静寂に語らえば1
この日、最初の陽光が銅板葺の屋根に触れた。玉響、鮮烈な煌めきが生じた。
仄暗く、夜の冷たさが澱む底からその様を目撃していた者がいた。幸矢だ。灰色のジャージのせいでその姿はなかば周囲と溶けこんでいた。
『やっぱ、この瞬間がいっちゃん美しいもんだな』
幸矢が恍惚としたまなざしを向けているのは大規模な木造の楼門だ。緑青の屋根に構造材は朱塗り。そのうえ至るところに彫刻が配されているので、白昼なら実にやかましい印象をあたえるだろう。しかし、すべての色彩はまだまだ自己主張を控えている。
この楼門の正式名称は表門といい、なんらおもしろくもないものだ。だが、徳川家光が寄進した江戸初期からの建築という貴重な価値を有していた。なお一般には”南多摩の陽明門”として知られている。
ともあれ、表門は〈大神靈神社〉の核心である三つの本宮――大元本宮、春日別宮、吉野別宮と外界を画す存在であり、また官幣小社(近代社格であるが)の権勢を知らしめるには充分に機能している。
が、幸矢は払暁の表門を愛でるためにいるわけではなかった。彼は用件がないかぎり、この時間帯に境内を訪れることはなかった。今回の用件の相手は、傍らのベンチに腰をおろしている三〇代と思しき眼鏡の男であった。彼は白砂の敷かれた参道を凝視していた。
その男は幸矢とよく似た顔貌だった。背丈も少々、低い程度でやはり痩身。身なりは白衣に浅葱の袴と、和装。つまり、下級の神職でることを表している。
昨日の出来事を伝えるために幸矢はこの男へ会いにきたのだ。森の深奥を訪ねたことや、そこで出会った眼鏡美少女については注意深く排除しながら。男は話に沈黙して耳を傾け、終わった後も無反応を維持していた。陽が顔をだしたのを待っていたかのようなタイミングで、彼は言葉を発する。
「で、ヤックン。結局、おめぇの決心はどうなったんだ」
気安い言葉遣いだが、声音は厳しかった。
「……どうも不安は消えてくんねぇな」
幸矢は男の頭頂を見つめていた。視線を交わすつもりになれなかった。
『やっぱ、進行しちゃってるよな』
短く刈りこんでいるが、頭髪の密度の薄さは(この環境であっても)隠せていなかった。幸矢はこれに哀れさを感じたが、同時にぼんやりとした罪悪感もあった。
「復学するつもりがねぇんなら、それなりの理由をこさえとけ。この前、お父さんがいってたし、俺も同意見だ。まぁ、継続できるか精神的に不安があるつうなら、良心的な精神科医を紹介してやろっか? 御輝にツテがあるようだ」
幸矢は首を横に振る。こんなことで姉の手を煩わせたくなかった。
「いやいや、腹を据えきれぇてだけで、復学するさ、ちゃんと。まぁ、はじめに報告しなくちゃなのは、オトクンじゃねぇだろうけどさ」
オトクン――幸矢の兄である弓庭幸音は、そいつぁいいことだ、と素っ気なく応えた。
一回りも歳上であり独立した世帯をつくっている幸音と、留年した学部学生で実家ぐらしである幸矢。この兄弟は週に一度は飯を食べる程度のつきあいだった。が、幸矢にはその距離感が微妙な話題に触れるにあたってはちょうどよかった。それでも、余裕のない時間を狙って兄をつかまえたのだ。やはりふわふわしている己が後ろめたかったのだ。
弟のほうを一瞥せずに幸音は淡々とした声音で語りかける。
「決意表明なんざいらねぇさ。書類への署名捺印を頼むだけでいいだろよ。ま、単位は限界まで登録しとくこった。そんでひとつも落とすなよ。進級に必要な単位そのもんはすくねぇたって、楽な年度にしちゃなんねぇんだ」
「まことに的確で容赦ねぇな」幸矢は茶化してみせた。
「外野からのボンクラの穀潰しつう印象を覆したきゃ、どんなパフォーマンスをせにゃなんねぇんか意識しろってこったわな。ま、こいつは弓庭の一員としての忠告だとでも思ってくれりゃいい」
「弓庭の一員、ね。オトクンがんなことほざく日が来るたぁ思ってなかったな」
幸矢は渋い顔つきで嘆息する。幸音もやはり渋い顔で腕組みをする。
「で、オトクン。兄貴としての意見はどうなんの?」
「なんであれ、復学は評価する。正直、無理のねぇペースでなじんでくれりゃいいと思う。一流プレイヤーだって、調整もそこそこに戦列復帰したとこでロクなことなりゃしねぇから。……誰もがんなことわかっちゃいるが、事情が許さねぇつうのもままあるじゃん。そういうことでな、ヤックン。なんとかやってくれや」
なお幸音はプロ野球観戦が趣味であった。神宮球場がホームだ。
幸矢は苦笑して応じる。「やっぱり容赦ねぇ」
「優しい言葉を選んだとこで嘘くさく感じちまうだけだろ、ヤックン。そんで、あといいてぇことはだな。……春陽くんのことが、どうにも残念だ」
「あいつのこと、そんなに買ってたっけ?」
兄の発言は幸矢の感情を少々刺激した。
「いや、おめぇにとって益があるとかつうのじゃなくて。……ほら、これから先、どうやったって幼馴染はできねぇから。経験をたくさん共有してる人間つうのは、そんだけで資産だ」
いやにのんびりとした口調に、幸矢はこう思う。
『まったくだ。で、肝心なことを忘れてるみてぇだね。俺はすでに幼馴染を喪ってんだよ。俺のヘマで喪ってんだよ。それと比べりゃ……』
幸矢は感情を殺した声で幸音に弁明する。
「けど、対人関係を制限してきたんだから、ギクシャクしても当然だわ」
「空白の時間が致命的であった。それがヤックンの解釈なんだな?」
幸音は視線を弟へと振った。幸矢は硬直していた。ギクシャクさせたのは己あるし、それは意図的な結果であった。しかし、時間の経過が原因ではない。
「ただ、俺は制限したこたぁ妥当な措置だと思っている。だって、ヤックン、四六時中、怯えててまともに会話になんねかったし。正月に助勤できただけでも予想以上の回復だと思うわ」
たしかに幸音の言葉は誇張のない事実であって、幸矢は歪んだ笑みを浮かべるしかできなかった。幸矢は回復の理由については兄に明かしていない。ちょうどクリスマスで騒がしい時期に、彼は夢の境で幼馴染である少女と声を交わしていたのだ。今後の生に意義を見いだせたのだ。
「ま、この際だ。もうひとつの理由も明かしちまうか」
幸矢が応答する前に、幸音は表門へと顔を向けて話しだす。
「俺ら弓庭の一党は、いまだに世間から信用ならねぇと思われてんだ。そんであの騒動。くわえてヤックンにゃ前科がある。さて、ヘイト・クライムだのなんだので飯を喰ってやがる連中がとりえるアクションなんだが……」
「俺ならとにかくわめくね。奇貨居くべしとばかりに政敵を糾弾するわな」
幸矢は早口で割込んだ。感情に乏しい顔で。
「こんな危険分子を養ってるとかで、政敵の不誠実な姿勢をこれでもかと宣伝する。都合のいい事実なんざねぇが、なら都合のいい真実をつくりゃいい。そんなしょうもねぇことを賛同する連中もすくなくねぇし、延命できんだから、そりゃ必死になるわな」
幸音は満足そうにうなづいた。「ちゃんと道徳を教育すべきだったな」
「性悪説は道徳としてあつかう問題だと思ってんだけどね」
「とにかく。俺らが生存するためにゃロクデナシどもを払いのけなきゃなんねぇ。その点で、メンタルがヤバいんで休学するのはベターなリアクションだわな。うまく遠ざけてうまくしのぐ。世間がこの話題に飽きてくれるまで」
「まったくだわ。煙を立てたがる連中にゃおもしろくねぇことだけどね」
不愉快な仮定を弄ぶのを幸矢は苦としていなかった。むしろ、その種の冷酷な能力が高いのかもしれなかった。むろん、個人としての感情はまたべつだ。用いた表現にそれが示されていた。
「もっとも、俺は疑われるにゃ充分すぎるけどね」
軽い口調とは逆に幸矢は不機嫌そうだ。正面へ視線を向ける。鳥居があった。
「他に証人がいねぇし、証言もアレだしねぇ」
幸音も弟と同じものを見ながらいった。発言は事実を要約したものだ。
「ただ、警察関係者はすでに真相を把握しているみてぇだよ」
ふいに幸矢は冗談を吐きたくなった。
「これは殺人事件なんだとさ。そんで、犯人は家裁送致された経歴のある某貴族の道楽息子らしい。そいつは薬物中毒の強姦魔でサイコパス。いつものように強姦したらヘマして殺したんだけど、首相のコネで失踪として処理してもらったらしい。……いやぁ、こんなおぞましい真相だとは知らねかったわ。でもなんでか、そいつが赤の他人とは思えねぇんだよねぇ」
「日刊Gなんとかの記事だろ? いや、あれは出来の悪い創作か」
幸音は愉快げな口ぶりだったが、目許はまったく笑っていなかった。
「ヤックン。そいつのどこにシンパシィを? そいつは文学部の学生で、その兄は検事だったはず。で、兄が検察上層部を通じて司法大臣に警察へ圧力をかけるよう依頼したとか。こんなデタラメのどこに?」
幸音が指摘したとおりだ。まず、奉神舍大學に文学部は現存しない。幸矢の兄は神職だ。そして司法省が、内務省の縄張である警察に影響力を行使する事態は現実的には考えられない。だいたいにして、貴族とはいえ私立大出身の三〇代前半の検事なぞに太い人脈などない。
「とにかくだ。ヤックンはネタ元になった警察関係者を恨んだほうがいい。よくぞおぞましい戯言を流布しやがって、と。……いや、冷静に考えりゃ架空の存在なんだろう。ある意味、出来すぎている」
幸矢は口角を上向きにねじまげた。笑みをつくったつもりだった。
「いや、さすがに記者が一から妄想したわけじゃねぇと思うよ。ネタ元がホラを吹いたんだよ。たぶん検察内部の事情に明るいつう設定があって、それを信じて記者はネタを丸呑みしちゃった、とか」
「いや、事実はもっと奇怪で醜い」幸音は断定的に即答した。
「どこぞの大物ヤメ検を経由して、無能な人権派フリージャーナリストに欺瞞情報を掴ませた輩がいる。たぶん、検察内部の人間だ。そいつはヘタな冗談をヤメ検に語っただけなんだろうがな」
「危険な冗談を迂闊にタレコミした、と。そのヤメ検弁護士にゃ死活問題じゃねぇの?」
「そりゃな。けど専門は労働問題とかなら、たいしたことにゃなりゃしねぇ。コメンターとしての価値がさがって、かえって本業に専念できるかもしんねぇ。そんで、ジャーナリストにもブッといパトロンがいるだろう。冷や飯を食うのは、検証という最低限の仕事を怠った編集だけだ。じつに優しい世界じゃんか」
幸矢は確信とともに兄へという。「ずいぶんと逞しい妄想だ」
幸音は奉神舍出身の検事たちと深い交流があった。学部同窓会事務局の役職を務めているのだ。また、その同窓会は非常に緊密なネットワークとして機能している。そこで交換されている情報はひどく慎重に扱わなねばならないものだ。だからこそ漏れてくる情報は価値がある。真偽を問わず、に。弟である幸矢はそのあたりの事情を知っている。
「状況を選んで個人として宣うにゃ問題なかろう。問題は貧弱な妄想を公にした莫迦がいることだ」
幸音はごく当然のことをいった。まったく得意げな表情で。
「さらに莫迦なのがいたわな。付和雷同した大手マスコミとそのシンパ。ま、おかげで世間の注目は無責任な報道関係者どもに移った。奴らに正義の御旗を掲げる資格があるんか、と」
実際、マスコミ不信がおおいに盛りあがったせいで、ひとりの少女の失踪など関心の外においやられてしまった。いや、禁忌と見なされてしまった。
「ま、不正に憤るつう道義心は誰もが有してるもんだ。その運用規則はまったくもっていいかげんだが」
「……ほんとにありがとう、だわ」
幸音はひどくちいさな声で、言論の自由の一例だ、と応じた。
「ところで、オトクンはどう思ってる? 俺がステラを殺して、巧妙に遺体を隠蔽したと疑ってんの?」
「証拠があったなら、なにがなんでも公訴に追いこんでやってたわ。それが俺にとっちゃ正義だからだからな」
幸音は弟の顔を仰ぎながら返答した。これで充分だろ、とでもいいたげに。ああ、とだけ幸矢は応じた。ぎこちない笑みがあった。だが、それは本心によるものだった。
幸矢はこの眼前の男の性質を冷徹だと評価している。必要とあれば徹底した行動も辞さないだろう。いっぽうでけして酷薄な人間ではないとも考えている。だからこそ、幸矢はこのあけすけで愛想に欠ける兄を全面的に信頼している。
「すまねぇな、オトクン。俺が鬼っ子で」
右の頬を歪めながら幸矢はいった。幸音はひどくつまらなそうに応える。
「ああ。そんで俺はその兄貴だ。どうしてくれんだよ」
そうして兄弟はいびつな笑みを浮かべながら正面の鳥居を眺めた。朝の光はゆるゆると降りてきているが、そこが照らされるまでまだ時間が必要だった。
兄弟が眺める鳥居の先、その向こうに漆黒の門がおぼろげに見える。忠霊社だ。とりたてて目立つ存在ではないが〈大神靈神社〉では格別の待遇で扱われている。
その社に坐す祭神は”護国の夷神人”。つまるところ、戊辰の役このかた、戦没もしくは殉職した、導術者の軍人、軍属、または警察官及び消防士など、およそ五万柱である。なお、九段の杜で祀られる英霊は七〇万柱ほどだ。さらにいえば導術者の全人口に占める率は三%程度。この数字は史上もっとも高い値とみられている。
暗がりに鎮まる社を見つめながら、幸矢はふと思う。
『なんとも面倒な家に産まれたもんだが、それそのもんは不幸じゃねぇな』
今、幸矢の正面にある忠霊社こそが面倒な家系を象徴しているかもしれない。




