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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
2・夜の間際まで
23/43

幕間・眠れぬ夜の群像

「……寝れへんねん」乾咲楽はひきつった顔で呻いた。


 居室のワンルーム、そのロフトに敷いたマットに咲楽は横たわっていた。枕元のスマホを確認してみる。日付が変わるまであと五分あった。となれば、彼女はもう二時間あまりもの間、眠ろうとして果たせなかったことになる。


「なんでや。ええかげんに寝かせてくれへんの?」


 暗い天井へと咲楽は懇願した。そして眠気が完全に消えてしまったことを認識する。疲労感までは消えていないが。幸い、翌日は用事がない。無理にこの時間から眠る理由がない。なので、彼女は灯りを点けて寝床から這いずりだした。その動きは奇妙なほどに緩慢であった。


「さて、どないしたもんやろ?」


 濡れた光沢を帯びた黒髪を撫でながら咲楽はひとりごちた。視線は部屋をあてどもなく探っている。


 入居したばかりにしては片づいている。というよりも無味乾燥な雰囲気だ。備付の家具のほか、物がほとんどないのだ。目立つものがあるとすれば、本棚に青帯の岩波文庫が並んでいる程度。よく注意すれば、神棚には本来あるべきの神札がないことがわかる。入居時からだが、そのまま放置していたのだ。


「ほんまに御札に頼るしかあらへんとちゃうんか?」


 咲楽は空の神棚を見つめる。寝つけない理由についてなんとなくは察しがついていた。人が消えることに無意識のうちに怯えているからだろう。それが神道に結びついているならば、なるほどその神に頼るのは合理的かもしれない。


 だが、すぐに咲楽はおおきく頭を横に振った。たかが一夜、寝れないだけで信仰に頼るなぞ、あまりに愚かしい。せめて一週間はそうした状態が続いてから初めて考慮すべきだ。いや、その前に心理カウンセラーを訪ねるべきだ。


「なんや、他に原因があるはずや」


 咲楽はブリッジを右の指で抑えながら考える。同時に耳を澄ます。風呂場からちいさな唸りが聞こえてくる。手洗いしたブレザーを乾燥させているのだ。


 だが、どうもそれに原因を求めたくなかった。苦労したが、汚れはさっぱり消したのだ。そしてあとはしっかりと乾燥させてプレスするだけ。そのための時間の余裕はたっぷりとある。


 となればと、咲楽は東面の窓をふと見やる。深夜にも関わらず曇りガラスがいやに明るい。これは初めての経験であった。不穏な感情を抱いて、咲楽は窓を開いてベランダに出た。


 奉神舍大學が必死にアピールしているベランダだが、そこもまた物干竿の他になにもなかった。とにかく咲楽はベランダと外界とを隔てるポリカーボネートの板に張りつく。かなりの高層にあるので遠くに都心の輝きが見える。だが、それが部屋を照らしていたわけではない。

 

「……なにしとん?」


 すぐにあたりがついた。眼下、およそ三百メートル離れたところにある集合住宅風の建物が煌々と輝いているのだ。ハロゲンランプを盛大に使用しているのだろう。そればかりではなく、前庭では巨大な焚火が燃え盛っていた。周りには人垣ができていて踊っているようだ。また光だけでなく喧騒も届いてくる。


「ワルプルギスの夜までは、ちと早いで」


 咲楽はまばゆい情景に顔をしかめる。むろん、春の祝典としての意味として用いてはいない。


 無遠慮に光を放つ建物――奉神舍中央学生会館はサークル活動の拠点であり、学生主導による管理が今日でも行われている。さらに附属の棟が学生寮または自習区画として認可されていたので二四時間利用可だ。その結果はといえば、野放図な輩どもの巣窟であり、奉神舍の混沌の中核とみなされていた。


 大学当局としてはおもしろくないだろうが放置していた。光熱費は利用者負担とされていたし、修繕積立金も学生がおおくを出資している。また、教職員のおおくが学生会館の空気を浴びているという事情がある。


「……ほんま、いちびりよぉ」


 咲楽は忌々しげに呟いた。どうせ眠れないなら、あの混沌に参加して酔いつぶれてしまいたい。そのような願望が芽生えてきた。ついで彼女にこのような考えが浮かんだ。群衆の只中に紛れてしまえば、多少は安全だろう。


「いや、なにからの安全や?」


 咲楽は激しく首を横に振って、羨望を断ちきった。本格的にいけない心境だと判断し、室内に戻った。とはいえ、これで眠る準備ができたわけではない。実にイヤな感じの昂ぶりを覚えていた。どうも明け方まで眠れない予感がしてきた。


 しゃあなしやで、と咲楽は冷蔵庫の中身を覗いた。薩摩焼酎の三合瓶が転がっていた。滅多なことでは量販店で見かけない銘柄であった。これは実家からくすねてきたものだ。まぁ、父が合格祝いのために用意していたものだったが。


「神さんよりもこいつが確実に頼りになるで」


 咲楽は肉体的な作用から眠ることを決意した。おそらくはコップ一杯ほどで目的を達成できるはずだ。彼女は己はあまり酒に強くないと思っていたのだ。


 そして、この夜、咲楽はある事実を知った。己はウワバミの素質があることに。半時間で三合瓶を空にしたが、眠気が訪れることはなかったのだ。


 哀れな咲楽がようやく眠れたのは午前一時を過ぎてのこと。本棚にあった文庫本を適当に読んでいるうちに就寝できたのだ。およそ二千年前に死んだ男の尊い言葉が延々とつづられてあったのだが、どうやら安眠へ誘う公験もあるらしかった。

  *

 赤ら顔の南雲暁緒は腕時計を確認する。「三十秒前!」


 叫びに呼応して、すぐ隣の平岡春陽は三本の指を立てた右手を高々と掲げた。彼の肌はひどく日焼けしたように見えた。そして周囲の人間は沈黙する。総じて紅潮した顔をしていた。暁緒が二十秒前を告げる。平岡は右手の指を一本、たたんだ。彼の右手に多くの視線が集まった。


 十秒前。暁緒の宣言に、平岡は右の人差指で夜空を示した。


 そこからは複数の人間が唱和する。十、九、八、と。


「三、二、一」次の瞬間に暁緒は絶叫する。「ナウッ!」


「ハッピー・サタデイッ!」叫びと同時に平岡の右拳が天を突いた。


 学生たちの絶叫が轟いた。彼らは土曜日の到来を祝したのだ。たしかに祝祭の日ではあるのだが、ただそれだけの意味しかなかった。ではなぜそのような行動をとったかといえば、アルコールによる影響だとしかいいようがない。


 暁緒らがいるのは奉神舍大學学生会館本部棟の屋上であった。この夜は気前よくハロゲンランプを設置して(演劇系団体の好意だ)宴会が行われていた。参加者は一個小隊ほど。さらにおおくの人間が前庭の焚火に、いわゆるファイアー・ストームに集っていた。そこの連中は日付が変わったことに気づかぬままに、わけのわからぬ踊りをしたり、それを囃したてるなりして楽しんでいた。


 第二次大戦以前からの名門校であり全寮制を維持しているためもあってか、奉神舍大學にはこうした”バンカラ”な気風が保存されていた。とはいえ、さすがに学生会館周辺に局限されているのだが。


「学生、チューモークッ!」

 

 突如のビールケースの演台からの呼びかけ。やたらに胸を露出したディアンドルに剣帯を着用した女子学生によるものだ。なんというか、その身なりには実に倒錯した魅力があった。彼女は国旗降納拝礼の儀で警衛団を統率していた、あの女子学生。が、顔色は赤黒くといっていいほどで、はたして同一人物なのか疑わしく思えてくる。


「いきなりでぇ、すみまぁせん! ここでぇ、学生会館のぉ、今年度の弥栄を願いましてぇ、大神様へぇ、剣舞を捧げさせてぇ、いただきまっすっ!」


 女子学生は独特な抑揚で、というか呂律が回らない口調で宣言した。応ずるはやんやの喝采。本来あるべき儀礼など誰もが無視している。


 一瞬の静寂を経て、女子学生は抜刀。その勢いを殺すことなくサーベルを回転。ほぼ直立不動の姿勢で、だ。くわえて足場は不安定なビールケースなのだ。


「いつもよりおおく回させていただいておりまぁす!」


 女子学生は頭上で水平にサーベルを回転させている。扇風機のような速度だ。その見事としかいいようがないサーベル捌きに、酔いどれどもは熱狂する。


「いやぁ、やっぱ祭りは前夜祭だこっつぉね!」


 暁緒はすこぶる上機嫌に平岡に呼びかけた。対する平岡は〈ふなぐち菊水〉を手にとって、これもまた嬉々とした表情で応じる。


「そりゃ、祭りは線香花火よ。パッと燃えあがって、プツリと終わって、余韻に浸る。ほんのいっときに情熱を注ぐてのが楽しいのよ」


 そうして平岡は牛乳であるかのごとく、二百mlの生酒を一気に飲みほした。琴線に触れるものがあったのか、暁緒は彼の姿に激しく拍手を捧げた。彼女は勢いに騙されているのかもしれない。また、平岡自身はロケット花火と線香花火を取り違えているだろう。情緒もなにもなく、酒を高速で消費することが彼にとっての祭りなのだろうか。


「そんで、明日のなんだけど、アレは確認してくれた?」


 二杯目の菊水の封を切ってから平岡は訊ねた。暁緒は身体全体を上下に揺らして応答する。


「もちろんですて! いやぁ、さすが平岡さんは仕事がバカ丁寧ですげぇこっつぉね」


「いろいろと素材がよかったからね……」


 平岡はだらけた笑みを浮かべていった。暁緒はにこやかに無言を返す。


「はい、乾杯!」すかさず平岡は酒を胃へと注ぎこんでごまかした。


「そんで、平岡さんはどうしゃんです?」


 暁緒は紙コップに琥珀色の液体を注ぎながら訊ねた。水で薄めるようなことはしない。また平岡と対照的に、彼女はすぐに胃に流さなかった。ひとくちぶん口に含んで、しばらく舌と鼻が濃厚な香気で灼かれる感触を楽しんでいた。


「まぁ、こんなとこですけどね」


 そこで平岡はスマホをそっとさしだした。暁緒はその画面を見やる。直後、スマホに酒を主要成分とする液体が吹きつけられた。


「なんなんです、この呪いの装備みてぇなやんは!」


 半分涙目になりながら暁緒は責めた。まぁ、胃の中身が逆流しなかっただけマシだろう。


「最高の賛辞だよ、それ」


 盛大に汚されたことに不平をいうことなく、平岡はスマホを懐へと戻した。それどころか、してやったりといった笑みを示していた。


「わからんこともねやんですけど。なして、こっけながんを待受に?」


「どうせ、僕だけが楽しむだけだし」


「……はぁ。でも、こうやんはアイコンにすらんが普通じゃねやんですか?」


「僕はただインパクトがあったから採用してみただけで。リスペクトもしてないもんを使ってたら、元ネタのファンの人から怒られちゃうよ」 


「思いきったパクリとかしてらんに、変なとこで律儀なんですね」


 処世術なのよ、と応じると、平岡は周囲を見やった。酒がないね、と呟く。


「あんだけあったんに絶えちゃいましたね」


 そういって暁緒は紙コップの中身を一気に胃に収めた。次の瞬間、彼女は潤んだ黄色の瞳で平岡を見つめる。もっとも顔の全体は奇妙に冷めていた。酩酊して表情をつくることが難しくなっているのだろう。


「はちゃ、調達にいきましょて」口調は平静だが、頭がカクカクと揺れている。


「ま、小腹も空いたことだし、あそこのドラッグストアでいいかな?」


 平岡は北のほうを見下ろす。闇に沈んだ森の中に灯台のごとき光があった。それは校地唯一のドラッグストアの灯りであった。


「じゃ、せっかくだから、さっきのを被っていってみようかな」


「いやんですか?」平岡は即答する。「前夜祭なんだから大丈夫だよ」 


 実際のところ、大丈夫ではなかった。


 平岡は学生会館から百メートルも離れないうちに警備員にインターセプトされた。警備業者もわきまえたもので、この晩は会館周辺を重点的に警戒していたのだ。


 奉神舍大學神稜校地で生みだされた酔いどれどもが、外にさまよいでることは滅多にない。有能な警備員を配備しているからだ。なお警備員のほとんどが鬼という尊称を奉られた経験をもつ。陸軍の教導団で、だ。残りはというと、その鬼どもを束ねる職務を経験していた。

 

 なにはともあれ。平岡たちは警備員とたっぷり五分間、肝が冷える世間話をするはめになった。そののち、ふたりは素直に眠ることにした。HRCの部室でだ。平岡は会館内に住んでいるが、居室を利用するのは避けた。どんなに泥酔していても、平岡はそのあたりにはひどく慎重なのだった。


 しかし。ふたりは部室にたどりつけなかった。焚火を楽しんでいた連中に包囲されたのだ。ある意味、警備員よりも恐ろしい存在であった。鬼のような警備員と違って、彼らとの間にはひとづきあいというしがらみがあるのだ。


 かくして、平岡と暁緒のふたりは前庭で朝焼けの空を仰ぐことになった。肩を寄せあって冷気に耐えながら、ひどく苦いコーヒーを飲むことになったのだ。

  *

「……楽しそうにやってやがんなぁ」弓庭幸矢は顔をしかめてそう呟いた。


 幸矢が見つめる先は学生会館、その白くまばゆく屋上。彼がひとり佇むのは暗い森にある光明、校地唯一のドラッグストアの軒先である。細かくいえば灰皿の傍らで煙草をふかしていた。


 ハッピィ・サタデイ。


 学生会館から怒声が幸矢のもとへ届いてきた。うるせぇな、と彼は三本目の煙草に火をつける。時間を確認すると、ちょうど日付が変わったところであった。


「んな調子でブーストかけてっと、本番でガス欠になっぞ」


 いらぬ心配だと思いつつひとりごちた。


「そういや、去年はなにしてたっけかな?」


 幸矢は宴の輝きを見つめながら思いかえす。この時間帯は森の中にいたはずだ。平岡と一緒に警備員を追尾するというくだらないことを楽しんでいた。そのうえ、巡回経路のうちで二回は前方から挨拶するとのルールを設定していた。森に巡らされた小径を利用すれば、先回りすることぐらい造作ない。


 むろん、夜間に、ましてや泥酔した状態で行うものではない。


 危険な遊戯の結末を思いだして、幸矢は声を殺して笑った。


 最初の対面を果たすべく待ち伏せしていたら、背後から声をかけられたのだ。追尾対象とは別の警備員だったが、意図的に幸矢たちを捕捉したのは明らかだった。


 コマンドォ徽章が似合いそうな、その初老の警備員は穏やかな顔でこのように語ったのだ。


 ねぇ、君たち。一昔前にこんな話があったんだけどねぇ。夜の森のなかで酔っぱらった学生がかくれんぼしていたんだけどね。五人ぐらいでやってたんだけど、酔ってて疲れてたもんだから小一時間ばかりで切りあげたんだ。ひとりだけ森に残したまんまでね。どうやら、その場のノリで集まっただけの仲間らしくて、ひとり消えたことなんぞ気づかなかったようだ。酔ってたから、まぁ、しかたがない。


 大丈夫、その残されたひとりは無事に見つかったよ。数日後に遺体としてね。転倒して頚椎を折ったらしくて、意外と楽に死ねたみたいだ。ただ、こうした事情が判明するまで少々時間を要したのが残念だけど。ま、なんだ。わりと簡単に人は消えるということだね。この森はひとりぐらい隠していてもなかなかわからないんだよ。


 なぁに、脅しているわけではないさ。ときたま、誰彼かまわず思い出話をしたくなる性分なんでね。それに、莫迦な学生どもを捕捉することを期待されて、私たちはそこそこの給金をいただいているわけだから。さぁ、あるべき場所に戻って、さっさと寝てしまいなさい。 


 幸矢はひどく歪な笑みを浮かべた。警備員から説教された場所こそが、まさに現在地であるのだから。そして遊びのためにここにいるわけではなかった。


 夕食後に家を抜けだして多摩川沿いを延々と歩き、さすがに疲れてきたので戻ってきたのだ。そして、今夜は寝付きが悪いという予感があったので、睡眠導入剤の代わりに用いている鎮痛剤を買うためにドラッグストアに寄ったのだ。


 この夜の散歩にはとくに目的はなかった。動揺している状態の際、あてどなく徘徊することはままあった。しかし、幸矢は消極的な期待をもってこのような奇行を実行していた。もしかしたら探し求めている娘は人目をはばかって夜に外出していたりするかもしれない、と。


 莫迦らしい妄想だと幸矢は自覚しているが、そうでもしないと現状を肯定できないとも思っていた。不安に潰されかけている己をどうにか保つために、なにかしらの意味をあたえなければと思っていた。


「ひでぇもんだわな……」


 誰に隠す必要がないのだが、幸矢はうつむいて自嘲した。


「すみませんが、火を貸してもらえませんかな?」


 不意の声に、幸矢は剣呑なまなざしを右隣へ。まさに、いつの間にか老人がすぐそばに立っていた。幸矢には全然及ばないが背丈は高い。仕立てのよいスーツで身を包んでいて、ソフト帽を目深に被っている。相貌はといえば、やたらに高い鼻から下は長い髭で覆われ、輪郭がよくつかめなかった。品はよさそうなのだが、警戒するには十分すぎる風体だと幸矢は判断した。


 ええ、と幸矢はそっけなく応じ、ライターを渡した。相手をじろじろと見るようなことはしない。ただ静かに足幅をひろげた。即座に駆けだせるように。


「今宵はにぎやかですな」


「ええ、前夜祭っすから。まぁ、一部の人間にしか関係ねぇんですけど」


 学生会館の灯火を見ながら幸矢は応じた。老人の煙草の匂いに気をひかれた。幸矢のものと同じ、ヴァニラのフレーヴァだ。


「あなたは、その一部の人間のように見受けられるのですが」


 なんの冗談だろう、と思いつつも幸矢は会話を続行する。


「そうすかね? たぶん、奉神舍で長く生きてっから、似たようなナリになっちゃったんですよ」


「なるほど、なるほど。たしかに、かような夜の森にあってあなたはしごく馴染んでおりますよ」


「失礼ですが、ではあなたはなぜここに? まぁ、ちょっとした買い物なのだろうと思いますが」


 幸矢は口調をあらためて老人に訊ねた。世間話につきあうことが面倒になってきたのだ。


「あてどない深夜の散歩が好きなのですよ。太陽の下とは違う、意外な邂逅があるような期待がありましてね」


 そこで幸矢はチラリと奇異な老人を見やる。ちょうど煙草を吸いおえたところだったので、またライターを貸した。邂逅を求めての徘徊は幸矢も同様であり、ほのかに親近感を抱いたのだ。


「ありがとうございます……。ま、世の中、己の目に見えている領域はごくわずかですからな。だからこそ、闇に身を浸すおもしろみがあると思うのですよ。そして、ごくたまに一点の光明を見つけることがあれば、まさに僥倖」


「親切なことに火を貸してくれる若造がいたりとか、すかね」


 幸矢は老人の表情を確認する。ソフト帽と立派にすぎる髭、さらに身長差のせいで仔細はわからなかった。が、穏やかなものであることは把握できた。なぜか老人の鼻の造形が気にかかった。珍しい鼻筋だなと思う。


「いや、まったくですな。健康に悪いとは理解しているつもりなのですが、死ぬまで手放せないでしょうな」


 その冗談に幸矢は好意的な苦笑で応じた。直後。眉間がきつく狭まった。


「クソッ」つとめて抑えた罵声を発し、幸矢は真正面をねめつける。


「大丈夫ですか?」幸矢は視線の方向はそのままに応じる。「大丈夫っす」


 現実に大丈夫ではあった。幸矢の視線の先には、街灯の光が届かない、深く暗い森があるだけで、とりたてて異常は感知できないのだ。ただ、幸矢の認知では、そこから彼を凝視するものがあって、ちょっとした痛みをあたえただけなのだ。幸矢個人にとっては重大だが、他人に説明できる問題ではない。


「まさか、そこになにかがいるのですかな?」


「ただの勘違い、て奴っすね」


 察しがよすぎるな、と内心で思った。そして、幸矢はなおも空虚な一点に威圧の視線を据えている。


「老婆心ながら、むやみに闇を見つめるのはよろしくないと思いますぞ」


 その警句にハッとして、幸矢は老人へと視線を移した。


「そりゃ、深淵を覗く者は深淵に覗かれている、つうことですかね?」


 ひきつった笑みを貼りつかせて幸矢は問いかける。対する老人は髭をしごきながらのんびりとした口調で語る。


「なんともうしますかな。人間は世界のあらゆるものに意味をあたえてしまう存在なのですよ。それは己にとって価値があるか、脅威であるか、といったふうに虚無さえも意味づけてしまう。それは知性の表れですが、しかしなかなか厄介でして」


「都合がいいように解釈しやがる、てことすか?」


「理解が早くて助かりますな。困ったことに楽観的な判断をくだすとはかぎらないことでしてな。いたずらに恐怖を創造してしまうものなのですよ」


「森羅万象、なべて己が心の鏡なり。なんとなれば、天地は神明の産霊の御徳によりてなるものにして、人もまた他ならず。まさに心は神明の御舎。なれば、天地の形に神明の像を見ること能わざることなきなりや。いわんや己が心をや」


 幸矢は記憶の底にあった言葉をひっぱりだした。いかにも嬉しげに老人は首肯する。


「まさに、まさに。目で見ているのでなく、心で見ているのですな。そして心は混沌の宮ともうしまして、なかなかにはかりしえぬものが詰まっております。でありますので、世をありのままに見るというのは想像以上に難しい。随神かんながらとはいいますが、口でいうほどには優しいものではないのですな」


 幸矢の顔の緊張が和らいだ。どうやらこの老人は共通した教養の素地があるらしかったからだ。


「しかし、気にしねぇようにしたとこで、実際に感じちまったらどうすりゃいいんすかね? そんで実際の脅威であったら? ボンヤリしてて、いざという時に無防備であったら、どうにもなりゃしねぇですわ」


「怪しいと意識したならば、五感に気を配る他ありませんな」


「そんなもんすかね?」老人は深くうなづく。「そういうものです」


「ま、すべてがいい加減になっちゃってるつう事態はそうそうありゃしねぇんでしょうね。アルコールを大量摂取してるとかじゃなけりゃ、ですが」


「しかるべき状況でほどほどの量ならあれほどの高揚感はないものですがね。いや、だからこそ、酒に頼るかもしれませんな……」


 老人は学生会館を見やる。幸矢も同じものを見る。まったくだ、と思う。


「なんにしろ、己の心の産物が相手であるとわかっているならば、堂々と構えていればよろしいのです。気をおおきく、そして身体もおおきく、強いのだ、とでも。現実のあなたがそうであるように」


 幸矢は無言でうなづいた。抽象的ではあるが、記憶に刻むべき言葉のように思えた。どうしてなのかはわからぬが、とにかく、必ずや利益に繋がるものだと信じたくなった。やや間をおいて、幸矢ははにかんでみせた。


「人に自慢できるのはせいぜいタッパだけっすよ。とにかく、まぁ、どうせ幻想ならば、いくらでも強気でいける、と。いや、己を強大な存在にできる、と」


「まさに。実体ある脅威には通用しませんが、しかし、彼我の力量の差が懸絶しているからと、悄然として敗北を受けいれるのが賢いとも思えませんな」


「窮鼠、猫を噛む、すかね?」


「イタチの最後っ屁、のほうが近いかもしれませんな」


 素敵っすね、と応じつつ、幸矢は衝動的に笑った。自殺的反撃よりは生き恥を晒すほうが彼の好みであった。伝染したように老人も笑った。


「……いやはや。たまには若者と対話すべきですな」


 そういって老人は腕時計を確認した。幸矢は朗らかな調子で訊ねる。


「そろそろ、寝る時間なんすか?」


「いや、野暮用があったのを思いだしたのですよ。まったく、かような老いぼれまでも必要とするような事態など、ロクでもないに決まっておりますよ」


「存在を忘れられちまうよりゃマシじゃないすかね?」


 まったくですな、と老人は短く答えると、会釈して去っていった。そうしてすぐに暗がりに姿は溶けていった。


「なんだったんだろうな、あの爺さん」


 ふと、親族のひとりであったかもしれない、との考えが浮かんだ。やけに自己主張の強い鼻筋は一族によく見られる特徴と似ていると気づいたのだ。だが、すぐに否定する。鼻だけで勝手に同族認定するのは乱暴だろうし、それに親族ならば幸矢の顔ぐらいは認識しているはずだからだ。とにかく、あの老人との対話はけして不快ではない余韻を残したのだ。

 

 ひとりきりに戻った幸矢は煙草を咥える。これを吸ったら帰ろうと思っている。彼には用事がないのだ。


 しかし、すぐには火を点けない。幸矢は建物の角を回って暗がりを探す。今度はちゃんと実体のある存在が対象だ。墨色の濃淡だけの領域に、ほのかに白い塊があった。


「そんじゃ、メル。もうちょっとしたらお家に帰るとするべ」


 すると白い塊が形を変えた。さらにニャアと声を返してきた。幸矢の散歩仲間である牝猫だ。買い物の間、裏手に紐で繋いでいたのだ。彼女が逃げるとは幸矢は考えていなかったが、万が一のため夜間はこうした措置をとるようにしていた。


「ああ、帰ったらホットミルクを作っから、楽しみにしとけよ」


 幸矢は微笑を浮かべて牝猫に呼びかけた。他愛もない発言のつもりだったが、妙にひっかかるものを感じた。以前にも似たような状況があった気がしてならなかった。彼はなにか予感に駆られるように、その場から離れ、道に出た。


 街灯も疎らで、曲がっているので視界はすぐ先で暗闇に閉ざされていた。


「……ステラも夜の散歩が好きだとかいってやがったな」


 幸矢は思いだした。


 警備員によって危険な遊戯を中断させられたあとの出来事だ。今、立っている地点で幸矢はコーカソイドの少女が闇から現れる様を見ていたのだ。彼女は幸矢の姿を認めると、両手をいっぱいに振ったのだのだった。


「そんで、ホットミルクを飲みてぇ、とかせがんできたな」


 今にしてみれば、本当に散歩だったのか疑うべきだったと思える。そうして幸矢は強く頭を振った。次には彼は新たな用事を捻りだした。


 牝猫のためだけでなく、幸矢もホットミルクを飲みたくなったのだ。ただし、ジョッキで、またウィスキーを適量混ぜたものを。去年の前夜祭はHRCの部室でそれと同じものを飲みながら、ステラとふたりきりで夜を明かしたのだ。いや、その場に牝猫もいたこともあって、なんら情熱的な出来事はなかったのだが。とにかく実に素敵な夜であったと幸矢は思っている。


 とにかく、自宅にある牛乳では足りないし、ウィスキーもない。ドラッグストアで調達せねばならない。

 

 くだらない思いつきだが、むりやり寝るなら多少は感傷的な手法に頼ってもいいだろうと、幸矢はそのように意味をあたえていた。

  *

「こんばんは〈栄光の王〉(グロリアス・レックス)


 しっとりとした質感の女の声。むやみに目立つ鼻筋と顔半分を覆う髭が特徴的な老人は、ベンチのすぐそばにある街灯の袂を見る。


「ああ、ひさしぶりだな〈名誉ある王者〉(レックス・オノリス)。忘れられてしまったかと思っていたところだった。ところで、ずいぶんと冴えない顔をしていると見える。やはり、このようなくたびれた老いぼれが相手では不満だと?」


 老人は街灯の下に現れた女を無表情で見つめている。老人の身なりはきっちりとしたスーツに、これもまた手入れがよさそうなソフト帽というものだ。外見そのものは、洗練された伊達者といったふうに思える。


「お互いにその程度のことを表情に出してしまうような齢ではないでしょ?」


 感情の消えた声。年齢は中年ぐらいだろうか。白いワンピースドレスに肉感的な肢体を包んだ、ブロンドのコーカソイドだ。顔はといえば、肉厚だが、それなりに整った目鼻立ちをしていた。そのような女性が所在なさげに立っていたのだ。が、その翡翠の双眸はしかと老人の榛色の瞳を捉えていた。


「そうだったな。ところで君は……。やはり、あの娘ではないのだな」


「ええ。残念ながら、あなたが気にしている娘は意中の男の子を見守っているところよ。うら若き少女の幸いを邪魔する権利は、私たち老人にはないわ」


「いつものメラニーなのだな?」おどけた言葉が返される。「それじゃ不満?」


「いや、こうしたやりとりには慣れた人間のほうがいい。もっとも、その名に違わぬ、美しいブルネットを再び見てみたいとは思わずにはいられないよ」


「あなた自身は見たことはないでしょうに。それに、男どもから賞賛されたブルネットは裏街道を歩むことになった瞬間に捨ててしまったわ。私はそうなのだと決めたの」


「……どうにもよくわからない会話をしているように思えるのだが。また、こうして直接、顔を見せる意義もよくわからないと思えてきた」


 メラニーと自称する女ははじめて表情らしいものを浮かべた。口角をわずかにあげて、ささやかな好意を示したのだ。


「長生きしすぎるのもイヤものね。それも曖昧な境地に身を置いているとなると。己が何者なのか意識するのも億劫になってくるわ。だからこそ、こうして実際に目で見ることが大切なのじゃないかしら。結局、あやふやな存在を信用しきれないのよ。実在をたしかめてようやく安心できるのだわ」


「それが我々のどこかにある人間としての性かな?」


「演じているだけかもしれないけども」


「ところで、そんなところに立っていないで、隣に座ったらどうだね? 深夜にひとりでベンチに座っているという図は、どうにも情けなく感じるのだ」


「私はここで充分。高齢男性と中年女性がベンチで肩を寄せている、なんて絵面は好みじゃないわ。なにか、悲劇が約束された恋愛を想像するから」


 その言葉に老人は目を細めた。笑っているのだろう。


「それが人間としての演技だとしたら、喜んで騙されていたいね」


「騙すなら喜ばせる方向にしたいところだけども。そうもいかないものね」


 話題が変わったのだろう。メラニーの声音は硬質だった。老人は笑みを即座に消して深くうなづいた。


「今回は妙に早かったな。警戒すべき特殊事例と見るべきかね?」


「たしかに極端に短いスパンかもしれないけども、それだけじゃ判断材料に欠けてるわね。それに近年は短縮する傾向にあるし、なんとも」


「それだけ増えてきたということだ。忙しくなるが喜ばしいことなのだろうね」


「でも、もしこれがランダムな現象だとすると今はただ事象の偏りにさしかかっているだけかもしれないわ。今度の仕事が終わったら、次は一万二千年後というのもありえるわ。一億と二千年後も覚悟すべき」


「さすがにしんどいな、それは」


「大丈夫。それほどの時間なら、今こうして対話している私たちは発散しているはずだわ。そもそも人類としての形態を維持しているのかも疑問だけど。ま、現実的には、せいぜい次の千年紀まで待たされるとかでしょうね」


「この私に関してならば、すくなくとも十年先までは責任を持つ覚悟だ。心強いことにこの近所で適切な物件も確保できた」


「わざわざ転居しなくてもよいでしょうに。まだ取得してからさほどの時間が経過していないでしょ?」


「ああ。しかし物件そのものが古くてね。適切な時期に死なせていかなければ、世渡りは難しいのだ。まぁ、幕末生まれの人間が生存していることになっている事例もあるようだが。とにかく、私はこうしたことで注目されたくはない」


「詳細は知りたくもないけれども、逮捕されるような手法ではないでしょうね?」


「メラニー、君はよくよく理解しているはずだ。人間の姿を維持するための苦労を。それに、私は本来なら納められることのなかった税金をすくなからず捧げている。賜った年金よりも一桁しか違わないがな」


「それは立派なこと。もっっとも、私はあなたが困窮しててもかまわないのだけども。雨が降ろうが槍が降ろうが、適切な時機に適切な配置につけるならば」


「そのために身なりにも気をつけているつもりだがね。すくなくとも認知障害で徘徊しているようには見られないように」


 メラニーは老人の爪先から頭からを一瞥した。そこそこに金が注がれた偽装であろう。


「でも、そんな風体で河原に駆けていくわけでしょ?」


「ゴルフウェアも用意してある。河原に私設パターコースがあるのでね」


「なんというか、この土地、わりと条件はいいのかもしれないわね」


「それよりも懸念材料は君のほうにあるぞ。彼の行動についてはなるべく迅速に伝達してもらわないと。来週はこの近辺に張りついているのかね?」


「確約はできないけど、そのつもりでいいわ。単位登録の期限が来週までだし、本人は復学する意向のようだわ」


「しかし、突然、なにもかも嫌気が差したとかで旅に出るという可能性は?」


「まぁ、その時はほどほどに……ね?」


 すると老人は堅く腕を組んだ。言葉にはしないが不満の意思表示なのだろう。


「それほどに深刻な提案だったかしら? でも自由気ままにふるまわれても、あなたがたのほうが対応できないでしょ?」


「……正直、おもしろくないな。ただ、それだけのことであって、君が実効的な措置を講ずることは同意するさ。しかし、やるならばあの娘に配慮してくれないかな。これ以上、罪悪感を背負わせたくない」


「たしかにそうかもね。……それにしても、今日はいやに感傷的ね。なにかあったのかしら。為替取引で大損をしたとか?」


「この一週間で一万円ほど溶かしたが、まだささやかながらプラスは確保できている。……君が指摘するとおりに感傷的だとすれば、つい先程、彼と会話したからだろう。まったくくだらないやりとりだったが」


 するとメラニーははっきりとした笑みを示した。


「それはよろしいことで。それで、遠い子孫に見えた感想は?」


 老人は即答せずに煙草を咥えた。右の人差指でその先端を擦る。点火した。


「意地悪なことをいうのだな」


 音を立てて煙を吐きだし、老人はメラニーと名乗る存在に語りかける。


「なぁ、メラニー、この私は君と同じような存在だ。ただ、とうの昔に死んだ人間の姿を借りているだけ。つまりオートマータだ。それに宿る〈魂〉(アニマ)がどこから生じたのかさえ、とうに忘却してしまった。その点では、メラニー、君よりもよほど曖昧な存在だ。実に質が悪い」


「しかし、子孫にはやはり親近感を覚えたと?」


「さぁ、なんとも難しいものだ。先祖の彫像を見て感じるようなものと同程度なのかもしれん。しかし、やはり快いものはあった」


「おそらく、それが愛というものよ。素晴らしいじゃないの。オートマータであろうと誰かを愛する感情があるならば、人間となんの差があるの?」


「そうなのだと信じるのは悪くないな。ただ、どう考えてもこの私は人間ではないのだろう」


「それはなぜに?」


「四世紀後に生まれた子孫から、自著の一節を諳んじてもらう。それは人間にはとうてい無理な、喜ばしき体験だからだ」


「ならば、この私はあなたの子孫を守護することに精励するわ」


 老人はコクリとうなづいた。


「メラニー、その覚悟は賞賛したいが、それは君が為すべきことではない。その役はあの娘のものだ。我々が果たすべきは、まず見守ること」


「ええ。なんにしろ、しばらく眠れない日々が続くことになる」


「了承するしかない。そのために生かされているのだからな」


「なら、私たちが潰える瞬間の到来はなにを意味するのかしらね?」


「救済なのだろう。いずれ来る悪夢から救済するのだ。我々がけして見えることのできぬ、どこか遠くにいるはずの無数の生命を、ね」


「毎度のことだけど、この確認の意味とはなにかしら?」


「人はパンのみで生きるに非ず。たとえパンを要しなくても、だ」


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