彼女が記録する理由
すでに陽は西の山際に消え、空には暗紫色が一面にひろがっていた。南東には膨らみかけの月が昇っていたが、その光はまだ弱々しい。
むろん、咲楽の頭上に求めるべきものがあるわけではない。どちらかといえば地上で生きていくよりは空にふんわりと飛んでいきたい気分であったが。彼女は暗い空へと深い溜息をつく。そのタイミングで袖をひっぱられた。
「ねぇ、サク。なんかしんねろもTBがこっち見て、なんかはしゃいでるてば」
暁緒のかなり浮ついた声。はぁ、と咲楽は生返事をする。それがどうした、と思っていた。
この大学でTBといえば、UOTCの、とくに陸軍学生を指す。由来はとある関東の大手私鉄が茶色の制服を採用していたからだ。むろん陸軍のイメージであるカーキと結びつけたものだ。そして軍人のヒヨコであることを揶揄した意味が含まれていたはずが、今では鉄道員並の規律を有しているので、と逆転した解釈がなされている。なお、空軍はSTと、海軍はややこしいことに目白と呼ばれていた。
「士官候補生やゆうても、そこらの若モンですやん。珍獣がおったら、そら、ほたえてもしゃあなしですわ」
咲楽はあくまでサイケデリックな猫の帽子を指さして応じた。そうしてしかたなしといったふうに暁緒が示したほうを見てみる。
三軍、各々ひとりずつの候補生が額を突きあわせてジャンケンをしていた。なかなか決着がつかないのか、おおげさな身ぶりで勝負に興じている。咲楽はその情景をしばし眺めていたが、ある結論に至り、深くうなづく。
「……金曜やさかい、一番槍を決めとるとちゃいますかな」
咲楽は冷えた声音で呟いた。つまりナンパされることを予想したのだ。彼女にはそういった経験が自慢しようとすればできる程度には豊富だった。なお、その種の誘いに応じたことは現在までない。あらゆる手管を使って逃れてきた。それが密かな誇りであった。
「えぇ……。私、ナンパされるなんて初めてなんだろも」
「なんや、こないなもん、初動をいなせばええように回避でけますねん」
暁緒の反応に咲楽は失笑していた。冗談なのかどうか、判断しきれなかった。そして、世の男どもは背が低すぎる女のほうが好みなのだろうかと疑問に思う。
この時、豪快な雄叫びが響いた。ようやく勝負が決したのだ。濃紺の立襟の学生を囲んで他のふたりが万歳していた。その濃紺の学生は気の毒になるほどうなだれている。海軍が敗けたということだ。そうして陸軍、空軍からはやし立てられて海軍が咲楽たちのそばに寄ってきた。奇妙なほどに鷹揚な態度で。
「お晩です。ひとつ、確認したいことがありますが、ええですか?」
案の定というべきか、海軍は咲楽に声をかけてきた。咲楽はザッと彼の爪先から制帽までを確認する。示威行為のつもりだった。そして彼女は古風だなと思う。第一次大戦から皇国海軍は国際協調の文句のもとブレザーを採用した。が、士官候補生だけは日本海海戦の頃のそれと変わりがない。世間一般では、その歴史的大勝利の記憶を継承させるため、との説が流布していた。
咲楽はわざとらしく息を吐くと、無言でうなづいた。視線は非常に刺々しい。これで迷惑な輩を排除してきたのだ。しかしさすがは海軍予備役士官候補生。咲楽のまなざしに動じた様子はない。彼は眼鏡の位置を調整するとかしこまった口調で訊ねる。
「君は、官品ですか?」
「……は?」咲楽の想定外の問いかけであった。
「なんで、そないなこと訊ねよってですか?」
唖然とした表情の咲楽を仰ぎながら、海軍ははにかむ。気安い口調で彼女の問に応じる。
「まぁ、なんや。君の敬礼がえらくビシっと決まってたもんやさかい。こら、僕らの後輩になる娘とちゃうかな、とどうにも気ぃなってしもうてな」
「ウチ、ようわからへんですけど、それ、海軍さんのナンパの作法ですのん?」
半分は本気の問いかけであった。海軍は苦笑して首を横に振る。
「下心とちゃうで。ほんまにただの好奇心や。四月なって予科の新入生を見てるとな、二年後にどないな人間が入ってくるんやろ、とか興味が湧くもんやわ」
「はぁ。ほんでも、いちびって敬礼の真似事をしよるアホはなんぼでもおるとちゃいますのん?」
まさに、そのふざけた人間のひとりであることを咲楽は自覚していた。
「まぁな。けど、娑婆の人間は、船乗りの敬礼はできへんよ。なんでかしらへんけど、角ばったええかっこしの陸式が正統やと思うてはる。あそこにいてはるふたり、変わった敬礼しとるな、とゆうてはったで。フンッ。やはり世間が狭いんや。なぁ、家ごとに伝統があるもんとちゃうかな?」
「さいですね。陸にしがみつきよると足に根が生えてまうんでしょうね」
咲楽はあまりにも唯我独尊な態度に苦笑を示す。と同時に、妙に素直に、この珍妙なやりとりを許容している己に苦笑していた。
「ほんで、君はUOTCへの志望はどないなっとる? なに、文科丙種ならかえって都合がええ。とくに海軍で活躍できるで。砲雷科とかな」
「ウチ、今のとこ、ただの海軍ファンですねん。ほんま、すまへんですが」
「謝ることあらへんわ。それだけでも僕は嬉しいわ。せやけど、もっと海軍にはまってほしいやね。サブカル方面でもええさかい。君は戦車道やら機械化航空歩兵はようあわん」
「この娘なら、弓道着とか似合うと思わんですろも」
手持ち無沙汰にしていた暁緒が会話に割りこんできた。海軍はニヤリとしたが、そのまま咲楽に語る。
「とにかくや。僕ら三人は感心したんやね。えらくけったいなカッコしとるくせに、めっちゃカッコええ敬礼かましてはる娘を見つけたことにや。しかも同じ関西育ちらしいやん。こら、声をかけとうなるのは道理やん?」
そういうと海軍は握手を求めてきた。咲楽はおずおずと応じた。口許はそわそわしている。彼女は内心ではかなり浮ついていたのだ。所作をほめられた経験はそうないからだ。しかも、無意識にとった行動ともなれば、機嫌が悪くなるはずがない。
「ほんまに、おおきに、ですねん。ほんでも、そないなことを確認しとうて、わざわざウチに話しかけてですか?」
せやなぁ、と海軍はまじまじと咲楽を凝視する。
「娑婆の人間ならSNSにアップしとけば満足しはるやろね。せやけど、僕ら、不確定情報はできるだけ潰しておきたいもんなんや。脅威か否か、はっきりさせときたいと理解してもええんやけど。あと、見敵必殺の精神やな」
「そうはゆうても、誰が先陣切るかでえらく真剣にジャンケンしよってましたけども。最初に発砲しよるのは名誉やと思ってましたわ」
「そら、可能行動がわからん相手に突っこみよるのは死にたがりのすることや。せやけど、やらなあかん時はやるで。僕の他にやれる人間がおらん場合はな。ま、いやしくも海軍士官を目指すもの、ちいさな勝負にも敗けられへん」
咲楽はにっこりとして、この未来の海軍士官にいう。
「目端が利いてスマートで、負けじ魂これぞ船乗り。……敗けてましたけどね」
「今回ばかりは敗けて得やったかもしれへんけどな」
海軍のはにかんだ顔を見て、咲楽は本当はナンパだったかもしれないと疑念を抱いた。しかしながら、職業倫理を交えながらスマートに楽しませようとする態度は、それなりに心地よかった。そういった感情が咲楽の顔に表れていた。いかなる愚人も高等知性体であろうと意識させてしまう、素敵な微笑みだ。
「なんにせよ時間をとらせてすまへんかった。……そしてまことにありがとう」
次の瞬間には、海軍は背筋をピンとはり、ゆるく右肘をあげる形の挙手の敬礼を咲楽に捧げた。やや遅れて背後の陸軍、空軍も続いた。このふたりは”角ばったええかっこしい”の敬礼であった。咲楽は慌てて答礼しようとするが、海軍は微笑んでそれを制する。
「娑婆の人間が軍人にそないな礼はせんでええわ。ま、僕らは見習いやけどな」
そうして海軍は素早く回れ右すると、仲間たちのもとへと戻っていった。そのまま彼らは海軍を先頭にして、速歩で去っていった(士官は滅多なことでは走らないものだ)。
「あかんかった! やっぱピンなしや!」
「ヘタな吶喊しくさりおって! おどりゃ、ドアホォじゃ!」
「喧嘩はやめぇや! はよ、次のソーティをしかけましょ!」
わざとなのかどうなのか。三人の士官候補生は大声で喚いていた。咲楽は腕組みをしながら、しごく愉快そうな顔で彼らの背中を見送る。
「……UOTCしょにもあっけな人間がいらんだな」
「そら、服務宣誓を捧げて軍服に身を包みよる、そこらの若モンですやん」
咲楽としてはナンパの誘いは誰であろうと断るつもりだ。やはり所属不明機との異常接近は不安だからだ。しかしだ。たとえば、居酒屋の隣に彼らがいたならば。話の輪に介入するのはやぶさかではない。そのように咲楽は想像した。
フワフワとした想像を楽しんでいた咲楽の顔が、ふいに曇った。こうした僥倖がこの土地の外であったならば、と期待している感情にも気づいたのだ。なぜこの土地を否定しているのだろう。
「まぁ、そっけなしょが普通に歩いてたりすらんが、奉神舍のいいとこだこっつぉね。懐がひろすぎる、てやんかね」
暁緒のおかげで咲楽は違和感の原因に気づいた。単純なことなのだが、予想と現実との落差のせいだ。
一昨年の今頃、夕焼けの京都の街並、そこに溶けこんでいる己を夢想していた。去年なら、夢想が現実となったことに感涙している己を妄想していた。もし実際に京都にいたならば、無人の薄暗い路地裏でも期待のまなざしで見つめていたかもしれない。
なのに、現在の咲楽は遠く多摩の片隅にいる。巨大な国旗に向けて敬礼をしてみたら、見ず知らずの人間からほめられた。彼女が望んだとおりになっていたならば、けして得られないはずの経験であろう。つまり彼女が意識してこなかった側面に価値をみいだされたのだ。じつに驚くべきことであり、まことに哀しむことでもあった。
「ここはけして楽園じゃねやんだろも、アメイジングな空間ではあると思わんだ。一万五千人がこっけに狭ぇ土地で人生を拓きてぇやんで暮らしてらんがぁ。刺激的な出会いがあって当然だこっつぉね」
暁緒はニコニコとして、さきほどまで国旗が掲げられていた空間を見やる。彼女は同じ旗を仰ぎ、それに依って紐帯を結ぶ街であると主張したいのだろう。咲楽はゆっくりと深く、うなづく。
咲楽は己が地獄の亡者のような心境にあるのだと理解した。はたして亡者は地獄で善きサマリア人に見えたとして、彼を主が遣わした救いと思うのだろうか。咲楽は純真に信じられる自信はなかった。悪魔の陥穽であると疑うはずだ。
一方で楽園にいたならば。たとえ、見ず知らずの人から理不尽ないいがかりをされたとしても。天使とて日々の不満が積もっているはずだから、と寛大に流していたことだろう。
このように咲楽が鬱屈した感情を弄んでいた時、フラッシュを浴びた。
「あ、ごめん。なんかすごく真面目そうな顔してたすけぇ。ついつい出来心で撮らせてもらったんだて」
暁緒はたしかにいい先輩なのだろう。どうでもいいことに思い耽っているところを、脱力させて強制終了させる能力を有している。
だが、ことあるごとに写真を撮るのは不可解だった。そのうえ動作が異常に素早いのが油断ならなかった。気づいたらショットされているのだ。しかし、そもそもからして、一般的に導術者は映像記憶に関して特異的能力を有するのだ。いちいち写真に残す意味はあまりないはずだ。
「ところで、アキさん、なんでようけ写真を撮りよるんですのん?」
つい勢いで咲楽は暁緒へ疑問を投げかけた。くだらない返答を期待してのものだった。が、暁緒なにやら悩むような表情を示したのだ。わずかながらの沈黙を経て、なんてやんかな、と控えめな声で語りはじめる。
「私の信条、らて。死んだ後のことを考えてそ。とにかく、一日、一日をメディアに残しておきてやんそ。どんなにくだらんことでもいいっけ」
死後を見越してという、予想外の重い言葉が返ってきた。とりあえず咲楽はそういうものとして納得しようとした。しかし、暁緒は続ける。
「しょうしい話なんだろも、昔、片思いというか、好きな人がいたんそ。彼、とっても優秀で官立の高校に進学したこっつぉね。せやんに、あっけなく死んでしまったんらて。夏休みに一人旅にでて、……車に跳ねられてしまったんらて。夜のバイパスを歩いてらんが悪ぃんだろも」
これには咲楽はどう対応してよいのか見当がつかなかった。もちろん、彼女には慕情を抱いた男は何人かいたし、関係が進展しかけて離れていった経験もあった。だが、死別というのはまだなかった。だから、安易に同情もできず、ただ身体が縮まるような感覚を覚える。
暁緒は不気味な色合いの空へと、語る。強がりでつくったような笑みが浮かんでいる。
「で、その人、旅行中、一枚しか写真を残してねやんだ。どっかの海岸で撮った朝陽なんだろも……。その写真は美しかったて。でも、なして、そっけなんを写真に残したんかはわかんねやんだ。他にもキレェなもんを見てきたはずなんに、なしてそんだけなんか……」
暁緒は語気を強くして続ける。
「彼が聞かせてくるいろんなエピソードが好きだったんそ。だすけ、私は遺してくれたもんから、声を感じたかったんそ。でも、たった一枚だけじゃ、まったくわかんねこっつぉ。遺された私は彼が感じてきたもんを聞くことができねかったんそ」
咲楽は応答しない。心情をよく理解できるために、安易に反応できないのだ。
「ほんの一欠片を遺したばっかで、死ぬてやんは……ほんとにダメなんだて」
そこで暁緒はちいさく嘆息した。やや口調を柔らかくしていう。
「だぁすけ、まめに残しておきてやんだ。真面目な話、人間、どこで死ぬんだかわからねすけに。たとえば……地震とか」
暁緒としては己の経験に直結した例なのだろう。咲楽はそれにはまったく素直に首肯できた。彼女の祖父は震災以前の神戸についてポンペイのごとく語る変わった性癖があったのだ。祖父が語る物語はこのような文句で終わるのが通例であった。ま、これはあの日までの話やねん。
「私は映像を遺すことに決めたんだ。日記はあえてつけねやんだ。言葉にしたら、なんか演じてしまうかもしんねすけ。だすけ、思いつきをありのままに記録できる、写真を選んだて。ゴーギ、よくわかんねぇ写真を残してるろも、それを見て遺されたしょらが気楽に笑うことができらんなら、私は本望らて」
「気楽に笑える?」
暁緒はこくりとうなづいた。いっぱいの自信を感じさせる笑みを浮かべる。
「おもしれぇことがいっぱいだったんらて、て伝わればいやんだ。だすけ、おめさんがた、死んだ人間のありえたことなんか心配すらんでねくて、おめさんがたの人生でいっぱい笑えばいやんだ、ていいてやんそ」
「ようわからんですが、そいつが人生の最大の目的かもしれへんですね」
咲楽が思うに、人間はそれほど繊細ではないはずだった。それでも暁緒の信条にはしごく感銘を受けた。また同時に、よい笑顔で語っているとも思う。視線を外しているのがもうしわけないぐらいに。
「ほんま、ええ顔で死を語っとぉですね」しかしながら咲楽は遠くを見ている。
「彼のことを思って、強くなったり、笑顔になったんはたしかだすけに。だっけ、哀しい顔して語るってやんは悔しんがぁ。そっつぁながんじゃねやんか?」
さいですか、と咲楽は応じた。暁緒にこれほどの影響を与えた男がどういう人物なのか、まったく想像できないが、羨ましいとは感じていた。
「ま、サクもよそんしょに見せるつもりはねくたって、写真はこまめに残してたほうがいいてば。もちろん、状況はよく考えてだろも。たとえば、さっきなの国旗降納。はしゃぎながら撮影しちゃなんねぇんらて。いわゆる不文律なんらろも。私はそれやって、礼節に欠ける態度だな、て注意されたんそぉ」
咲楽は思い当たる節があって呟く。「幸矢さんならうるさそですねんな」
「たしかに幸矢さんはいたけど、違わんだ。ステラさんだこっつぉね」
「ちと待ってください。ステラさん、て誰ですのん?」
少々、前のめりの勢いで咲楽は訊ねた。ステラという存在は、幸矢と平岡の幼馴染であることは把握していた。暁緒と親しい先輩であることも。そして、ここでも彼女がでてきた。これほどに頻繁に語られる人物であるならば、多少の興味は湧いてくる。
「……サクはステラさんのことが知りてやんか?」
なぜか暁緒はひどく渋い顔を示したのだった。




