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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
2・夜の間際まで
21/43

夜が降りてくる

 森の濃密な部分に刻まれた土を踏み固めた道。その左右にそびえる木々は、日没前から黒い障壁と化していた。上に目を転じれば、わずかにオレンジが含まれた不穏な色の空が帯となっている。点々とある街灯の存在で辛うじて距離感を把握できるような環境だ。


 時刻は十八時十五分になった。奉神舍大學神陵校地に国歌の旋律が充ちる。


 国旗降納だ。毎朝八時の国旗掲揚と並び、神聖な儀式とされていた。学校の関係者はなるべくなんらかの敬意を表するように求められている。SPTC、UOTCに在籍する学生などは状況に応じた拝礼を義務づけられているほどだ。


 そうであるがゆえに、広大な敷地の隅々にまで、あの厳粛な調べは聞こえてくるのだ。それこそ一木一草に染みこませるように。


 弓庭幸矢はその時間、深く暗い森の只中を通る遊歩道にいた。敷地北辺にある教職員住宅地区へと戻る途中だった。本来は巡回バスを利用すればいいようなものの、去年の暮れからは好んで遠回りで森の中を歩くようになっていた。


 木々の隔たりを抜けて響いてくる調べを幸矢は足を停めて静聴する。ただし、彼は東に向けて拝礼していた。おおまかな千代田区の方向を意識してのことだ。


 そして国歌に耳を傾けている間、幸矢はひたすらに心を静かに保つ。己がこのような挙動を行っている事実だけを意識する。およそ一分間の放送が終われば、彼は即座に姿勢を直し、軽く再び一礼。最後に息を短く吐く。


 この儀式は幸矢の日課であった。 


 幸矢にとり、神稜校地にいるかぎりは欠かさず実施する挨拶のようなものなのだ。国旗が見える位置ならば、そちらへと。でなければ、東へと拝礼する。室内ならば、とりあえず上座へと。ただ聴いているのではなく、頭を深く垂らす。まぁ、朝方の場合はその後に朝寝という贅沢を楽しむことがままあった。そして夕方には晩飯のための行動を本気で開始することがおおかった。


 つまり、幸矢はこの行為は愛国心、信仰心を確認するためのものではなく、一日の間に区切りをつけることに重要性を見いだしていた。


「じゃ、明日もよろしく、つうことで」


 幸矢はごくちいさな声を漏らした。誰に向けているのか、彼もわかっていない。ただ物心ついた時から必ず意識していた言葉であった。ひとりきりならば気分によりきりで呟くこともある。この奇妙な習慣を家族も知らない。バレたというか、告白したのは今までひとりしかいなかった。


 くだらない習わしだとは幸矢本人が思っていたが、明日が訪れることを祈ることに損はなかろうと考えている。とくに去年の十一月末からは積極的な意義をあたえていた。


 今日がどんなに惨めだろうが、明日も同様であったとしても、願望が成就するには生存していなくてはならないのだ。その瞬間が現実にありえるのか深刻な疑義があったとしても、幸矢は己に明日があることをひたすらに祈っていた。健康的で文化的な日常など、ただの付随物でしかない。


 日課が終わっても幸矢はその場で直立したままだった。心の中ではさきほど消したばかりの暗い情動が再び浮上しつつあった。そこで彼はそばに侍る牝猫を見おろす。


 牝猫は黄玉の双眸で幸矢をじっと見つめていた。街灯に照らされた姿態は太陽のもとで見るよりも美しいかもしれない。両耳と長い尾を除いて純白の体毛に包まれた彼女は、真珠の光沢を放っているのだ。


 その美しい生き物に幸矢はちいさくうなづく。メル、行くぞ、と彼が静かに告げる。牝猫のほうは目を細くして鳴く。また立てた尻尾は小気味よく揺れている。なんとも愛嬌のある仕草。冷えた笑みを浮かべて、幸矢はまた北へと歩きだした。


 すでに夜の底にあるような森で動く姿といえば、幸矢と白い牝猫の他にはいない。そうして幸矢は街灯が照らす領域を執拗に避け、身体を暗がりに押しこんでいた。牝猫はそのすぐ横で歩調を合わせている。


 まなざしを墨色の地面に這わせて、幸矢は数々の不快感を抱えていた。


 まずは夢魔が来襲する予感に急かされて、奥宮を訪れたということ。そこにある山桜の巨樹が、あいもかわらず美しく咲いているということ。日常の堅牢性というか、季節は容赦なく巡ることを実感させられたものだ。だが、その桜の花が夢に堕ちている間に散ってしまった。ひとりで独占すべき眺めではなかったのにだ。


 続いて思い浮かぶのが、不器用で険悪な平岡、暁緒とのやりとり。それは回避できた問題ではないかという疑念。なぜあそこまで拒絶しなければならなかったのか、今となってはよくわからなくなっていた。だが、これからの関係はきわめて疲れるものになるという確信もある。

 

 さらには、咲楽との愚かしい邂逅に胸が苦しくなる。また、その暗部に触れてしまったことも悔やまれる。なによりも彼女の懊悩を和らげようとした自信に嫌悪する。ふんわりとした一般論を宣ったところで救いになるはずがないのだ。そのことに気づきつつ、偽善を働いてしまった。己こそたったひとつ星を見失っている状態であるのにもかかわらず。


 なかでもとくに不快に思うことがあった。あの奇妙な夢で、またもステラの姿を見ることができなかったこと。ただのひとことだけで変化するかもしれないのに。己自身を痛罵したくなってくる。


「……こりゃ、クリティカルにブラディなこった」


 心のどこかからかノイズのような声が響いてくる。なにも望むな。そうすれば気が楽になるぞ。


 ようは絶望の虜になれという訴えなのだが、幸矢は拒絶する。自己憐憫に耽溺して、あらゆるものを呪いながら生きていくことになるからだ。さすがにそれは醜すぎた。とくに美しく輝く人生をめざしたいとも思っていなかったが、人間の強さや優しさといった類のものは保っていたかった。


 ひとつ星の光に浴するために要求される資質かもしれない。それにステラにまつわる夢から逃れるわけでもなかろう。絶望したうえにその夢を背負いこんでしまったら、とても理性を維持できない。それともすでに狂っているのかもしれないが。その蓋然性は高いだろう。


 とにもかくにも、幸矢にとっての今日の午後は不快の連なりであった。

 

 そうして心の奥底からは、さらに陰鬱な古い記憶が浮上していく。

 

 いっときのうちに、心にこれだけの不快な記憶が折り重なってしまうと、もはや、幸矢には世界そのものが不快であった。窮屈で窮屈でたまらなかった。窮屈だが、それでも生きていかねばならぬ世界だ。


 しかし、幸矢は傍らにいる牝猫については穢れた世界の埒外だと思っている。


 森の中を突っ切る行程、その真ん中にさしあたったところだった。ふいに幸矢はうなじのところにチクッと疼きを感じた。次の瞬間、彼は街灯の下へと大股で逃げこみ、背後の闇を見やる。無意識的な行動だった。


 幸矢が注意した方向には、誰も、なにもいなかった。音さえない。ただただ、虚無があるだけ。普通ならば、なにかの勘違いですますはずだが、この時の幸矢は違っていた。


 とたんに顔が挑発的に歪む。口角がつりあがる。深い窪みに収まった目をいっぱいにひろげ、暗い一点を睨む。じきに右の頬が激しく震えはじめた。


 幸矢は腰を落として背を屈め、両の手に拳をつくった。すぐにでも飛かかろうかという態勢だった。が、さりとて殴りたくても、相手となる実体は存在しないのだ。


「おいおい、ずいぶんと気が急いてるんじゃねぇか。ふざけんな、クソッタレ!」


 今、ひとつの妄執が幸矢を支配していた。夢魔に捉えられたのだ、と。


 そう遠くない時に再度同じ体験をするだろう。体験を繰り返すうちに夢魔は寄ってきて、やがてはあの闘争の夢に堕ちることになる。それは約束された事態なのだ。


 その妄執を生んだものは、ほんのわずかな疼き。が、それへの恐怖が幸矢の身体を動かした。彼がどう否定しようと、それは事実だ。そして、時間が過ぎるにつれて、妄執は当然の確信へと変わっていくことだろう。


「さぁて、いつになんのかねぇ。できりゃ、だいぶ先のことであって欲しいけど、そいつは相手次第だからねぇ。畜生、畜生……。いやはや、まったくもってブラディだ」


 虚無へと抗戦する姿勢を示しながら、幸矢はひとりごちた。それから、牝猫の背中に注意を向ける。彼女は街灯がつくりだした光の領域から外れて、暗闇の中にいた。ぼんやりと白い姿が浮かんでいる。


「なぁ、メルよ。この俺はいつまでこんなもんとつきあわなきゃならねぇんだ?」


 牝猫は答えない。幸矢に背を向け、四肢を踏ん張って威嚇しているだけだ。


「でもさ。あの夢でステラは待ってんだ。あのステラが、すげぇ守護天使として俺を救けてくれるんだよな。それなら……。そいつは必ずなんだよな、メル?」


 心からの、正直な声だった。牝猫は背を向けたままで優しい声音で応えた。

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