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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
2・夜の間際まで
15/43

親友、来たりて4 

 幸矢は顔面に驚愕を凍りつかせて唇をさする。傷はなかったが、咥えていた煙草はどこかに消えていた。


 瞬間の事象を目撃していた咲楽の顔にあるのは混乱だった。


『なんや、どないしたんや? アキさんが弾いたった、でええんよね?』


 咲楽は揺れる瞳で暁緒を視界に収める。その暁緒はなにくわぬ顔で右手首をほぐしていた。


「……南雲。いきなりなんだ? なんか、まずいことでもあったんか?」


 奇妙に冷静な声で幸矢は訊ねた。見上げるほどの背丈の男に対し非常に小柄な少女は答える。あくまでも、事務的な口調で。


「導術者としての義務を履行させていただいただけですけ」


 幸矢の煙草を消し飛ばしておいて、この応答だった。彼女は尋常ならざる俊敏性をもって右腕を運動させ、口許の煙草へと人差指一本を叩きつけたのだ。華奢な指とはいえ、その速度が速度だ。チェーンソーを接触させたような威力なのだ。


 どういうこった、と訊ねる幸矢を無視し、暁緒は平岡へ険しい視線を向ける。


「平岡さん、御存知じゃねやんですか? ……導術者監察援護法、第五一条で規定される一般義務事項の第二項。すべての導術者は、導術を行使した犯罪等、公序良俗に反する行為を認めた場合、または行為を事前に知りえた場合、速やかに防止するための有効な措置を講ずること。そんで、内務大臣通達によれば、有効な措置ってやんには限定的な能力の行使も含まれらんですて」


 憮然とした表情で平岡はうなづく。彼はテーブルの上の右手をそっと握った。


「……そりゃ、ね。けど、おおげさだよ。だって、ちょっと驚かそうとしただけだよ。フィルターから先を撃掌で炎上させてみるだけ。心臓と肺に悪いかもだけど」


「一般義務事項第一項で、みだりに導術を使っちゃなんね、と規定してますてば。あと判例だと、導術案件は積極的に傷害罪を適用することを支持してるこっつぉね。これはおごったことです」


「すまない、それ、忘れてたわ。それにしても、さすがの反応だよねぇ」


「たいしたことねやんです。平岡さんからのREACTO、ゴーギ鋭いっけにわかりやすいんですて」


 ふたりの導術者はのんびりとひどく剣呑なことをやりとりした。幸矢はというと、非常に陰鬱な顔をしている。咲楽も同様だ。


 咲楽は事態をこのように理解した。幸矢の態度に昂奮した平岡は、起導詞を頭のなかで唱えて活導態へ移行。それに伴うREACTOを認識した暁緒は限定活導態に遷移し警戒。実際に平岡が行動を起こすと同時に、対処行動を発動させた。それに要した時間は、一秒あったかどうか。


 ただし咲楽は所要時間についてとくに疑義はない。活導態では思考がミリセカンド単位にまで加速し、あわせて反応もきわめて強化されるものなのだから。また、一回だけ、かつ単純なものなら、活導態でなくても――起導詞を認知することなく能力を行使できる。たとえば、非常な高速で腕を運動させる、または煙草に火をつける、といったような。


 咲楽が不快感を催すのは、導術者が無自覚に能力を運用していることだった。

  *

 起導詞トリガー・コードは発声しなくても機能する。そもそも”唱える”どころか”読む”という認知が必須ではない。特定の認知を意識できればよい。それは嗅覚や痛覚などであってもかまわないが、実用性に乏しい。一般的には文章・画像を活導態への遷移の”鍵”としていた。


 内務省でも文章を基本的なトリガーとして指定してた。いわゆる勅令起導詞と呼ばれるものが日本の導術者の大半が用いている。その勅令起導詞は祝詞を擬した複雑で長大な文章である。もっとも、文章という形式が運用上、大変に便利であった。つまり、文字という視覚の要素が存在しているからだ。さらには文章の意味内容を理解することまでは求めていない。これは日本語が母語でない者にも利益がある。


 そして慣熟した導術者(つまり成人導術者のほとんど)は文章を読む手間を省く。文字列を一枚絵として意識するのだ。これは、画像と音声ではどちらが情報処理の時間を節約できるのかを考えてみればよいだろう。ゆえに実際は起導詞を”読んで”のではなく”見て”いるのだ。他者からはわからない、心で。


 なにやら特殊な才能だと思われるかもしれない。が、想起詞オーダー・コード――事象の発生を規定するコマンドの編成――には、複数の認知を操作することが前提とされていた。つまり、術式名は言葉ではなく複合した認知からなる記号として理解すべきなのだ。


 想起詞では術式名を四つの要素の重なりとして意識される。どれかが欠ければただの概念に留まり、現象とはならない。導術者は青年期までに徹底的に刷込みが施される。認知の制限といってもよいが。


 ここで撃掌を例としてみる。


 まず特殊なフォントの漢字で”撃掌”と並べたものを画像として認識する。そこに”アドクラッシュ”という音声を重なる。さらには”adcrash”という文字列も付加される。この三つがワンセットとして意識されるのだ。しかし、この認知を記憶から浮上させるには特殊な作業が必要だ。


 前駆詞リーディング・コードを読まねばならない。いわばパスワードだ。撃掌ならば”かぎろいにもえてかがやくたなごころほむらのいちだたおせぬはなし”がそれにあたる。日本では五七五七七調の文章が制定されている。ただし、緊急時には短縮することも可能で、この例なら”かぎろいの”で済む。


 以上の方式を想起情報学では四重符号化と呼んでいた。むろん多言語では異なるが、前駆詞と三種の情報を複合させるのは同じだ。なぜなら国際能力統制標準規則で規定されているからである。


 ややこしい方法が設定されているのは、第一に安全のためだ。ありふれた刺激から術式が認知され、続けて発顕されてはたまらないからだ。つまりリンゴから赤を連想するような容易さでは安全ではない。そこから影絵を連想するぐらいの遠さでも心もとない。


 そもそも起導詞という鍵を意識にかけているのだから必要ない。こういった意見もあるにはある。が、フラッシュバックという現象があるように、いかなる刺激が抑制されている記憶を喚起するのか把握しきれないのだ。ならば、用心深くするにこしたことはないだろう。マジック・アイテムに依存しないという特色の逆作用ともいえるが(道具を鍵とする方式も存在する)。


 だがしかし、導術者は安全という概念をさほど意識しない。それなりに苦労して運転技術を習得したにもかかわらず、気づけばずいぶんと乱雑に自動車を運転している実態のように。

  * 

『ほんま、こないな輩がようけおったら、いつ死ぬかわからんで』


 咲楽は苦々しい顔でふたりの導術者を眺めている。そして暁緒は溜息をつくと幸矢へと顔を向けた。


「そっつぁなわけですけ、幸矢さん」


 暁緒は容赦なく幸矢を睨んでいる。


「平岡さんを悪者にするてわいさは、よしてくんねですか」


 暁緒は出身地の言葉で、品の悪いことはするなと宣言した。対する幸矢は無言でうなづいた。咲楽はただ見ていただけだ。味方になる義理もなかったが。結局のところ、この場では幸矢に味方はいなかったわけだ。ただ、牝猫が幸矢のもとに跳んできた。心情を察したからなのか。幸矢は右頬をひきつらせて、牝猫を胸に抱いた。


「ま、僕にだってちょっとぐらい昂奮する瞬間はあるよ」


 そうして平岡は煙草を咥える。もったいぶった仕草で火口を指先で押さえ、着火する。


「幸矢が交渉戦術で、というより断交したくて僕や周囲を罵倒するぐらいは、まぁ我慢してやるよ。ただ、ステラを蔑む発言はやめろ。充分なエビデンスがないくせに外野から好き勝手に宣って自説を優位に立たせたい輩。僕はその類がとてつもなく嫌いだ。おめぇがどうかはわかんないけど、なんにしろ……」


 沈んだ口調で平岡は語り、ひとつ深呼吸をしてから言葉を結ぶ。


「過去を否定したくないでしょうが」


 幸矢と牝猫は一瞬だけ視線を交わした。幸矢は彼女にちいさくうなづいた。


「……そうだな。これからだ。距離をどうとるかはとにかく」


 幸矢はぎこちない笑顔で応じた。それに対し、平岡は深くうなづく。


「おめぇのありがてぇ誘いは保留する。いや、貴重な時間を消費させてすまねぇ」


 平岡は火を着けたばかりの煙草を爪弾く。煙草は輝き、灰となって散る。その様を見る彼の表情は墓石かなにかのようだ。


「もう、ダメなんですか?」暁緒はなおも喰いさがろうとした。


 だが幸矢は無言で腰をあげる。咲楽も同じ行動をとった。彼女にはもともとこの場にいる理由などないからだ。


「幸矢がどんな日常を選ぶかはわかんないけど、せめてステラに語れるぐらいにはまっとうにやってよ。そんで、僕は期待せずにおめぇを待ってる」


 平岡は池の錦鯉を見ながらそう言った。幸矢はうなづかない。その代わりに彼へと訊ねる。このうえなく緊迫した面持ちで。


「おめぇ、バケモンを導術で殺す夢を見たことあんか?」


 あまりに唐突な問いかけに平岡は困惑を示した。幸矢に抱かれた牝猫も反応した。長大な尾が盛んに彼の腹を叩いた。


「……いやぁ、記憶にないねぇ。そういう無意識的な鬱憤なら、監察援護センターで発散しているし。南雲さんはどう?」


 暁緒はプルプルと頭を振った。彼女にとっては不健全な発想であるらしい。


「ま、それならそれでいい。……じゃあ、ふたりとも、これでさようならだ」


「また近いうちにでも」 


 幸矢は牝猫を強く抱いてそこから去る。むやみなほどに足早で。咲楽は彼の背中にぴったりくっついていく。彼女の歩幅は並の男よりもおおきいのだ。


黄眼きまなこの馴染みがおるとえらい難儀なもんですねんな」


 一分ほど歩いたところで咲楽は幸矢の背中に声をかけた。黄眼というのは導術者を指す古い呼称であって、たしかに外見的特徴を的確に表現してはいる。が、誰もが知ってはいるが、公的な場で発するのは忌避するという、あの類の単語とみなされている。


「いや、俺が悪ぃだけだ」幸矢は政治的には正しい応答をした。


「せやかて、あないなことするほどでもあらへんと……」


「不作為は立派な背任だ。そんで背任は罪であって、罪は贖わなきゃならねぇ」


 咲楽にとってはあまりにも説明不足な応答であった。


「わかるよにゆうてくれへんと困りますわ」


「不作為の罪を犯した人間は、その過失を忘れて従前の日常を楽しむ権利はない。そいつが俺が考える罰だ。俺は己に科しているだけだわな」


「つまりケジメゆうことですのん? そこらへん、あちらは理解しておるんですのん?」


「それとなく伝えただけだがな。とにかく、あいつらは誠実すぎんだ。こんな俺なんざ放っておいて、自分らで楽しんどきゃいいものを……。それに応じたくねぇ俺が悪ぃんだ」


「ほな、気ぃつけたほがええですねんな。目的達成するゆうて記憶を弄りくさる蓋然性が高ぉですさかい。黄眼はそないなことがでける連中でっせ」


 論理的に見えて破綻した言説であった。誠実な導術者など存在しないことを前提としていたからだ。が、咲楽の価値観からすれば、ごく正直なものだ。まぁ、傍観者として応酬を見ていたストレスを転嫁しているだけかもしれないが。


「おい。俺はそんな連中とざっと二〇年はつきあってきたんだぜ」


 莫迦か、と幸矢は婉曲して叱責していた。しかし咲楽は続ける。


「しんどいことですねんな。こん学校は連中が四割もおるんですし」


 そして咲楽は周囲を不躾に見やる。今日でもこの種の露骨な発言をする人間はすくなくはない。しかし、日本には人口比で三%ほどとはいえ、四五〇万を超える導術者が生活しているのだ。


「当然だろ。この学校は指定特別なんだから。導術能力練達度認証(CAESSAR)のプラ6が二百人以上もいんだぜ。そいつを知らねぇわけじゃねぇべ?」


 幸矢は鼻にかかったような口調だ。対して咲楽はあからさまに不満そうであった。

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