ウチが探しているもの2
硬い表情で幸矢は美少女の様子をちらりと確認した。彼女の顔は西陽をまともに浴びて黄色みを帯びて見えた。そして幸矢はレンズを通して濡れた光を認めたはずだった。しかし、彼はそのことには触れることなく静かにいう。
「ま、なんだ。探すのをやめた時、見つかることもよくある話で」
咲楽はひきつった笑みを浮かべて答える。両手はまだスカーフを絞っている。
「さいですね。せやけど、夢の中で見つけたって、なんも意味あらへんです」
その言葉に刺激されたのか、幸矢は炎にも似た色彩が支配する空を仰いだ。眉根を寄せたその顔は静穏とはほど遠い感情を表していた。だが、咲楽の背丈があっても、それを詳らかに見ることはできなかった。一方で、胸に抱かれた牝猫は関心をひこうとしたのか、ミャアミャアと鳴いている。
「……そいつは健全だわな」
震える声だった。咲楽はそれに不安を感じたが、すぐに幸矢は視線を大講堂へと降ろした。奇妙に明るい声音で訊ねる。
「ところで、咲楽さんは入試は一般選考?」
「そら、浪人ですし。えらくしんどいもんがありましたわ」
咲楽は鼻にかかった口調で応じた。アホちゃうか、と内心では思っている。またいやみたらしく腕組みもする。
奉神舍大學予科は一般入学選考において官公立並に五教科七科目を課していた。私立としてはきわめて難しい条件であり、特定教科の一点突破は通用しない。もっとも一回こっきりの勝負で終わり、共通学力選考と比較して素直な設問ではあるため(小問はやたらに多いが)、基礎学力が高い人間には魅力的に捉えられていた。
一方で、どうしても偏差値が低く判定される傾向がある。また、その数字を巡って醜悪かつ不毛な論争が日夜、展開されている。
「たしかに、ありゃきついわ。ちなみに俺は地理、倫理、物理だった」
その発言を咲楽は訝しむ。幸矢が一般選考を受験したと告白したからだ。
「ウチは、世界史、政経、生物。ほんで、そいつががなんですのん?」
「自信を持っていいってこった。つまりな、おめぇは上位十パーより上から、この世界を眺められる知力が保証されてるわけだ。いや、あくまで数字の話だがな。そんでも、興味を惹かれるもんを見っけられる能力は高ぇはずだ」
『さよですか。せやけど、ウチは+2σ至近に進むはずだったんやで』
むろん、咲楽はこのような内心を声にして表すほど、愚かなことはしない。
「ウチが背ぇ高ぉさかい、なんでもおっきな物差が適当やと思うてますのん? その類の能力やったら、元からせぇぜぇ一銭玉で足りますねん」
吐き捨てるような声音だった。ようは咲楽は過大評価なのだと指摘している。幸矢はしばし遠くを見てから苦笑する。
「そんな七面倒くさい返しができるんだったら、充分だと思うがな。皮肉は知性の表現のひとつだ」
対する咲楽は口角をねじって応じてみた。幸矢はどうせすぐに理解していたはずだと判断している。短い時間、観察しただけだが、咲楽は幸矢がその種の能力が高いと評価していた。
「ま、なんだ。どうもタッパがありすぎるとな、足許が見えづれぇもんだ。俺がいってんだから、信用しろ。おめぇだってそこらへんわかるはずだ」
「さいですね」咲楽はうつむく。
意外と足許がよく見えた。なにせ身体の正面がひどく平坦だからだ。
「ほんで、なにをおっしゃりたいわけですのん?」
幸矢は牝猫と目配せをしてから、咲楽の問に答える。
「まずは足場をよく確認してみるこった。そんでしっかり歩いていきゃ、とんだ拾いもんが見つかるかもな。ま、余裕をつくれつうこった。静謐なる心に神明の御導きが降ってくるもんだ」
幸矢は微笑みながらそういった。わりと素敵に笑う男だな、と咲楽は思った。しかしながら、彼女は素直に了承できなかった。幸矢の応援はふんわりすぎて実利的でなかった。とはいえ、そつなく日常をこなしていくべきだという助言には説得力があると判断できた。平岡に語っていたことに通じる一貫性がある。ゆえに咲楽は幸矢を拒絶したくなってきた。
咲楽はその顔貌に相応した聡明な人間であったが客観的思考を重んじすぎるきらいがあった。つまり曖昧な不安を無視するにも、無根拠な自信を生みだそうにも繊細すぎた。いわば宙ぶらりんな現状を強く意識させるがゆえに、幸矢を許せなかったのだ。
「まぁ、なんや。ウチ、夜やゆうのにVFRでのほほんと進んでおったら、OTPまで来てもうてん。ほんで気づいたら新月やんけ。下のほ見てみらOVC。ほんま、どないせぇゆう話ですわ」
咄嗟に捻りだしたいいかげんな応答だった。咲楽は幸矢にどう思われようがかまわなかった。むしろ、頭がかわいそうな女だとして見限られたほうがよいのだと感じていた。クセはあるがけして愚鈍ではないはずの人間を嫌悪する己を許容しきれなかった。これが咲楽の人間性の限界だった。
あぁ、と幸矢は間延びした声を漏らす。ついでかしこまった顔をつくる。
「サクラ、サチヤ、応答サレタシ」
「サチヤ、サクラ、了解。感度良好ナリ」
咲楽は反射的に答えてしまった。そして苦い顔をする。まさか幸矢が発言内容を理解して、それらしく応答してくるとは想像していなかった。
「サクラ、現在ハ雲中ニアリヤ?」
「サチヤ、然二非ズ。現状ニオイテ飛行二問題ナシ」
咲楽はひかえめにうなづいた。現状は危急というほどではない。
「サクラ、了解。高度ヲ通報サレタシ」
「サチヤ、現在ノ高度ハ一万二千フィート」
思いついた数字を咲楽は口にした。
「サクラ、了解。気象ヲ通報サレタシ」
咲楽は夕焼けを仰ぎながら、おおまかな心境を気象条件として表現する。
「サチヤ、了解。現在ノ視程ハ全周ニワタリ五浬以遠ナリ。雲トノ距離ハ、現在ハ下方向デ一千フィート先ニテ全面二雲ガ展開セリ 、上方向ハ全天デ快晴ナリ。現在ノ風況ハ逆風ニテ、風速ハ強イ」
ようは遠くまでは見えているが、同時になにも見えないのだ。くわえて強い逆風を感じている。
「サクラ、了解。頭上ノ星ヲ確認サレタシ」
これには咲楽は返答をためらう。ずいぶんと非常識な要請であったからだ。まぁ、このやりとりそのものが規則から外れたくだけたものであったが。だが、牝猫がやたらと咲楽へ鳴いてくるので、しかたなしに応答する。
「サチヤ、承知ナリ。星ノ光ヲ視認シタレドモ……光源トシテ心許ナシト感ズル」
いかなる応答がくるのか、咲楽は期待をこめて幸矢へと注視する。この奇妙な遊戯をそれなりに楽しんでいる己に気づいていたのだ。
「サクラ、雲量並ビニ視程良好ナリ、現状ニオイテ有視界気象状態ト認ム。有視界飛行二支障非ズ」
「サチヤ、復唱セヨ!」
さすがにこの管制承認には疑義があった。通報を理解できていないのか。
「サクラ、了解。星二依ル航法ヲ許可スルナリ。トモアレ、貴機ノ航路ハ星ノ光ノ導ク先二アリト信ズル。コレヨリノ御安航ヲ記念ス! 交信終了」
幸矢が言葉を切ると同時に、牝猫がニャオンと御機嫌な声で鳴いた。
「なんや、そこはグッドデイとちゃいますのん?」
咲楽としてはやはり規則にしたがっていないとしっくりこないのだ。
「いやぁ、そこは気分の問題つう奴で。ゴッドブレス・フォ・ユーとどっちにしようか迷ったんだが、言語的にしっくりきそうなもんで」
はにかんで、幸矢は鼻の頭をかいた。たしかにナヴィゲートはもとは操船を意味する単語だ そして航海と星は緊密な関係にある。
「それにしたって、おめぇ、それらしく交信できんのな。どこで覚えた?」
「父の趣味ですねん。メールとか、簡単なことはこれでこなしてますねん」
ほぉ、と幸矢は感心したふうだった。咲楽からすれば、幸矢こそどこで覚えたのかよほど疑問だ。
『ま、悪い気はせぇへんな』
純粋な英語の運用能力とはまた別の、技術的な素養が要求されるからだ。偶然に出くわした人間が同好の士であったという事実が喜ばしく感じないはずがないのだ。たとえ対話の内容が人生相談じみていたとしても。
「なんだよ。妙にニコニコしやがって。そんなに刺激に飢えてたんか?」
「ちゃいますよ!」咲楽はじつに愛想のよい笑顔で否定した。
「なんや、御気遣いかけもろうてすんまへんです。ほんま、ありがとうございますわ」
そして咲楽はこのタイミングで礼をした。その相手はキョトンとする。
「そりゃどうも……。ただ、俺がどんなことしでかした人間なんか忘れちゃいねぇだろうな?」
「……そりゃあ。生殺与奪の権利を渡してくださった奇特な人間ですわ」
咲楽は冗談めかして応じた。もっとも、謝罪文の存在は失念していたのだが。
幸矢はにこやかに笑いながら肩をすくめる。たいした問題ではないとでも主張するような態度だった。
「どうやら俺はたいした人間らしい。ま、予科学生はそんな野郎と難しい話なんざするもんじゃねぇわな。さっさと帰って勉強したほうがいい」
「ほな、学部生はなにをしよるんですのん? 休学中の場合でもええですけども」
咲楽は朗らかな口調で訊ねた。幸矢はチラリと頭上を仰いでから答える。
「まぁ、一部は明日の祝祭のための準備に勤しんでるわな」
「祝祭? そいつはなにか特別なもんですのん?」
咲楽が記憶するところでは、明日の土曜日は休講日だ。しかし、学事カレンダーではそれ以外に特別なものはなかったはずだった。
「いや、ただ莫迦騒ぎするだけなんだが。まぁ、予科学生だって大歓迎だ」
「まぁ、楽しそな感じですねんな」
新歓にかこつけたなにかだろう、と咲楽は判断し、すぐに意識外に追いやる。
「ま、ひとつ星の導きでおもろいもんが見つからええですけど……」
ふと咲楽はぐるりを眺めてみた。ある一点に目が留まる。早くも闇に溶けた深い森をだ。輪郭は消え、濃淡でしか事物を判別できない領域だ。ただの錯覚なのか、そこに動くものがいたような気がしたのだ。
咲楽の視線の先を認めた幸矢はぽつりと言う。
「だから、杜を侵すな。消えちまうぞ」
咲楽は惹かれるように闇を凝視していた。牝猫のか細い声を聞きながら。
咲楽は思う。
幸矢は弱々しくてもたしかにある光を頼るように諭した。しかし心を奪われるものがあって、そのようなものなど目に入らないのだ。圧倒的な不安へと注意を惹きつけられてしまっている。
ならば、そこにも光が射すことがあるのだろうか? そして光を捉えることができるのか?




