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牝猫たちはすべてを観ている  作者: N.Willowstream
1・森の奥にて
11/43

神隠しの杜

 高尾山の麓から浅川、多摩川の右岸に沿って低平な山地がひろがっている。万葉の人々はこの様を見て”多摩の横山”と呼んだ。この丘陵は武蔵国府中の真向かいに至ると河岸から南東へと離れていき、遠く三浦半島にて海に尽きる。


 さて、府中から多摩川を眺めてみれば、ひときわおおきなピークが川を南から圧迫するように隆起しているのがよくわかる。またそこから東はまとまった平地となっていることもあり、なんというべきか、巨大な城塞の関門と表現したくなる趣があった。


 わりと特異な外観であるため古代からの聖地なのだと思われがちだった。だが、せいぜい国分寺の瓦を生産した窯が検出されたぐらいで、めぼしい祭祀遺跡は存在しない。宗教的価値を帯びはじめるのは江戸開府にあわせ南東の谷戸に神社が造営されてから。この立地が選定されたのも、鎌倉往還、甲州道と連絡を重視してという軍事的観点かららしい。


 このおおきな丘を地元住民は”ミタマ様の杜”と呼ぶ。土地の大半を、二〇〇ヘクタール以上を奉神舍大學が所有している現実があっても、南東の一角を占めるにすぎない〈大神靈神社〉が本来の地主であるという意識が強いからなのか。もっとも神域、または大学というよりは緑地公園として親しんでいる人間がおおいようであったが。


 ただ、丘の過半を覆う森林の深奥について知る者はすくない。関心の外にあるものとされていたからだ。それは一万五千人以上の学生たちもほぼ同じだ。

  

 奉神舍大學敷地――神稜校地の奥まったところに和風庭園が設けられている。中心には錦鯉がうようよ泳ぐ池。そのほとりに素晴らしく立派な藤棚があり、たくさんの花穂を垂らしていた。それらの蕾はまだ固かったが、ほのかな香りはすでに漂い始めている。桜に続いて艶やかな眺めを見せる日も近いはずだ。


 藤棚の下にはテーブルセットが置かれているのだが、そのうちのひとつに非常に目立つ男女がくつろいでいた。ふたりはもっとも影が濃いところを選んでいたのだが、いかんせん、姿を隠せるほどの暗さではない。そしてテーブル上の猫は遠目からでもよくわかる。その白い被毛は暗がりでも鮮明だった。四月上旬の午後五時はまだまだ明るいのだ。


 とにかく、女はよく見れば見るほど、惹きつけられる存在であった。


 精妙に均整し眼鏡によって完成された面長な相貌。しかし表情はひどくしまりがない。また、濡鴉の髪を乱暴に帽子に押しこんでいるのはもったいないように思える。さらに帽子がひどい。猫がモチーフなのだろうが、ルイス・ウェインがデザインしたかのようなサイケデリックな代物だ。一方で胴体のほうというと、胸周りも含めて流麗なフォルムを描いている。背丈が高いからかブラウスがきつめなので、よけいにシンプルに見えるのだろうが。


 つぶさに見ればずいぶんとチグハグだ。だがしかし、乾咲楽はかような姿であってもやはり絵になる。ビスケットをちびちびと噛っていてもだ。高尚な意図が隠されているように惑わされるのだ。


『ほんま、なんやねんな』


 咲楽の心にそんな言葉が浮かんできた。これで何度目になるのかわからない。


 北の方角、森の際のほうばかりを咲楽は凝視している。彼女はなんら変哲もない木下闇へと注意を向けていた。もっとも彼女はそこに求めるべき対象がわからなかったのだが。わからないのだが、答えを求めてひたすらに見つめる。ビスケットを噛りつつ。


 咲楽には注意すべきものが周囲にあった。足元の錦鯉の群泳はもちろんだが、テーブルのルーズリーフの文面はよくよく確認すべきだろう。そこには達者な楷書体で文章がつづられており、最後にはふたりの人名と拇印が並んでいた。本文と同じ筆跡なのは弓庭幸矢と、奇妙に角ばっているのは乾咲楽とあった。


 猥褻行為についての幸矢の謝罪文であった。法的拘束力が発生するかはともかく、咲楽にとっては現状もっとも重要な注意対象であるはずだ。が、咲楽はただなにもない森の暗がりを見つめている。


 やがて咲楽は沈黙が辛くなってきた。しかたなしに対面の男に訊ねてみる。


「ほんでな、幸矢さん。こん丘、猪がおりますのん?」


 呼びかけられた時、弓庭幸矢は眼前の美少女ではなく、テーブルで煮干しを噛る牝猫へと視線を向けていた。視線を変えることなく彼は応じる。


「どうだかねぇ。鹿や蝶は見たこぁあんだが。で、猪がなんだ?」


「なんや、猪がおるなら、そら、むやみに森に入ってもうたら危ないやろなと……」


「神戸、六甲では、猪が森にいる人間を捕って喰うんか? さすがだな」


 咲楽はかろうじて愛想笑いをつくることができた。幸矢のそっけない対応にはべつに落胆しなかった。本題の前フリにすぎなかったのだし、本当にそうだとしたらつまらないとさえ感じていた。


「まぁ、ほんまのことかわからへんですよ。……せやけど、そないなことにしとこか、ゆう話はようけありますねん」


「さすがだな」幸矢は困惑気味に応じた。


「ほんでですけど、……ほなら、どないなわけで人が消えてまうんですのん?」


「莫迦らしい。そんなこといちいち真に受けてっと、病んじまうぞ」


 そう。冗談だと捨ておけばよいはずなのだ。なのに咲楽は拘泥している。


「ほなら、あないなことゆうたらあかんですわ。夜、トイレいけへんです」


「寝る前にあんま水を摂取しなけりゃいいだけだ。ついでに目覚めもいいぞ」


 とりつく島もない幸矢の態度に、咲楽は眉根を寄せて責めるようにいう。


「ほんまのことをゆうてください。ウチ、それだけが聞きとうて、幸矢さんのそばにおっとぉですねん」


 その言葉を聞いて、幸矢はギョロリとした目だけを咲楽に向けた。口許には薄気味悪い笑みが現れていた。牝猫もまた鳶色の耳を咲楽へと向けた。


「つきあわせっちまって悪ぃと思ってんだがな」


 このふたりが一緒にいるのかといえば、まぁ、幸矢が強引だったからだ。


 森の奥から下界まで幸矢が咲楽を先導した。当然だろう。謝罪の言葉を書面に残しておくと主張し、わざわざ学生証をコピーしたうえ、それに文面とサインと年月日を認めるまでの間、彼女をつきあわせたのは、まぁいいだろう。だが、せっかくの髪を汚れた状態で衆目に晒すわけにはいかない、などと発言したのはどうなのだろうか。そのために学内のミュージアムショップから、あの妙ちくりんな帽子を買ってきたのは、気遣いが変な方向にいっているとしか思えない。しかも、安いから気軽に捨てられる、といいそえて渡したのだ。


 痴漢がお詫びとして被害者を家までエスコートするようなものだ(実際に痴漢だが)。幸矢が用事を済ませている間、遊び相手として牝猫を咲楽に預けていたのがせめてもの救いだった。また、デザインが奇妙なわりには、帽子が所期の目的を果たしており、かつ被り心地がいいことも。


 なんにしろ、咲楽は幸矢と別れるタイミングを逃し、また胸のことなどどうでもよくなっていた。もともと彼女はあるかなきかの存在について悩むのはやめていたからでもあるが。


 そうして、咲楽はひとつの疑問に囚われた。森で人が消えるということに。


「こちらこそすんまへんですわ。ウチより背ぇ高ぉさかい惚れてもうた、とかやったら、幸矢さんも悪い気ぃせえへんとは思いますねんけど」


 幸矢は池の鯉を見やりながら呟く。


「そんな理由なら傷ついちまう。咲楽さんと俺とじゃ釣りあいがとれそうにねぇ」


 迂遠に肯定されても咲楽の衝動は収まらない。睨む目つきで対面の男へと顔を寄せていく。


「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどぉこのぉ、細道じゃあ」


 突然、幸矢は誰もが知る童謡を唄った。調子はかなり独自色があったが。


「天神様の細道じゃ。……帰りは、怖い?」


「なにが怖いんだかねぇ」幸矢はやおら咲楽の瞳を覗きこんだ。


「そういや、昔は子供は七つまでは神様からの預かりもんとされてたみてぇだ。だが、違うんじゃねぇかな。神様は魂にこの世で活動できる権利を貸してんだと思う。その権利が回収されて、人は最期を迎えちまうんだ。そんで、ごくまれに身体ごと回収される」


 神隠し。咲楽はそう呟いた。呟いて、上体をそらして頭上をみあげた。目の前に薄紫の花穂が突きつけられる格好になった。身体と天とを直線で繋ぐかのように。そして彼女は自覚する。自分はあきらかに笑顔になっている。


「なにも悪ぃ話だとはかぎらねぇが。ほら、異世界に転生してるかもしんねぇから。チート能力をいただいて大勇者として称えられたりとかな。しかし俺らは不運だ。その後の事績を伝えてくれる親切な存在がいやしねぇんだ。俺らにゃ消えた人間のほんとの価値を知る機会が永久に来やしねぇ」


 幸矢は薄く笑みを浮かべている。それを見て牝猫は身体を縮めた。


「ま、神隠しとかそんな類の話、鎮守の杜ならよく転がってらぁな」


 咲楽はうわずった声で問いかける。


「せやけど、こん森は大学の演習林とちゃいますのん?」


「正確にゃ経営上の担保だ。開学当初、経営計画やらなんやらで御上を説得せにゃならんかったから。だがな、歴代総裁で本気で木を売っぱらおうとか考えた人間なんざいやしねぇ。つまるところ、虚無大元尊神きょむだいげんそんしんに捧げられた斎庭ゆにわであるこたぁ、江戸のはじめから変わっちゃいねぇ」


 幸矢は家族の秘密を暴露しているかのような態度であった。


 それに対し咲楽は即座に返す。「なんや、おもろいですやん」


 正直、咲楽自身がこの反応に驚いていた。オカルティックな事象に積極的な好奇心を示すとは思っていなかった。


「咲楽さん、いろんな意味で哀しいことほざくなや」


 幸矢は頬杖をつくとポツリと吐いた。おそらくはずいぶんと直球な親愛の情であったのだろうが、とうの眼鏡美少女の心には響かなかった。


「まぁ、ウチ、エノクさんの逸話が好きですさかい」


 咲楽はブリッジを右手で抑えながら応じた。その凛冽な切長の目は陶酔感に浸っていることを示していた。内心では己の情動について考察していた。結論はすぐにでた。現状は変化せねばならない、という抑制しがたい欲求。危うい兆候だと判断する。ちょっとしたことで希死念慮に陥りかねないからだ。しかしなかば以上、転落しているのではないかという認識もあった。


「俺も好きだよ、御伽噺としてなら。けれど、彼は大天使に叙されて人間として幸福だったんかねぇ」


 幸矢はひどく顔を歪めながら応じた。すくなくとも愉快な感情の表れではないだろう。そして彼はおもむろにスマホを取りだした。着信があったのだ。内容を見て、苦笑する。返信しながら咲楽を諭す。


「ま、なんだ。新入生がこの花の時季にほざくもんじゃねぇと思うけどな」


「さいですかね? 出会いの時季やさかい、アホな妄想をしよるもんやと思いますねん。なんや、刺激に飢えてまうんですわ」


「せいぜい、よい人間との、だな……」


 その時、スマホが鳴動した。幸矢は内容を確認して溜息をつく。


「……すまねぇ。ここに俺の知人が来やがる。ほんとは、もうちょっとあとで落合う予定だったんだが、あっちの都合で変更になっちまった」


「では、ウチはここらで……」咲楽は腰をあげかける。


 その直後、澄んだ男の声が響いてきた。捕捉したぞ、と。幸矢は頭を抱える。


「ほら、すぐだっただろ?」


 口調こそいやみったらしかったが目許には微笑みがあった。

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