幕間・歴史の断層1 オレゴンの興亡
カリフォルニアと新清に挟まれた太平洋北西海岸はアメリカ連合帝国に属する北西共同体が統治している。
なおカナダのために弁明するのだが、新清との隙間にはナス入江というカナダが支配する内湾がある。つまり、狭小な海面を通じてだが、辛うじて太平洋に接しているわけだ。カナダの国是である”大洋から大洋へ”はしばしば嘲笑されるが、実際に達成されている貴重な事例なのだ。
それはともかく、北西海岸は当初から米帝が支配していたわけではない。かつてオレゴン自由国なる国家の領土であった。正確には北緯四二度以北の五四度四十分に至る海岸と大陸分水嶺までの間の空間を、独立国家が統治していた。
オレゴン自由国は一九六〇年に消滅している。アメリカ合衆国を挟み、北米大陸の東西沿岸に並立していたオレゴンと米帝はラファイエット朝の帝冠――”アメリカ人の統合を象徴する帝冠”のもとへに合同したのだ。
まっとうな民主的な手続による併合という稀有な事例であったが、むろん皆から歓迎されたわけではない。全面核戦争はもはや不可避である、といった錯乱した主張が(主に合衆国で)流行したものだ。が、半世紀以上もの時間が経過したが、世界はおおむね平穏を保っている。
当然ではある。そのために日本など列強は核戦力による秩序の維持に多大な努力を払ってきたのだ。そしてふりかえってみれば、オレゴン自由国が独立国家として成立しえたのは、北米大陸の不安定な政情がおおきな要因なのだ。
十九世紀前半、北米大陸では巨大なゲームが進行していた。大西洋から太平洋へ、領土を伸ばしていく競争だ。プレイヤーは合衆国と英国、それに米帝の三者。彼らは熱狂的にプレイしていた。が、太平洋北西海岸が舞台となった段階で、プレイヤーたちはゲームの終了条件について取決める必要に迫られた。むろんいずれかが総取りして終了ならばわかりやすい。いずれのプレイヤーも、それを達成するには莫大な流血が必然であるのを理解できる程度には理性的であった。
一方、北西海岸にはインディアン部族はもちろん、仙台伊達家領民と称する日本人の社会が存在していたが、はなから考慮されていなかった。彼らの人口よりも、ビーバーの生育数のほうがよほど実際的な意味があった。そういう空気の時代であった。
ともあれ、合衆国・英国・米帝の三者は外交による解決を欲していた。交渉の最初の成果が一八一八年に締結された条約といえる。一般的にこの条約は、大陸分水嶺以東における合衆国・英国の国境線の北限を北緯四九度と定めたことで知られるが、太平洋北西海岸についても触れられていた。十年間、共同占有というかたちで境界確定を保留したのだ。とりあえずプレイヤーたちは猶予を確保できたわけだ。
そして一八二八年が到来した。共同占有は十年間延長された。領土紛争はとかく時間が必要なものなのだ。ましてや文明人の人口が希薄な土地なのだからなおさらだ。来世紀のなかばまで継続するとはよもや予期しなかっただろうが。
さて、ここであらためて北米大陸の地図を確認してみよう。米帝の領域はおおむね北緯三六度三十分以南に存在する。ならば北緯四二度以北の問題に介入する道理などないはずだ。
それでも米帝は北西海岸になんらかの権益を確保できるよう執拗に運動していた。米帝も太平洋をめざしていたのだ。だが、米帝の西隣はメキシコの土地であって、また奪取できるほどの力がなかった。まぁ、難しい環境ゆえに無理筋な要求をしていたのだ。
もし合衆国と英国だけの問題ならばすんなりと解決できただろう。実際のところ、両者は誇大妄想じみた主張を交わしつつも、既存の国境線の延長を念頭において交渉していたようだ。だが、米帝の存在が障碍となった。土地を三等分するには、四九度線はやや南寄りであったのだ。
当然ながら合衆国と英国が連合して米帝を排除する意見も強かった(つまり懲罰的な戦争をふっかけることも含めて)。しかしながら、両者ともに、もっとも脆弱かつもっとも厄介なプレイヤーを無視できない事情があった。
合衆国からすれば、米帝は弟であった。家長が気に喰わないからと家出したようなものとはいえ、ともに合衆国独立宣言を精神的支柱とみなす間柄であった。ふたりは同じアメリカ人であり、アメリカ人ならば大陸にまたがる偉大なる国家を建設するという”明白な運命”を遂行しなくてはならないのだ。まったく空想的であるが、第十六代合衆国大統領が就任するまでは現実的目標として扱われていた。
もっと俗な理由もある。合衆国の最大の輸出先は米帝で、かつ最大の金の輸入元であった(つまりUSドルを支えていた)。その米帝と組まなければ英国、またはメキシコと対抗できない段階にあった。
さらにくわえて、ルイジアナ購入に、ルイス=クラーク探検隊も、米帝のジェファーソン大執政の働きがおおきかった。ジェファーソンの友情的な申出がなければ合衆国の拡大もなかったのだ。そういったわけで無碍に米帝を斥けることはできなかった。その態度は後代の合衆国市民から批難されるのだが。
一方で英国が抱える理由はより切実なものだった。英国はラファイエット朝をとりわけ警戒していた。アメリカ独立戦争とフランス大革命の記憶が生々しい時代だ。そのふたつの動乱で活躍した男を、米帝はギルバートⅠ世として皇帝に戴いていたのだ。彼にナポレオンⅠ世の幻影を重ねたのも無理からぬことだろう。
また、英国はギルバートⅠ世がフランスの名門の出自であるという事実を過剰に評価していた。その点で一八二四年のギルバートⅠ世のロウワー・カナダ(今日のケベック州)への行幸は悪夢であった。が刺激になったのだろう。当人としてはただの親善訪問のつもりであっただろう。が、結果として現地のフランス系住民の反英感情を刺激してしまった。
フランス系住民は同胞であるギルバートⅠ世による統治を望むようになってしまったのだ。老獪なギルバートⅠ世は抑制的な反応しか示さなかったが、それだけでも英国に対する牽制となった。英国はロウワー・カナダを暴発させないため、米帝を領土紛争の当事者として認めるざるをえなかったのだ。なお英国の懸念は一八三七年のロウワー・カナダ反乱として現実のものとなる。
とにもかくにも、米帝はひどく難しい情勢を深く理解したうえで都合よく利用していた。もっとも米帝はコロンビア川沿岸に拠点を確保できれば上出来だと想定していたようだ。本当の目標はミシシッピ川以西のメキシコ領への進出であり、そのために合衆国を巻込みたかったのだ。北西海岸に対する主張は合衆国世論を惹きつけるためのネタ程度にすぎなかった。
米帝の思惑は一八三六年のテキサス共和国独立により一部が達成された。その際、米帝以上に合衆国の世論が喝采を送った。アメリカ人の西への拡大を勢いづけるものとして捉えたのだ。その実、将来の敵国の拡張に繋がっていることには無視していた。英国はしぶしぶながらテキサス共和国を承認した。アメリカ人からの不興を買いたくなかったからだ。
だが、アメリカ人の政府にとって、国民の北西海岸への情熱をいかに沈静化させるかが新たな課題となった。ゆえに譲歩した結果と思われないよう、派手な主張を投げつけるパフォーマンスがたびたび行われた。英国もしかたなしにつきあった。世界帝国としてのメンツからだ。なんとも民主主義国家らしい態度だが、時間が空費されることになったのだ。
ただ、北西海岸の開拓者たちにとり、楽しめぬ芝居であった。英国も、ふたつのアメリカも、競いあって開拓者を送りこんでいたわけだが、彼らの社会を制御する権力はいっこうに到来しそうになかった。なんであれ開拓者たちは早い決着を望んでいた(己が帰属する陣営に都合よくという前提があるが)。
痺れを切らした開拓者たちは、ついに北西海岸一帯を管理する自治政府を樹立してしまった。恐るべきことに英国系、米国系の違いを問わず、居留地の大半から承認された政府であった。この政府はオレゴン暫定政府と自称していた。一八四三年のことだ。以来、北西海岸の領土問題はオレゴン問題と呼ばれるようになる。
オレゴン暫定政府の成立で活躍したのが北西会社であった。北西会社はロウワー・カナダのモントリオールから発祥した毛皮貿易をなりわいとする私企業だ。勅許会社であるハドソン湾会社との流血の抗争を経て大陸分水嶺の西に放逐されたのだが、北西会社は業態を変えながらしぶとく生き残ってきた。
年々、実入りのすくなくなってきた毛皮に見切りをつけ(乱獲が原因なのだが)、北西会社は日本向けの昆布・鮭の輸出で収益を改善させると、激増する開拓者相手の事業を主力に据えた。農機具や種子の貸付、消費財や銃器の販売、生産物の集荷やその市場への出荷、それに新規開拓者の募集や土地の斡旋などなど。また一部の居留地では警察業務も請けおっていた。つまり社会インフラの役割を果たしてたわけだ。
北西会社の事業でもっとも利益率が高かったのは手形の振出であった。あくまでも回収ではない。
正貨(ようするに紙幣と交換可能な金)がすくない社会なので生産物の買取も手形で支払われたのだ。自然と北西会社振出の手形が日常的な決済手段の主流となっていた。しかし、手形はたしかに有価証券であるが、期日までに記載額相当の現金を用意しなければならない。それができない状態が不渡りだ。
ならば気前よく手形を振出していた北西会社は、遅かれ早かれ経営資金が枯渇するはずなのだ。だが、彼らには打出の小槌があった。パートナーシップを結んでいた個人銀行群だ。
手形の現金化を望む者は北西会社支配下の銀行へ依頼した。ちゃんと紙幣が支払われるのだが、紙幣というのが厄介なのだ。そこで用いられる紙幣は東海岸で流通しているものではなかった。その銀行が発行した紙幣であった。そう、銀行独自の紙幣だ。
今日では信じがたいが、当時は銀行であれば紙幣を発行できた。むろん保有する正貨に応じて発行高を制限する規制が存在していた。が、たいてい無視された。つまるところ、額面は一USドルであろうと、実際の価値は適当な印刷がなされた紙切でしかない事例が多々あった。
かようないいかげんな銀行は山猫銀行と呼ばれた。人間よりも山猫がおおい土地で営業するのが典型であったからだ。田舎には律儀に正貨との交換を求める人間がすくなかったので、詐欺師の格好の稼ぎ場となっていたのだ。まぁ、この実態を知ると、ウサギを喰らう山猫に擬した名称に思えてくる。
なんとも頭が痛くなる現象だが、それなりに対応する手段が存在した。流通するすべての紙幣の交換レートのカタログが定期刊行されていたのだ。商売人はそのカタログを参照して紙幣を扱ったわけだ。ちなみに最盛期にはざっと三千種の紙幣がカタログに記載されていたという。
閑話休題。山猫銀行を経由すれば、なんら信用の裏付け(額面どおりの正貨と交換できる保証)がない紙切で手形が決済できるなら、北西会社はまったく腹が痛くない。錬金術というよりも詐術だが。さらに問題なのは、紙切で買取るのは開拓者たちの生産物であり、それらは東海岸などで”信用できる”通貨と交換されたことだ。
一方、開拓者が借金返済で焦げついたなら、北西会社は容赦なく土地など現物を収用した。そして奪いとったものは新規の開拓者に転売した。もちろんのこと、支払は信用できる通貨か証券しか認めなかった。
なお、インディアン相手の場合、手形ではなく、粗悪な酒か銃が支払手段となる。
上記を踏まえ簡潔にまとめる。北西会社はまっとうな商業ではなく収奪によって繁栄していた。
それでも北西会社は無主の地に住む人間にはありがたい存在だった。しかし政府には迷惑きわまりなかった。おもに開拓者からの徴税の観点で。四〇年代はじめに総人口三万に達していたオレゴンの開拓者はそれなりに生活できていた。しかし外で通じる現金をほとんど有していなかった。
滑稽なことに、北西会社は合衆国・英国・米帝の各政府にも利益をもたらしていた。だから簡単に会社の清算ができない状況にあり、境界確定よりもよほど真剣に協議されてきた。
北西会社は一八二一年のハドソン湾会社との和解を契機に、つまりその縄張から追放された時期に本店を米帝メリーランド州ボルチモアへと移転していた。ジョン・ジェイコブ・アスターというドイツからの導術者移民が買収したからだ。同時期に彼は合衆国のニューヨーク支店を不動産・金融事業の中枢として改編させた。
ようするにロウワー・カナダ、合衆国、米帝に本拠地を分散させたわけだが、新天地での事業が発展してくると、いずれの国でも信用が高まってきた。さらには幕末の日本で紅鮭が異常にもてはやされるようになると(サーモン・ブームと呼ばれ、新清入植まで数十年にも及んだ)、貴重な金を運んでくる英雄とみなされた。同時にこれは重要な高額納税者に位置づけられたことも意味していた。
そして納められる税金はオレゴンにおける事業からの収益があってこそだし、またその事業はオレゴンが無政府であるからこそ黒字であった。境界確定は事業の破綻をもたらし、同時にその後に発生する北西会社への補償金支払は長期間の訴訟沙汰に発展するだろう。まったく逃げだしたくなるような問題だ。
まぁ、アスターにとっては、会社の売値をどこまで吊りあげられるかが最大の関心であった。暫定政府の債務を喜んで引受けたのもそのためだ。実質価格ではなく額面金額で買取られることを予期しての投資だ。アメリカ人初の億万長者であったアスターは商機をむりやりに活かすことで莫大な資産を築きあげてきたのだ。
ちなみに皮肉なことにボルチモアの市民であったアスターは、会社売却の収益をニューヨークの不動産投資にあてる目論見であったらしい。北西会社を乾坤一擲の勝負のための種銭とみなしていたのだ。
アスターはかつて導術者であるばかりに合衆国を離れざるをえなかった。だが、莫大な資産の大半はニューヨークの地面から湧いてきたものであった。彼は”ニューヨークの不在地主”と罵られても、その地所への執着を捨てることはなかった。むしろ手掛けた事業はすべて所有地拡大のための方便にすぎなかったかもしれない。
だがアスターは老境にあった。そのためか焦りすぎていた。動きの遅い国家を急かすために危険な賭けを行ってしまったのだ。一八四五年の末、ロシア帝国の植民会社である露米会社に対し、北西会社との株式交換を提案したのだ。おりしもテキサス共和国が米帝に併合されたのと同時期であった。これがアスターの人生で最後で最大の失敗といえるかもしれない。
露米会社はオレゴンよりもさらに北の大地、のちに新清と呼ばれることになる広大な領域を支配していた。その面積こそ非常に巨大だが、十九世紀の技術では利用価値を見いだせない原野であった。ゆえに露米会社は万年赤字の状況にあった。オレゴンで産みだされる利益に与れるのは願ってもないことだろう。ゆくゆくは自分たちの商品も売りこめると目論んでいたに違いない。めぼしい商品はロシア産の人間ぐらいしかなかったが。
この億万長者の企てはたしかに事態を急変させた。米帝・合衆国・英国の政府は異常な速度で領土問題についての条約を締結したのだ。のちにオレゴン条約と呼ばれるものだ。
内容を要約してみる。オレゴン暫定政府を関係国は独立国家の政府として承認する。あわせて、関係国はオレゴンへの第三国の干渉を拒絶する義務を負う。関係国とオレゴンとの間での一定程度までの境界紛争は個別に協議する自由を認める。なお、次の事項も了解された。ただし、領土紛争が解決するまでの暫定的な措置にすぎない。
なんともまぁ、いいかげんな内容だ。それほどまでに英国人、米国人はロシア人という不確定要素をオレゴンを巡るゲームに加えるつもりなどなかったのだ。ゲームの中断を決意してでも、だ。
老人アスターの落胆たるやいかばかりか。が、彼が所有する北西会社は事業の存続を許された。オレゴン政府による規制で暴利を貪ることはできなくなったが、まだまだ利益をもたらしていた。
晩年のアスターは利益をニューヨークの地面ではなく、米帝の製造業へと注ぐようになった。母国へのささやかな貢献のつもりか、はたまた天啓じみたものがあったのか。まぁ、死ぬまでの短い期間の暇潰しと見る向きがおおいが。
一八四八年、アスターは八四歳で死去した。米帝の製造業への投資の結果は知ることができなかった。なお、投資のリターンであるが、後年の第一次南北戦争で最初の利益をもたらし、さらには第二次南北戦争で不変的な評価を得た。もっとも、アスターの趣味であった学芸へのパトロン事業のほうが、よほど人類史的な価値があるかもしれない。
かくしてオレゴン自由国が発足した。一八四六年六月十五日のことだ。オレゴンの開拓者、いやオレゴン人にとっては不本意な、他国から強制された独立であった。
だがしかし。いくら宙ぶらりんな存在とはいえ、ひとたび国家としての道を歩みはじめたとなれば、その存続に努力を重ねるのは道理ともいえよう。オレゴン人たちは隣接する英国や合衆国ではなく、遠くにある米帝と協調する方針を選択した。強大な隣人と仲良くしすぎれば、ついには己の土地を奪われてしまうだろうからだ。ならばその隣人に掣肘する存在を求めねばならない。米帝の位置と実力はオレゴン人にとっては最適であった。
そして英国は早期にオレゴンに関する合意から離脱した。オレゴン政府が大陸横断鉄道の敷設を認可したからだ。経済における実利さえ保証されるなら、領土問題など関わりたくなかったのだ。半世紀近くに及ぶゲームに英国は辟易していた。
しかし合衆国はオレゴンへの妄執をけして捨てようとはしなかった。彼らにしてみれば”明白な運命”の対象であるからだ。それがかえってオレゴン人の警戒を強めることになっても、露骨な挑発を繰りかえしていた。ついには領土の一部を削りとるという暴挙まで行っている。
こうして米帝は漁夫の利を得た。自由な気風が醸成されていたオレゴンはいかなる移住者も拒まなかったが、これを幸いとばかりに米帝は大量の人間を送りこんだのだ。これには第一次南北戦争による深刻にすぎる打撃に対する措置という性格があったが。結果としてオレゴンの米帝への親近感は年を経る毎に強まっていった。ついには米帝のリベラルな側面という役を演ずるまでになった。
そして、日本は初期に人間を、のちには生糸をオレゴンへと盛んに輸出していた。オレゴンを経由すれば低率の関税で北米市場にアクセスできたのだ。一方でオレゴンにとっては日本は小麦などの農産物、くわえて飛行機を代表とする工業製品の有力な輸出先となった。日本とオレゴンは太平洋を挟んで友好関係を深めていった。
かくして妥協の産物であるオレゴン自由国は、一世紀あまりを生存してきた。独立の維持を希求しながら最後には自ら消滅を選択したのだ。同盟という選択もありえたが、そういったもののいい加減さを学ぶには百年という時間は充分であった。
第三次世界大戦で合衆国に国土を蹂躙された経験を踏まえ、人口一千万少々の国が生存するには条件が厳しすぎると判断したのだ。これは国民の合意を経たうえでの決定であった。とはいえ、彼らが身体を委ねた国は、彼らを銃でもって呑みこもうとした事実は存在しない。また、国家の領土的一体性を堅持する旨を憲法で宣っており、かつ憲法を遵守することに関しては神経質な気風があった。
また、オレゴン人は内政では広範囲の主権を維持することに成功した。もともと米帝はその構成する州の権限がおおきな国ではあるが、それを勘案しても特別な立場であるといえた。
では、米帝にとっての利益はいかほどのものであったか。彼らとて”明白な運命”を信仰していた。つまり、太平洋岸を得ることは国家の悲願であった。くわえて述べれば、合衆国がカリフォルニアを独占してしまったことが、この兄弟国家の対立を決定的なものとしてしまったのだ。
なんとなれば、オレゴンの領土問題は最後に平和的に収束したともいえようか。
そしてオレゴン自由国をいかように総括すべきか。
オレゴン自由国はその独立からその消滅まで一世紀あまりしかない短命な国家だ。その歴史を眺めてみると、翻弄されながらも自主的に独立国家としての地位を守ろうとする苦難の連続である。そして、その消滅は名誉のための降伏とでも例えられようか。また、その降伏はおおきな実利をもたらした。
強かであった、としか評価しようがない。




