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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
3・春の祝祭、晴天の空で
32/43

陽春の白昼夢3

 暁緒は咲楽の表情を覗い、なおも後輩へと声をかける。


「サク。なんか不安があらんなら、今のうちに吐いたほうがいいてば。ここの空気があわねやんてなら、私はおめさんがいいようにするすけ」


 その言葉に咲楽はブリッジを押さえつけながら、下唇を強く噛む。彼女の心ではある言葉が轟いていた。


 お願いやから、気づいたってや。今は優しさが欲しいのとちゃうんです。


 しかし、声にできないのが、咲楽の限界であった。暁緒はまったくの善意から手を差しのべようとしていると判断できるし、その善意を容赦なく切捨てられるほどの冷徹さが欠けていたのだ。


 では、咲楽がなにを欲していたのかといえば、優しい無視とでもいうべきものであった。見捨てるのではなく、ほどほどの距離から好き勝手にやっているのを見守っていてほしい。そして本当に危なくなったなら救ってほしい。そんな都合のいいものであった。


 なんとなれば、憐憫の対象であると直に訴えかけられるのが、咲楽の脆い部分を激しく揺さぶっていたのだ。


 そして、咲楽はこれを冷静に把握していて、さらに暁緒は脆弱さを受けいれてくれるであろうと想像して、つまり人間性を信用していた。だが、咲楽は善意に頼りきることを人間の堕落として恥じるような性根であった。


 乾咲楽という人間は、ある意味で高潔で、だが、まったく救いようがない、難しい性格なのだった。


 この状況を打開する方法を見いだせぬまま、咲楽は暁緒を視界の外へと押しやった。遠くへと視線を向けたのだ。道が森へと吸いこまれるあたりを。その先へと、百鬼夜行は消えていったのだ。


 そして今、森から湧いてきたように、一台の自転車が現れた。前篭に白いなにかを収めた自転車だ。路上になにもないことをいいことに異様な勢いで疾走している。


「なんや? あんチャリ」


 咲楽はのんびりと呟いた。自転車の男に見覚えがあったのだ。灰色のジャージの、痩せこけた、やたらに長身の男。


 そして、自転車は咲楽たちのすぐ手前で急制動。前篭から白い牝猫がニャアと抗議じみた叫びを発した。


「よぉ、こんにちは」幸矢は朗らかにいった。「ずいぶんと早い再会だったな」


「二度と会わないよかマシですわ。ま、世界はひろいが世間は狭いもんですねん、幸矢さん」


 咲楽は不器用な笑みを浮かべながら幸矢に返した。正直、幸矢の唐突な登場にホッとしている。すくなくとも緊張状態を崩してくれたのだ。


 とはいえ、咲楽のまなざしは訝しげだ。たしかに幸矢の様子はどうも不審だ。彼の頬には玉のような汗が流れている。ずんぐりとした鼻面などヌメヌメと光っている。非常に暑苦しい顔面で幸矢は微笑んでいた。


 一方で幸矢もしげしげと咲楽を観察していた。彼は顎をさすりながら訊ねる。


「そんで、咲楽さん。そのナリはなんのつもりなんだ? いやさ、まさか、神輿巡幸に参加してるとかじゃねぇべな、と思ったんだけどさ」


 咲楽はわざとらしく肩を落として、息を吐いた。


「ウチ、逆に地味やと思っておるんですけども」


 幸矢ははっきりと鼻で笑った。スウェーデンの森にはその姿は溶けこむだろう。しかし残念ながら、咲楽の背景にあるのは日本の、南関東の森だ。


「てか、アキさんについて疑問はあらへんのですか?」


 咲楽はやっかむが、幸矢は小学生の身なりの女学生を一瞥しただけだった。


「あぁ、どう見ても正装だわな。よくできてらぁな。てか、かわいいじゃん」


 暁緒はニコリとして深々とお辞儀をした。その様がますます小学生らしい。


「そんだけですのん?」咲楽は小声で反発した。


 が、幸矢は咲楽の声を無視し、諭すように暁緒にいう。


「で、まぁ、そいつ、たぶん平岡が勝手に縫製して押しつけたやつだべ? 謝礼は気にしてねぇだろうが、お礼に地酒でも贈っとけ。次はリズ・リサみてぇなんを試しに作ってくれるかもしんねぇぞ」


 そうしますて、と暁緒はニヤリとした。そのやりとりを聞いて咲楽の凛々しい眉がうごめいた。


『まさか、あれもお手製ゆうのん?』


 幸矢は目敏く、咲楽の表情に気づいたようだ。彼女へすぐに補足する。


「あぁ、勘違いしちゃなんねえが、あいつはデザイナーじゃなくて、パタンナーだからな。いかに少ない生地から服を仕立てるかを考えてみるのが趣味なんだと。それが頭の体操になるらしい。だからセンスは期待すんな」


「いや、変人みとうな人に仕立てを頼むつもりはあらしませんで」


 即座に反応したせいで、身も蓋もない表現になった。


 幸矢は首を横に振った。「みたいじゃなくて、重度の変人だぞ」


「そいつはわかりましたけど、幸矢さんこそ、なにしておってです?」


「あ、まぁ、ちょっと運動してきたんだわ」


 そういうと幸矢は急に必死な形相で上半身をくねらせ、両腕を高速回転させる。いわゆる”踊る”ではなく”打つ”と表現されるパフォーマンスであった。幸矢の演技に対し、暁緒はちいさく拍手した。そして咲楽は顔面が硬直した。


「……なんや。えらく激しいよさこいソーランですんやん」


 暁緒の頬が突発的に膨張した。幸矢はといえば、困惑の色もありありと空を仰いだ。


「去年の春は大喝采だったんだけどなぁ。レゲエダンスの要素もいれてさぁ」


「いや、キモいの大合唱だこっつぉね。ありゃなんかの召喚の儀式でしたて」


 咲楽はひとりうなづく。想像の埒外だが、凄まじくひどい絵面であったことだろう。


「ほんで、まさか神輿をひとりで踊って出迎えたわけとちゃいますよね?」


「まさか!」幸矢は否定しながら、気色悪く身体をくねらせた。


「こちとら静かに見物してただけなんだぜ。なのに、サイリウムを渡されたらしゃあねぇじゃん。打ってみたよ。渡してきた仮面のセーラー服と一緒に。なぜか女装した提督も」


 今度は咲楽が空を仰ぐ番であった。情景を想像してしまい目許を抑える。


「しっかしまぁ、何者なんだろうな、あのガタイのいい女」


 咲楽は上を向いたまま口許を抑えた。一方で暁緒はうつむく。彼女は腹と口を抑えていた。ふたりとも身体が小刻みに震えていた。


 幸矢はその情景を訝しげに見つつ、腕組みをする。


「でもまぁ、今年もUOTCの一党みんなを笑い倒せたからいいかな。いっつも三年生だけはすました顔しやがるから、おもしろくねぇんだ」


「そっけなことやってるすけ、TBとかから仮想敵にされらんですてば」


 暁緒は笑いを含めた声で指摘した。咲楽は、どないなあつかいやねん、と思う。


「いやぁ、俺が的としてデカいからだと思うんだけどなぁ。……そんで、南雲はこんなとこで油売ってていいんか?」


「サクには訊かねやんですか?」暁緒は咲楽を一瞥ながら逆に質問した。


「ん? あぁ……。つまり、咲楽は暇ぶっこいてる、つうわけか? 散歩なりしてたら不幸にも巡幸に遭遇しちまって、さらに南雲に捕まっちまった」


 幸矢はまじめな顔をしていた。咲楽はごくわずかな動きで首肯した。


『こんノッポ、ほんまに察しがええわ』


 暁緒は幸矢をダシにして咲楽をどこかへ誘おうとしたのだろう。そして幸矢は意図を把握した。よい資質だ、というふうに思いつつ、咲楽は幸矢を凝視する。いやに冷えた目で。


「幸矢さんはどうなんです?」暁緒は期待のまなざしを幸矢へと向けていた。


 幸矢は苦笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。暁緒をまっすぐに見下ろして答えを返す。


「俺も暇だよ。しかし、南雲、おめぇらのために使いたくねぇな」


 曖昧に誘いを拒否したのち、幸矢は背後の自転車を見やる。そうして前籠の牝猫へうなづいてみせた。おとなしく収まっていた彼女は耳をピクリとさせると、か細く鳴いた。それでいいんじゃない、とでもいっているように。


「一緒に焼肉ランチを食うてのもダメなんですか?」


 暁緒はすがるように訊ねるが、ダメだ、と幸矢はそっけなく応じた。


「平岡とツラァあわせんのは、さすがにな。淡々と肉を消費するだけつっても、昨日のこともあるし、安肉がさらにまずくならぁな。あの野郎だって、俺を見かけたら不愉快じゃねぇかな?」


 幸矢は表情を殺してそういった。その発言に咲楽はひきつった笑みを浮かべ、暁緒は険しいまなざしで乾いた笑い声を漏らした。


「残念です。幸矢さん、それだけは伝えておきますて」


 幸矢は琥珀の双眸を直視し、無言でうなづいた。


 蚊帳の外に置かれている咲楽は自転車の牝猫を観察する。牝猫は首を伸ばして、幸矢の背中を凝視していた。鳶色の耳はひどく緊張しているように見えた。


 しばし暁緒は地面を睨むが、やがて幸矢に脱帽して一礼した。力づくな笑顔で彼女は先輩へと言葉を伝える。


「はちゃ、私は平岡さんとこに急ぎますて。肉の魅力は抗いがたいもんですけに。そんでくどいかもしんねですけろも、いずれ、しがらみなく幸矢さんと楽しみたいもんだこっつぉね」


「お互いに新しい枠に収まることができりゃ、そうなるだろうさ。では、南雲、楽しんでこいや」


 直後に幸矢はちいさく手を振った。そこまでされては暁緒も去らぬわけにはいかないだろう。彼女はすぐに駆けだした。スカートを翻して全力で駆けていった。


 幸矢と咲楽、孤独なふたりは赤いランドセルが道の先に消えるまでを見届けてから、会話を再開させた。


「女の子相手にえらく残酷なあつかいをでけるんですな」


 咲楽は今さらなことを幸矢にいう。応じるように牝猫は低い声を発した。


「性差別主義者のほうが好みなんか? まぁ、俺はそっちの自覚があるはずなんだがなぁ」


 とぼけた調子で応じているが、幸矢の目は笑っていなかった。


「ところで、うら若き乙女がこんなよい天気で、ひとりなにをしてやがんだ? ずいぶんと寂しいことで。山歩きも含めた散策が趣味だとかならすまねぇが」


 露骨な差別主義的発言を咲楽は鼻で笑った。


「ええ、えらく寂しいもんですねん。そんでも、唯一の友である猫を引きつれよって徘徊してそな、むさいガリなノッポよか、マシな情景とちゃいます?」


 幸矢は愉快そうに応じる。「こりゃまたひでぇもんだ」


「ほんまですわ。なによりひどいと思うのが、たまたま出会った寂しい男女がこないな無駄話で時間を潰しておるゆう事実ですねんな」


 咲楽はわざとらしく嘆息してみた。幸矢はコクコクとうなづいた。


「そんで、どうやったって恋愛に発展しそうにねぇのが救われねぇ」


 すると甲高い声が響いてきた。咲楽は自転車の前籠に視線を振った。牝猫が縁に前脚をかけて身を乗りだしていた。幸矢の背中を厳つく凝視していた。


 背後を見ずに幸矢はいう。「さすがに浮気するわけにゃいかんだろ?」


「ニャンコから略奪しよるほどの豪胆さなんぞ、ウチにはあらしませんわ」


 そこでおおきく伸びをした。ぼんやりと空模様を確かめる。まったく心を衝くような快晴であった。


「なんや。ほんま虚無なやりとりですわ。さすがに、もうちょい有意義に時間を潰せらええですねんな」


「そうだな……。バイトの相談なら、まぁ、相手してやれねぇこともねぇが」


 幸矢はベンチに放置されていた情報誌を見つめながらいった。


「……いや、べつに金欠なわけとちゃいますねん」


 咲楽はそそくさと情報誌をしまった。どうも、恥を晒したというふうに感じてしまったのだ。己でもよくわからない情動であった。


「貸与型の奨学金もあるにはあるんだがな。もちろん、条件は厳しいが」


 幸矢はちいさな声でいった。試すように。それが咲楽を刺激した。


「せやから、ウチ、貧乏とちゃいますねん!」


 咄嗟の反応であった。さすがに幸矢は驚いた表情を示すが、顔面だけの変化であった。


「なら余裕をつくりゃいい。せっかくの美人がもったいねぇ」 


「えらく性差別主義的な発言なもんですわ」


「まぁな。しかし、本当に美人だからこそまだマシだと思っちゃいる」


 咲楽は沸騰したように笑い声を発した。彼女は己の美貌に自覚的であったが、他人から直接表現で指摘された経験に乏しかった。ひとしきり感情を吐いたあとで、咲楽はつとめて冷静にいう。


「よくもまぁ、そないなことを……。歯の浮くよなことぬかして恥ずいと思わへんですのん?」


「正直、そういう親愛表現は好みじゃねぇさ。つまり、俺にゃ心の余裕がねぇんだろう」


 どう受けとっていいのかわからぬ発言を聞いて、咲楽は腕を組んだ。まったくそうだ、というふうに感じている。そして、己も余裕がないことも強く。ついで彼女は想像してしまった。のちに到来するはずの情動について。


「ほなら、時間の余裕はありますのん? ま、あるとわかってはおりますけど」


「ありすぎて困っているところだが、そいつがどうした?」


 幸矢は訝しげに訊ねかえした。咲楽は微笑みをつくって答えた。


「暇に苦しんどる孤独なふたりゆうなら、陽春の午後を徹底的に無為に潰したらどないや、と思いまして」


 咲楽は先延ばしをしたかったのだ。孤独を紛らわす時間のあとにやってくる、どうにもならない焦燥と寂寥をできるだけ遠ざけておきたくなったのだ。不健全だとは思っているが、しかし心の安定はそれよりも必要だと、彼女は思っていた。


「そりゃまたずいぶんと刹那的な……。あなたのような立場から同伴のお誘いを受けるとは、かような醜男としては身に余る光栄で。といっていいんかね?」


 ニヤニヤと笑いながら幸矢は牝猫へと振りかえった。ミャア、と彼女は応えた。了承されたということだろう。


 その様を見ながら、咲楽は朗らかにいう。


「性差別主義者ゆうなら、一も二もなく、了承したってください」


 端正な美貌に表された笑みを前にして、幸矢は浮ついた挙動で冗談に応じる。


「どうやら俺は、その前に古くからの交友関係を重んじちまう質らしい」

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