旗の下にある日々
午後六時。奉神舍大學神稜校地全域にラッパの音が大音量で放送される。短いフレーズが五回繰返された。これは第六時限終了のチャイムだ。これにてほとんどの講義は完了するために特別なチャイムが用意されていたのだ。多くの人間が、このラッパ譜を軍隊みたいだという印象を抱いていた。
乾咲楽はベンチに座り、ラッパの音に耳を傾けている。瞼を閉じて思索に耽る様はまことに理知的な美しさがあり、白昼なら衆目を集めただろう。奇天烈な猫の帽子のせいで雰囲気が台無しだったが。
咲楽は瞼を開き、呟く。「息継ぎがちと長すぎやな」
咲楽も第六時限終了のチャイムに軍隊じみているとの印象をもっていた。彼女はその理由がわかっている。皇国軍の課業終了のラッパ譜がそのまま採用されているからだ。また、日毎の微妙な差異の存在から、生演奏を放送していることにも気づいていた。
ラッパ手について一言感想をつけることが数日前から日課になっていた。曖昧な日常の区切りとして便利であると考えたからだ。また、少々の間をおいて溜息をつくことも日課だった。今日もそうであった。
「ほんま、溜息が癖になっとぉやんけ……」
咲楽は残照の空を仰いだ。雲が忙しく流れている。涼しいが、やや強めに風が吹いていた。
咲楽は南北幹線である德灯大路(基本的に自転車・歩行者専用だが)の中間地点で身体を休めていた。すでに十五分以上はベンチに座っていた。三十分ほど前に幸矢とは妙にしらけた感じで別れていた。これからとりたてて用事はない。ならば学生宿舎へとすぐに帰るべきかもしれない。だが、とくに用事がないからこそ帰宅することもためらわれた。まったくのひとりきりになると、孤独感が強まるとの不安があったからだ。
が、無為な時間が咲楽に焦りを生む。刺激を求め北の方角へ顔を向けた。
遠く、道の突当りは小高い広場になっていて、まばゆい光に照らされているものがあった。それは高いポールに掲げられたとても大きな旗であった。
咲楽は呆然とした面持で眺めていた。白地の中央に真紅の円を、簡潔な意匠の旗が暗い空を背景にして揺らめく様を。信条によっては、深淵なる理想像の顕現を感じさせるかもしれない。
咲楽はほぼ毎日、この巨大な国旗を見ていた。いや、視界の隅に捉えていた。出雲大社のものと並ぶ大きさであって、また掲揚するポールはさらに高いのだから当然ではある。だが、日の入前後の時間帯に、なんら遮るものなしに見たのは初めてであった。眩しすぎて、かえって空疎に感じてしまう。物理的な隔たり以上の距離感を覚えてしまう。また溜息をついた。
だが、咲楽の他に旗に注目している者はいない。時間帯の関係からか交通量は多い。が、皆、旗以外に注意しているようだ。それに咲楽を一瞥する者が散見される。まぁ、咲楽は人並み外れた身長の眼鏡美少女であったし、この時期、ブラウスだけなのは珍しい。なによりも被っている帽子のおかげだろう。とりあえず注意を集める効果だけは絶大であった。
咲楽も頻繁に向けられる視線には気づいていたが、夕闇に浮かんでいるような国旗を、ただひたすらに眺めていた。彼女にとり他人からの眼差など蝶の羽音のようなものだ。そうできる術を身につけるしかなかった。一時期、母校の正門を県警本部生活安全部が重点的に監視していたほどなのだ(不審者がよく集まるため)。
その状況下で唐突に瞬いたフラッシュ、さらにシャッター音。さしもの咲楽もこれには意識を引きずられた。その不躾な人間へ彼女は剣呑な視線を放つ。暁緒がスマホを覗いてニヤついていた。
『いんどけ、ダボッ!』とりあえず咲楽は心の声で罵倒した。
「……アキさん、なにしとんです?」
愛くるしい顔の少女はバタバタとした身振りで釈明する。
「ごめんごめん。いい画だったすけ、ついつい出来心でやってしまったんらて」
はぁ、と咲楽は応じる。不快ではあったが、ちゃんと謝るだけまだマシだと思っている。彼女は半キロ先から撮影された経験があった。
そうして、暁緒は咲楽のそばに無意味なことに駆足で寄ってくる。が、慎重に視線を交わさないようにしている。いかなる時間であろうと、それが導術者の礼儀とされていた。目の色の問題ではないからだ。
「そないなことは慣れっこですねんけど。せやけど、アキさんは心がものごっつガバガバとちゃいませんかね? ウチ、それが心配ですねん」
暁緒にはむやみやたらに写真を撮る癖があった。そのたびに謝るのだが、だいたいの理由が出来心からであった。ひどい時は一時間に五回も聞かされた。
「ほんで、なんでこないなとこにおりますのん?」
幹線道路なのだからべつにいてもおかしいことはないはずだが、金曜日の夜はこの時間から駅前に出かけるのだと説明されていた。金曜の日替り定食が麻婆豆腐だかららしいのだが。
「祭りだすけ特別なんそ。お家で準備せんきゃならねろも、ひさびさにここに来てみたくなったんらて」
「なんや、ありますのん?」
咲楽は社交辞令として訊ねてみただけだった。しかし、暁緒の反応は意外なほどに積極的であった。薄暗い中でもわかるほどに、朗らかな笑みを浮かべて、何度もうなづいたのだ。困惑気味の咲楽に先輩たる暁緒は朗らかにいう。
「せやんだ。せっかくだすけ、サクもやってもらいてぇんらて。いや、やることはなんも面倒じゃねやんだ。六時十六分までつきあってもらえりゃいやんだ」
「六時十六分まで?」
いやに細かい時間指定であった。そして咲楽は首肯する。彼女に急ぎの用事はないし、帰る場所は同じ寄宿舎の同じフロアなのだ。無理に断れる理由が見つからなかった。
「だんがぁ。サク、この機会に通過儀礼を済ませろて」
咲楽は暁緒の発言内容を理解できなかった。だが、考えている最中に彼女は手を引かれ、道路の真ん中まで案内された。体格差から幼児に連れまわされる母親のような画になっていた。そうして、ふたり並んで北へと正面を向ける。
なんやかなぁ、と思いつつ、咲楽は往来をとりとめもなく見やる。制服姿の人間に、つまり同じ予科学生に意識が向く。なかでも、男子学生の存在が非常に気にかかる。
だが人ではなくその制服に注意していた。男子予科学生は黒い六ボタンのダブルのブレザー。海軍下士官の第一種軍装と酷似していた。ネクタイが紫紺で、スラックスに緋色の側線があるかないかの差しかない。また制帽は被っていない。
咲楽としてはいまだに無帽である点に強い違和感があった。どうしても彼らをだらけた”海軍さん”として見てしまう。
ちゃんと帽子を被っている制服姿の男子学生もいるが、なんてことはない、予備役士官候補生――軍事科学部だった。陸海空軍の三軍が仲良く歩いている光景に、咲楽はクスリとしてしまう。おそらく江田島では見られないだろう。
「総員、前進! テッ!」
ふいに女性による号令が響いた。命令を発するのに慣れている声質だった。
咲楽は背後へと振りむいた。街灯の列に照らされながら、男女混合の十一人の学生による縦隊が向かってくる。五人ずつで縦に並び、ひとりが先頭で統率している。
統率者は制服の女子学生。スカーフは緋色、学部学生だ。頭にはボーター(制度上の女子の制帽だ)、腰には純白の剣帯、サーベルまで装備している。彼女に先導される制服の集団は、足並み揃えて進行している。全員、着帽しているし、むろん服装には乱れたところがない。
「エイダン、学生警衛団だこっつぉね。あれが金曜日の恒例なんらて」
どこか自慢げな暁緒の説明。そして彼女は咲楽の手首を掴み、警衛団に道を譲った。他の人間も素直に脇にどいていく。中には軽く会釈する人間もいた。暁緒もそうであった。一方で、警衛団は無視ししている。団員の視線は先頭の統率者へと集中し、統率者は旗を注視していた。
咲楽は傍らを通過していく警衛団を詳らかに観察する。なんとはなしに、嬉しげな表情になっていた。
警衛団というのは、他所でいうところの応援団に相当する団体なのだが、その活動目的の毛色が変わっていた。奉神舍大學学生たるにふさわしき人格を陶冶し、もって学生総員に模範を示し、これにより学園の風紀の維持向上を期すること。各種の応援活動も規律を維持させる活動の延長とみなされていた。ゆえに権威の象徴としてサーベルが採用されているのだ。ただの小道具ではない。なお他校からは”奉神舍の野次”は毒舌を意味するスラングとされている。
警衛団の背中を見つめて、咲楽は得心したように深くうなづいた。ことさらに力まず、実にゆったりとしたあしどり。外見はそうだが、しかし歩調はきっちり同期していた。これは徹底した訓練に基づく行動でしかなしえない。
「海軍記念日のパレードでもいけるとちゃいますかな」
そうして、警衛団は十字路に差しかかると歩みを止めた。咲楽たちから五十メートルも離れていない位置だ。ちょうどそこは街灯の光が集中しており、さながら舞台上でスポットライトを浴びているような情景が出現することになった。
警衛団は迅速に隊形を転換する。縦二列から横二列になった。そののち、統率者は独特な抑揚で、休め、と号令した。団員はバシッと表現したくなるような挙動で一斉に休めの姿勢をとる。むろんのこと往来の邪魔だが、人々は勝手がわかっているのか、絶妙な間隔で彼らを避けていく。
「ほんで、このちょいとしたパレードの見学が通過儀礼ですのん?」
「もうちょい待ってれそ」暁緒は腕時計を確認する。「今からだすけに」
午後六時十五分三〇秒前。ブザーが轟いた。
直後、統率者による、カシラァ、という号令が飛び、団員は直立の姿勢をとる。ついで彼女のすぐ右横に、白銀の煌めきが生じた。神速で抜刀したのだ。統率者は続いてサーベルをバトンよろしく上下左右で回す。回転するサーベルは光を集めフラッシュのごとく瞬く。十秒ほど、光の点滅が継続したのち、統率者たる女子学生はサーベルの峰を肩に触れさせる姿勢で静止する。
一方、警衛団の挙動と同期して周囲の動きも変化した。皆が皆、足を停め、その場で北へと、つまりライトアップされた巨大な日本国旗へと顔を向けたのだ。咲楽もつられて国旗に正対した。そして、暁緒はすかさず展開されている光景を撮影する。
涼しい風が流れている。薄い光が残る空を背景にして、巨大な国旗は雄々しく翻っていた。咲楽は厚いレンズを通じて、その様を明瞭に捉えている。
「こん時が、いっちゃんワクワクするて。サクはどやんだ?」
暁緒は咲楽にこう訊ねてきた。たしかに暁緒ははしゃいでいる顔をしていた。なんとも純真そうに。対する咲楽は、若干困惑気味の表情だった。
「ま、なんてゆうか。……マッシヴな感じがしますわ」
午後六時十五分十秒前になった。ごく短くブザーが響いた。
統率者は再びサーベルを回転させると、目の高さまで拳を掲げ、刀身を立てる構えをとった。この一連の挙動にはたわみなど感じさせず、まるで最適解をなぞっているかのようだ。人間とはこれほどまでに美しく肉体を操れるのか。そのように訴えかけるものが、この時の女子学生にはあった。
そして午後六時十五分。吹奏楽による国歌の旋律が校地全体に充ちた。
同時。指揮者が右斜め下へサーベルを振るった。刀礼が完成した。他の団員は陸軍式の挙手の敬礼。
ラッパによる国歌の演奏がどこかから聞こえてくる。また、静かに唄っている人間も幾人か。
この場にいる人間は三種類いた。国旗へと注目しているか、またはお辞儀をしているか、そして敬礼の姿勢をとっているか、だ。
暁緒は神を拝礼するかのごとく頭を下げている。咲楽はといえば、背筋を限界まで張りつめさせたうえで、右肘をほぼ垂直に立ててその人差指をこめかみに添えるという、窮屈な挙手の敬礼を国旗に捧げている。まがりなりにも着帽しているので、という認識がもたらした、反射的な行動であった。
荘重な旋律が圧倒する、だが、静寂な時間。多くの人間の視線と敬意を受けとめて、国旗は空から地へと降りてゆく。
この情景を咲楽は凛冽な双眸で見つめている。国歌を声を殺してくちずさんでいる。その端整で面長の顔には涼やかな美しさがある。
およそ一分間の放送が終わると同時に、完全に国旗は地上に降りた。それを照らしていた灯火も消えた。暗紫色の緞帳が降りたような瞬間であった。
そこでブザーが響いた。直後、人々は活動を再開させた。それも、遅れを取り戻そうとでもいうようにいささかせわしなく。
警衛団はといえば、統率者が甲高く指示を発していた。
「国旗降納拝礼の儀、終了! ただちに屯所へ戻る! 列をとれ! テッ!」
団員はなかばのけぞりつつ、押忍、と大音量で応答した。すばやく縦隊を形成し、出発。彼らの帰りの行進はかなり歩調が早かった。というより、競歩のような勢いで進行している。そうであっても威厳は感じさせているのはさすがだ。
「なんや。やっぱ〈抜刀隊〉が、いや〈軍艦〉が欲しいとこですわ」
咲楽は感心した声で呟く。その彼女へ暁緒はにこやかに声をかける。
「サク。おめさんもこれで奉神舍の仲間だこっつぉね」
「え? ただ、国旗が降りてくとこを見てただけですよ」
「せやんだ。金曜の夕方、先輩と並んで国旗が降ろされてくとこを拝む。ただ、そんだけでいやんだ」
暁緒のシンプルな言葉。咲楽は眉根を強く寄せる。
「だぁすけぇ、こっつぁなことやってるとこは他にねやんだ。軍でもねやんに、毎日、毎日、みんなしょが国旗を拝するてやんは。奉神舍らしい日常だこっつぉね」
咲楽は非常に控えめにうなづく。たしかにそのとおりだ。国旗儀礼など、他の学校なら特別な行事でないかぎりはないはずだ。しかも、皆が日常の感覚で行っているともなると。
「あ、サクてば、こっけなん、アナクロニズムだとか思ってねだろか?」
咲楽はまじめな顔で首を横に振る。両親は愛国心を強固に醸成される環境で生きていた。その愛娘である彼女は同様の薫陶を受けてきた。このような愛国心を強調する局面に対し、忌避感を抱くことはけしてなかった。だがなぜか、素直に納得できない。
「私もせやんだったんだて。毎日、朝夕に流れる国歌がうるさくてイヤだったんそ。でも、いちおうは周りに合わせてたんだども」
「オリエンテーリングで、国旗への拝礼はとくに注意されますからね」
「でも、ある時からこの儀式を日常として受けいれることができたんそ。その日、レポートのことで叩かれて気分が沈んでたんだども。たまたま国旗降納を見てたら、なんか、勝手に礼してる自分に気づいたんだて。そんで、心の内はみんなそれぞれだども、毎日、毎日、必ずこの儀式はあらんだ、て思ったこっつぉね。そっからだて」
それがどうした、という顔で咲楽は暁緒を見やる。暁緒ははにかんで続ける。
「百年前、一昨日、昨日、そんで今日。明日も、明後日も。そんで百年後だって、あの旗は掲げられんだ。誰かが幸せだろうと、不幸だろうと。そっけなことに気づいたら、ここでの生活が気楽に思えてきたんだて。奉神舍での毎日がつつがなく続いてくことを信じられるようになったんだて。……そんで、そっから、素直に礼するようになったんそ」
ぼんやりとした顔で咲楽は頷く。『果てなき日常を、か』
「こっつぁなことを思えるようになったら、ほんとに仲間にならんじゃねか」
暁緒の顔は朗らかだった。対して咲楽はしかめ面で陽光のよすがを仰いだ。




