静寂に語らえば3
「意志と智慧? そいつぁどういうもんなんか、この愚弟に御高説を宣ってくれねぇかな?」
あからさまな口調で幸矢は幸音を促す。兄である幸音はただ鼻で笑った。ごくごく慣れた対応のように見える。
「さっきの例なら、笹舟が流されるだけつったって、低く下だけ見るか、高く遠くを見るか。意志次第だ。ま、経験の差が現れるともいえるかもしんねぇが」
さりげなく、幸矢に意趣返しを混ぜてきた。
「ついでに、叫んでみたり、手を差しのべてみたりできらぁな。あと、艪の存在に気づけるかどうか」
「艪を積んでんの? そんな前提なんざいってねぇじゃん」
「積んでねぇと限定したつもりもねぇが。ついでに櫂を積んでねぇと限定してもいねぇぞ」
幸矢はくっきりとした苦い笑みを示す。「そいつぁ詭弁だ」
「しかし、俺の発言からてめぇで推進力を発生させることができると想像したはずだ。なら、そんな前提知識がねぇなら? そいつらは変な木細工にしか見えねぇだろな。さらにおめぇは使いかたがわかんのか? 俺はうまく操れる自信がねえぞ」
「……そのへんの要領の良さが、智慧?」
「うん。縁を離したくなきゃ、その意志と智慧をいかに使うか、てこった」
幸音は今までになく力強い声で語りかけた。幸矢は慎重な面持ちで頷く。
「座礁しねぇように視野をひろく、進路を検討し、ゆめゆめ警戒を怠るな。そしたら消えちまった舟が見つかるかもしんねぇべや。そしたら、大声で叫べ、道具を使って寄ってみろ。邪魔するもんがありゃ、ブッ潰せ。艪でも櫂でも殴る道具にできらぁ」
ずいぶんと物騒な話だが、幸音はひどく冷静な顔をしていた。
「さて、やっとのことで接舷できた。そん時は腕をいっぱいに伸ばすこった」
ここで幸音はおおきく深呼吸した。穏やかな笑みをつくり、弟を仰ぎみる。
「向こうからその手を掴んでくれるさ」
夢みてぇだ、と幸矢は応じた。気休めだ、という感情はある。が、身体が暖かくなる感覚がたしかにあった。
「ただ、オトクンもずいぶんと神職らしいことを宣うようになったじゃんか」
幸音は愉快そうに笑った。ことさら偉そうに腕組みをする。
「便利屋しかしてねぇと思ってたんだろ? 忘れてんだろうが階級は明階だぜ」
ひどく自信にあふれる口調であった。その態度に幸矢はふと以前からの疑問をおもいだした。冗談めかして兄に訊ねてみる。
「オトクンが法曹になんのをやめて神職になったんも随神、つうことなんかね?」
*
奉神舍大學法学部法律学科法曹専攻卒業。それが幸音の正式な最終学歴であった。しかし、卒後も学修を重ねている。学部卒業後、浪人を経ずに奉神舍大學大学院法曹専修研究科一般課程に入学。その際に司法省委託学生に採用されている。そして初年度で中退。のち総合教養学部神道学専攻科に入学する。この一年の課程を修了し神職階級正階合格明階試験免除として神職資格を取得。それら実際の学歴は幸音と親しい人間しか知らない。
一般的にみて非常に異色な経歴といえた。ひどく下衆な観点だと、もったいないともいえるだろうものだ。
法曹専修といえば、かの奉神舍法学部法律学科一年生のうちでも充分に有望な人間にしか門戸を開いていない。まぁ、法曹専修研究科一般課程ストレート入学という凄味をあらためて述べるまでもなかろう。説明が足りないというならば、以下の事実を挙げるとしよう。入学の際に課せられる修習学生統一選考に合格するだけで行政書士・司法書士試験免除となる。
もっとも課程修了後の一般法曹試験の合格率は非常に高い。が、それは医師国家試験も同様だ。つまるところ、法曹も医師と同様に五年間の学修で資格を得られるものとして制度設計されているのだ。
これも昭和改新の成果だ。従前は高等文官司法科試験が弁護士資格を担保するという体制であった。それが民主的でないというので司法官任用試験から法曹試験を分離させたのだ。もっとも、高等文官司法科試験の受験資格が中等学校卒であったことからすると後退であると見る意見もある。
ついでにいえば、官の任用試験という性格が全廃されたわけでなく、判事及び検事の志望者には司法省から奨学金が貸与されるという司法省委託学生が存続していた。ようは委託学生採用試験とは司法官任用試験と同質であった。
つまり、幸音には法曹としては安定した将来があったことになる。彼はそれをいとも簡単に捨てた。
家族内での意見はとにかくとして、大学としても失望したことだろう。俗に法学校と呼ばれる法曹研修研究科は一般法曹試験の合格率にとかく神経質だからだ。教育効果の測定には人数よりも大切な要素なのだ。そして、司法省委託学生とは試験官から合格内定をいただいているような存在だ。
しかし、幸音は初年度で中退したために合格率には影響を及ぼさなかった。よって、大学は司法省からちょっとした小言を伝えられた程度で、表面的には名誉は保たれた。まぁ、中退者なりに仁義を通したことになるだろう。
かような経験を得て、現在、幸音は一介の神職として実家の神社に奉職しているのだ。
*
幸音は遠いどこかを見つめながら、弟からの問いかけにうなづく。
「ま、そういうことだろうな。法曹への志がふらついてた時に、カミさんが修行してるとこを見てたのが理由になんのかな」
そのようなことで決断したとは、と幸矢は思ったが声にはださない。
「ほら、彼女は神道について考えるために琉球からやってきたんだ。そういう姿勢に刺激されて、決心したんだわ」
「そりゃ、義姉さんが南国美人てのもあんだろうね」
茶化してはいるが、幸矢は内心では意外に感じていた。兄が神職を選択した本当の理由をはじめて知ったのだ。やっぱ家業だからね、と幸音は今まではぐらかしてきたのだ。
「うん。ハナからいい女だと思ったよ、正直。ああ、俺が予科二年の春だ。カミさんがSPTCで学部一年。親父に新入生として紹介された時からだ」
このような経緯を聞かされた幸矢は困惑の表情になった。家族の惚気話はなんとも扱いに困るものだ。
「でもまさか、師匠となって、さらに同僚、嫁になるたぁ思っちゃいねかったけどさ。いやぁ、こういうのを奇縁つうのかね」
幸音の妻も同じく〈大神靈神社〉に奉職していた。さらに神道史の研究で博士の学位を得ていた(しかも課程博士だ)。年に一度は学会誌に寄稿し、半年毎に学会にも参加している。学究の徒としても、幸矢は敬意を感じている。
それに、彼女がつくるラフテーには信仰に近い念を抱いていた。また、四季を通じて花を育てているのも素敵だと感じていた。善き伴侶を得た兄を素直に祝福したかった。
それでもなお、幸矢は訊ねずにはいられない。
「でも、いくら意志に問題があったからつって、なんで法曹を諦めたんだよ?とりあえず課程を修了しておきゃよかったじゃん。軍医と違って服務義務規定なんざねぇんだべ? 任官拒否すりゃ奨学金返納しなくちゃならんけど。とにかく、べつに資質に問題があったわけじゃねぇベ?」
幸音は淡々とした声で答える。「その資質に疑問を感じちまったんだわ」
「なにがあって、そんなことを?」
問いかけたものの、幸矢は兄の冷えきった視線を感知し、怯える。
「以前の、ステラにまつわるゴタゴタだな。……なんつうかね。法曹たる者、法が許さぬ自力救済に賛同しちゃなんねぇんだよ。てめぇの商売道具を虚仮にしやがる人間が、どうやってまともな職業人になるってんだ。いや、限界を認識してるとかの問題じゃねぇぞ。いわば、智慧の使いかたの問題だ」
「いや、あれはあれで正しかったと……」
「素手の人間を相手にして即時射殺を推奨すんのはどうよ? そりゃ実にたやすく無害化できるだろうが。……俺は検事になりたかったんだ」
幸矢はそれ以上については確認しなかった。正直なところ、幸矢はその一件については暗鬱だが、また勝利と結びつく記憶となっていた。だが、兄にとっては将来への展望を崩れさせるほどの経験であったということだ。
「だからって、神明への奉仕しようてのも、大胆な決意だと思うけどね」
「莫迦だわな。だがよ。神明は法とか人とかを超越してんだ。人生に悩んでる時に、あらためてそういうもんに触れたくなるつうのはわかんだろ、ヤックン?」
幸矢はわずかにうなづいた。理解できるが、納得しきれない。
「ああ。けどさ、ステラが消えちまってから、素直に神様を信じることができねぇんだ。むしろ、恨んでんかもしんねぇ。そいつは理解できっか、オトクン?」
幸矢の本心からの言葉だった。さすがに神職である幸音は眉をひそめる。
「この宇宙を恨むのと同質だわな」
だろうね、と幸矢は苦笑する。面倒な奴だねぇ、といやに明るい声で幸音は呟いた。それから、彼は表門の屋根を眺めながら語りかける。そこはだいぶ明るい翡翠色になっていた。
「でも、どうにもできねぇでけぇもんを恨み憎むつうの、神明を祭祀する感情と同根だと思うよ」
幸矢は感情のままに応じる。「そいつはやや強引だと思うな」
「そりゃ心理学ならずっとスマートに説明できるだろうさ。そんで、俺みてぇな人種は愚鈍と見なされてるかもしんねぇが。でも、俺はそういう理学で宇宙を語る人間を尊敬するけどね。彼らなりの道具で真剣に宇宙に対峙してっから」
幸矢は兄の言葉に深くうなづいた。かつて、幸音が姉から理科科目を教授されている場につきあっていたものだった。幸矢はふと、そのことを思いだした。
「でもよ、いくら科学の言葉で説明されても、傷ついた心が癒やされねぇ場合もあんだろうな。いや、理屈で納得しきれねぇもんは世の中に無数にあるわな。そういうモヤモヤを消すための方式がやっぱ必要なんだろうよ」
そして幸音は幸矢の瞳をまっすぐに見つめる。
「俺はそのひとつが神道だと信じてる。で、この俺は八百万の神を崇敬し、そんで奉仕するただの人間だが」
「ほんとにオトクンは神職らしくなったわ。まさに天職つうみてぇに」
そして幸音は堂々とした態度で宣う。「ま、家業だからな」
兄弟はそろって表門を高く仰いで苦笑する。
「俺は迷える子羊に対しこんな戯言しかほざけねぇよ。そんでもよかったか?」
「助けてもらってばかりなのに高望みはできねぇじゃん」
「まったくだ。朝の眠てぇ時間に難しい話をさせやがってよぉ」
わざとなのか、つっけんどんなふうに幸音は応じた。
「で、今日はどうすんだ?」幸矢は簡潔に答える。「福生に行ってみる」
幸音は思うところがあったのか、福生ね、と嘆息するように呟いた。
もっとも、幸矢はその目的地をこの瞬間に思いついたのだ。気晴らしに遠出したかったのだが、本来は多摩川沿いに降っていくつもりのはずだ。が、幸音から問われて、なぜか急に福生まで足を伸ばしてみたくなったのだ。
「で、春期祝祭にゃ面ぁださねぇつもりか? 毎年の楽しみだろ?」
「神輿巡幸ぐらいは見とくよ。そっからは酒を飲むわ」
「いいねぇ、暇な学生は。俺もたまにゃ気兼ねなく昼間から酔いてぇもんだわ」
幸音はおおきく伸びをする。対する幸矢は微笑む。祭礼があるたびに幸音は夕刻には赤ら顔になっているのだ。義姉はといえば同じく赤ら顔になるが、上機嫌に三線を弾くのが常であった。幸矢の役目は彼らのとりとめのない話の聞き役であった。
「つまらんことにつきあわせちまってすまねぇな。掃除を手伝ってくよ」
「いや、気にすんな。どうせ午前中いっぱい参道を清める予定だったんだ。しかしダラダラしてもいられねぇや。カミさんに怒られちまう」
神職の義務のひとつは境内を清浄に保つことだが、なかなかに重労働だ。とくに〈大神靈神社〉の場合、境内が広大なだけあって、掃除だけで一日が暮れることもままある。
「それにしてもさぁ、師匠であって、職場での先輩。家に帰りゃ、おんなじ人が妻、母としている。ちょっとやりづらくねぇの?」
「そうさなぁ。俺にとっちゃ、神社では互いに先生、家じゃ名前で呼びあってる。そんぐれぇの違いしか意識してねぇからな。……いやぁ、つまらん答えですまねぇな」
幸音は見せつけるようにニヤついた。
『たく、どんだけなんだか……。で、もしもだけど、俺とステラが夫婦になったら、どうなったんだろ? ま、オトクンみてぇにゃなれねぇだろうけど。そんでも、微笑ましい関係にゃなれたはずだ。いや、そんなの……、死んだ子の歳を数えるようなもんか』
そんなことを考えているうちに、幸矢の右頬がちいさく震えた。それを認めた幸音はなんともぶっきらぼうな調子でいう。
「さ、遠出すんなら、とっとと出発しちまえ。ほら、メルがつまんなさそうに見てんぞ」
促されて幸矢はそばに停めたシティサイクルを見やる。前篭に牝猫が上品に収まっていた。
幸矢たちのやりとりを聞いているのか、彼女は鳶色の耳をピンと立てている。
「それじゃ、また。あ、今度、なんか忙しい時は俺を使ってくれていいから」
幸音は微笑みながら、覚悟しとけ、とだけ応じた。
「じゃ、メルよ、おっぱじめようか」幸矢の声に牝猫は元気良く鳴いた。
幸音は穏やかな面持ちで、幸矢の背中を見つめていた。
それから幸矢は自転車を全力で駆り、まず府中へと向かった。多摩川に架かる橋の途中で彼ははじめて背中を振りかえった。こんもりとした森と、そこからつきでたビルが見えた。それは彼が生きてきた空間であった。
その場で幸矢は停まり、背後の情景へと呟く。
「奇しき縁、か。なんとも面倒だが、俺にゃありがてぇもんなんだろう。……そんで、それを確認したくなっちまった、つうことか」
幸矢は自嘲しながら前方へと視線を戻した。すると前籠の牝猫と視線が交わった。幸矢の呟きを確認していたのだろう。
幸矢はただ朗らかに牝猫にうなづいてみせ、再び自転車を疾駆させる。
幸矢は牝猫の他に己に注意を向ける人間がいなかったことに安心していた。ひどく情緒的な挙動であったから。だが、事実は違うのだ。
多摩川の堤防上から見つめる人間のことなど、幸矢が想像できるわけがなかった。その彼は立派な髭を蓄えた老人であった。




