのだった。論文を執筆できる余裕はあるし、家族とのまったく個人的な時間をそれなりに確保できているのだから。
なにか考えこんでいる様子の妻を連れて、幸音は会場をあとにした。ようやく焼肉の臭気が薄らいできたところで、彼は背後の妻に声をかける。
「今年もすまねぇな。あんな好きでもねぇ場所につきあわせちまって。まぁ、カネクンとしては春陽くんと遊べてよかったんだと思ってるわ」
海香は夫の細い背中を凝視する。謝るのは結婚してから毎度のことであったが、今年は表現が異なっていた。
「好きでもないと気づいていたの?」
「だって、最初からだろ? ほら、海香さんが学部一年の時から」
「そうだったかしら?」
そうはいったが、海香は微笑む。記憶が浮かびあがってきた。
「だから、安い肉なんざじゃねくて、おにぎりを買うようにしてるんじゃんか」
「二十円で一合おにぎり二個に通常サイズのおにぎりが一個。あと卵焼きにキムチ少々。ずいぶんと高い買い物だけども」
「協賛金だと思えば安いもんだわ。それに今年はおにぎり一個追加しといた」
海香は幸音の隣に並んだ。そしてゴツい造りの顔を覗く。息子の重さに辛そうになっていた。
「そろそろ、カネクンも一個じゃ満足できねぇんじゃね、と思ってね。しかも梅干を指名しやがった。どんな面しやがるんか、じつに興味深い」
父の頭頂を叩きながら幸鋼は宣言する。
「ボク、泣かねぇからね! ボク、おおきくなったんだもん!」
「つっても、学生どもの梅干はすごいぞぉ。俺もヤックンも最初は泣いたからな。いんや、弓庭の男はみんな泣かされたんだ」
そんなことはない、と反論する息子の姿を見上げてから、海香は優しく笑う。校地に生えている梅から勝手に作っている学生会館特製の梅干は強烈に塩辛いのだ。そのおかげなのか食中毒はいまだに発生したことがない。
「そういえば、幸矢くん、あそこにいなかったわね」
「……ま、あいつはあいつなりにどっかで楽しんでんじゃね? ゆく河の流れは絶えずして、だ。いや、そうであってほしいつう願望にすぎんが」
なぜに鴨長明を、と海香は思ったが、すぐに意識から消した。そうして、まずは幸鋼の手を握った。幸音と手を繋ぐことがすくなくなったな、と考えるが、息子を介して手を繋いでいるのだと気づく。
「なんだ? 妙に笑いやがって。兄が弟を過剰評価するのがおかしい、てか?」
「いいえ、随神とは奇しき縁をむしびつけるものだな、て。それが私の幸魂を育んでくれるのを実感したところ」
幸鋼は、いみわかんないよ、と母にいう。むろん幸音は頬を緩ませている。
海香は初めての学生会館春季例祭焼肉大会を思いだしていた。ちょっと前まで、SPTCの学生は義務的に焼肉を食べねばならなかったので、否応なしに参加していた。一般学生との交流の場として設定されていたのだ。
あの時、妙に眼力が強い少年が隣席だった。あまりに質の悪い肉に辟易していた琉球生まれの少女に、一合おにぎりを勧めたのだ。神社に奉納された米で質がいいから、と。そして、シーミーでもおにぎりは食べるんですか、と訊ねてきた。そこから会話は発展して、海香は琉球の神道について乏しい知識を披露してみせた。
それから十年ほど。おにぎりを勧めてきた少年は海香の夫となり、彼との間に息子をもうけた。また同じ職場で先輩職員として接している。おにぎりを彼と食べるためだけに、臭い空間に出かける仲となっていた。
はたして恋に落ちたタイミングはいつだったのだろうか、と海香は幸音の横顔を見つめながら思う。さらに、落ちたのは己なのか、彼なのか。
おそらく答えは最期までわからないだろう。それこそ随神なのだと海香は心に刻む。




