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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
2・夜の間際まで
22/43

いなくなった少女2

 乾咲楽の額にどっと汗が浮いてきた。高く細い体躯がふらふらと揺れ、また目眩も。


 異常を認識して、即座に咲楽はその場で尻をつける。失神して転倒するのを恐れての反応だ。

 

 さすがに咲楽はうろたえた。うろたえながら右手首の脈動を確認した。普段と比べて拍動はおおいが弱々しい。一方で異様に息苦しい。


 震える右手で咲楽はブリッジを抑えた。そうして視線が泳いでいることを自覚できた。とにかく彼女は一定のリズムで深呼吸を繰り返すことを意識する。


『……あぁ。こいつ、神経原性ショックの症候やねんな』


 状況判断できる程度には落ちついていることに安堵する。だが、表情はさらに険しくなる。以前にも同じ症候を発したことを思いだしたのだ。


 今年の共通学力選考で経験したのだ。生物の試験が終了まで五分を切ったあたり、どうしても納得できない回答があり、必死で記憶を探っている最中でのことだった。結局のところ、誤答しており、それが致命的エラーとなった。


「……サク、どしたんだ?」


 暁緒が不安な顔で咲楽の肩をさすった。それに対し、揺すらんでください、と咲楽は事務的に応答した。彼女は首元のスカーフを緩め、深呼吸を続ける。


「……ほんま、心配せぇへんでください。すぐに回復しよるはずですさかい」


 咲楽は地面を見つめながら呟いた。ついで、どうしてこのような事態になったのかについて検討を開始する。


 原因は単純なものだろう。ステラという娘が、今日、たんなる好奇心で訪れた場所で失踪した事実があって、その原因がまったく推測できないという状況なのを把握したからだ。


 それがこれほどの精神的衝撃をあたえるとは、咲楽は自嘲したくなった。だが、顔の筋肉はほぐれてくれない。座っている姿勢を維持しているだけでも辛くなってきた。が、頬を揉みながら、なおも咲楽は思考を進める。


『ま、なんや。気楽にいちびりよった不始末やな』


 なんとなれば、都市伝説の類として”森で人が消える”という言葉に関心を惹かれていたのだ。トラックにはねられると異世界に転生するかもしれない。それと同質の、ここではないどこかへ強引に跳躍させてくるものが存在してほしいという、安直で乱暴な希望を委ねていた。


『せやけど、そっから先、ウチはなにしよるつもりやった?』


 あらためて考えてみると、現実から跳躍するための実践を試みようとしたのか、まったくもって自信がなかった。せいぜいが周辺情報を調べて満足しているだけの未来しか想像できない。民俗学の真似事としては充分かもしれないが。


『あぁ、ほんま、ウチ、ただのアホの子やねんな』


 ただただ、くだらない享楽として捉えていただけなのだろう。おもしろそうなものを探そうと思っていたが、真剣に取組んでのことではなかった。不思議に突きあたったことにちょっとした興奮が得られて満足できる程度のものなのだ。望まぬ土地にいるという無為な時間を無為な行動であろうとも潰したかっただけだ。人が消失するという痛ましい事象であってもだ。


 なのに。地獄の亡者と我が身をたとえるとは、なんとおこがましいことか。


「森で人が消えるゆうの、ほんまやったんやな」


 咲楽はある都市伝説のことをおもいだしていた。見知らぬ駅で降りた女性がネットに状況をリポートしているうちに消息を絶ったというものだ。彼女はその話が好きだった。創作としてよくできていると評価していたからだ。だが、これが事実であったならば、電車で眠ることが恐怖となったであろう。


 森で人が消えるのも、この類の興味深い都市伝説と信じていたのだろう。ついさっきまで


 事実として身近な(今日が初対面なのだが)人間が経験したとなれば、事情は違ってくる。話に対する姿勢が変わるしかないのだ。興味は不安となり、ついにはくっきりとした恐怖へと変質するであろうからだ。


 咲楽の思考のより冷静な部分は、失踪したステラと己とを重ねることの危うさについて警報を発している。ステラが神隠しに遭遇したとして、いかなる発動条件を満たしたのだろうか。それを把握しないかぎり、現実的脅威として把握する必要はないのではなかろうか。


『やっぱ、ウチは消える覚悟はあらへんねん』


 それでも咲楽は不安を抱いてしまう。同時に己を対象外とする根拠もわからないからだ。ステラも己も神域を侵したのは事実なのだから。そして、神隠しを為すような存在はひどくきまぐれであるように思える。


 まったく理解できないし、納得したくもないのだが、たしかに湧きあがってくる不気味な情動であった。


「……なんや、アキさん。神稜校地の森はようけ事件がありますのん?」


 咲楽はどうにか空を見上げながら訊ねた。


「数年に一回は大麻が栽培されてたとかってニュースはあるようだろも。それに一年に一回ぐれぇは首吊りが見つかるて話らて」 


「……もっとこう、神隠し的な話はあらへんですのん?」 


「徳川光圀が迷子になった場所があって、そこは古来からの禁足地だったなんて伝承があるろも。けど、神社んしょはそんな土地はねぇといってるてば。どうも幕末期に水戸学と関連づけて尊王の立場を強調するために創作されたもんらしぃて。幸矢さんはそう説明してたろも」


 咲楽はわずかにうなづくと立ちあがる。身体の変調は収まっていた。暁緒の返答はどうもすっきりしなかったが、とくに問題はなかった。どうせ、救いを求めていたわけではなかったからだ。


 咲楽はぐるりと視線を巡らせながら呟く。


「ま、なんや……。人ひとり消えたゆうても、ようある話にすぎへんし……」


「ごっとぉこくんじゃねぇてば!」すぐに暁緒の叱責が飛んできた。


 直球の怒りに、咲楽はおののいた表情で暁緒を見やる。小柄な少女は身体すべてを力ませて遥かに長身の相手の目を睨みつけていた。


「よくある話だからとか、小賢しいことこくもんじゃねぇてがんに!」


「せやけど、統計やと……」咲楽はあまりの愚かしさに先を続けなかった。


「そりゃ、人間、いつどうなんのかわかんねろも。私だって今夜のうちに死ぬかもしんねろも。だからって簡単にかたづけられたらたまんねこっつぉ。なんか、大事な人のことをそっつぁな乱暴にされたら、ほんと肝焼くてがんに。そっつぁながんこくってやんは、他人の人生を理解できねぇだけの、薄ら莫迦だすけな!」


 暁緒はすごい剣幕で咲楽をまくしたてた。実際のところ、咲楽は暁緒の訛りを深くは理解できていない。ただ、だいたいはわかる。


『ほんまですわ。ウチも、自分がダボやと思うてますねん』


 無数にある普遍的な悲劇であったとしても、一個人の経験としては違うのだ。人生のうちでそうした喪失をひとつでも経験するのは深刻な事態なのだ。


 そしてなにより、不安は消えはしないし、ましてや己が消えることについて達観できるはずがない。


「……すんまへんです。ウチがどうかしてましたわ」


 咲楽は気弱な笑みを浮かべて謝意を示した。暁緒の態度はさほど変わらない。この状況に咲楽は内心で混乱しかけたが、ふと、ある言葉が浮かんできた。


「天の父は、その日を悪しき者の上にも善き者の上にも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給うなり」


 唐突な言葉に、暁緒はポカンとした表情になった。


「たぶん、人間の幸い、不幸せはそないなもんでしょうけど、愛が注がれへん人はおらへんはずです。そん尊い愛に気づければ、誰かて救われますねん。せやさかい、アキさんらはステラさんのことを忘れんように、ほんで、生還を祈ることが、まず大切とちゃいますか?」


「なんか、よくわからねろも、たしかにそうだこっつぉね」


 暁緒はぎこちなく微笑みをつくった。それを見て、咲楽は己の浅ましさを嘆きたくなった。咲楽が諭したようなことなど、暁緒たちはすでに実践しているのだ。それになによりも、マタイ福音書にあるこの一節を必要としているのは咲楽なのだろうから。


 とりあえず、これに気づけたことに咲楽は心の声で感謝を捧げる。


「ほな、そろそろ帰らんとあかんですね。ウチらには明日がありますさかい」


「だっけんそぉ。はちゃ、帰ろてば」


 そこで咲楽はあることを思いだした。ブレザーをベンチに置いたままにしてあったのだ。彼女は慌ててそこへと戻った。幸いにも汚れたブレザーは放置されていた。


 咲楽は安堵したが、ふいにある疑念を覚えた。どうして汚れてしまったのだろうか、と。ふりかえってみれば、奥宮で幸矢と出会うまでの記憶がひどく曖昧だった。彼女は無意識のうちに左側頭部のあたりをまさぐってみた。とりあえず、怪我はなさそうだ。むろん、他の箇所も自覚できる負傷はない。


「なんや……またか?」


 すぐにステラの失踪について強烈な衝撃を感じた理由について思いつく。あの森を探索している最中の記憶があやふやなので、それが無意識のうちに関連づけられて必要以上の不安を喚起してしまったのだろう。


 そこまで思考を整理したところで、咲楽は溜息をついた。深く注意しながら森の中を歩いていたにもかかわらず、なぜに記憶がぼんやりとしているのか。それが孕む重大な危うさまでは考慮できていなかった。


 暁緒のもとに戻る間に、咲楽は帰宅後の予定を組みたてる。


 まずは炊飯器のセットをする。食材はモヤシとタマネギが残っているはずだ。それとイカナゴの釘煮を炒めれば充分だろう。そろそろスプーンで食べられるヴァリエーションをひろげねば。


 そして食後はさっさとブレザーを洗濯するのだ。人間の生死は重大だが、しかし、汚れた制服の始末は明らかに喫緊だった。なにせ、一枚しかない。奉神舍の制服はそこそこに値がはるのだ。


『ほんま、風呂場で手洗いは骨が折れるで。あ、せや、漂白剤はあったやろか?』


 咲楽はこれからの作業を考えて、ちいさく嘆息した。ブレザーが汚れた原因については考えなかった。

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