美少女との遭遇3
「で、咲楽さん。やっぱ、このでけぇ桜を見にきたんかな?」
咲楽は曖昧にうなづきつつ頭上をみやる。赤紫の若葉だけで飾られた天蓋を。ついで彼女は地面のほうをしげしげと観察する。薄紅の絨毯が一面にひろがっていた。全体的には渦文様を描いていた。
「ほんま、惜しことですわ。桜色の天井、ゆう眺めやと思うと」
均整された美ともいうべき面長の顔に浮かびでた憂いに幸矢は共感を覚えた。
「けどよ、散り際も美しいもんだがなぁ」
幸矢は花弁をひとひらつまみあげた。寝ている間にいったいなにが起こったのか、としみじみ思う。それに気づかない己のマヌケさを意識する。牝猫は黄玉の瞳で沈んでいく幸矢の表情を見つめていた。
「せやけど、ほんまのとこ、こないな森の奥にある桜やさかい、訪ねてみたわけですねん。……人知れず咲いとぉ桜の巨樹。えらい魅力的とちゃいます?」
「わかる。秘密の場所、つうのはとりあえず触れてみたくなるもんだ」
そして触れたあとの責任までは想像していない。好奇心は猫をも殺す、という諺があるというのにだ。そのように幸矢は思ったが、声にはださない。
もっとも咲楽は単純に同意されたのが嬉しいらしく、何度もうなづいた。
「せやねん! ほんで、ちとばかり不思議があるよな気がせぇへんです?」
幸矢はうなづいた。たしかに不思議なことは起きたからだ。たとえば、夢の中でバケモノを倒したと思えば、現実は美少女の胸を押していたとか。
それとはまた別に幸矢はあることに気づいていた。咲楽の凛冽とした目許は魅力的だが、おかげで稚気の表れであってもなにか大変な主張に思えるのだ。
「ま、ただの妄想やとわかっておるつもりですわ。せやねんけど……」
咲楽はその先を口にしなかった。どこか痛ましい表情を浮かべていた。そして右手を頭上へと伸ばした。背丈が高いので梢の深いところまで届いた。
なにが意外だったのか、アッ、と咲楽は小声を漏らした。彼女ははにかみながら言葉を続ける。
「ま、現実は優しいもんとちゃいますねんな。そうやうやすと主は奇跡をお与えになられへん」
幸矢と牝猫は怪訝な目を咲楽に向ける。幸矢としては聡明という印象が崩れたことに驚きがあった。
「んなもん安売りしてたら神明の価値など消えちまう。めったにねぇからありがたみがあんだし、頼れねぇなら民草は自己研鑽に励む、てもんだ」
幸矢は自身の信仰に基づき咲楽をなだめた。もっとも苦笑いを隠していない。
「やっぱ、そないなとこですか。……ほんで、あれが奥宮ですのん?」
咲楽は山桜の巨樹の根元に鎮まる祠を指さす。この祠は官幣小社〈大神靈神社〉の末社、奥宮なのだ。神社の本宮そのものは森の南東にある谷戸に鎮座している。
「よく知ってんなぁ。いや、皮肉でなしに」
にんまりとした顔で幸矢は応じた。咲楽は小首をかしげてみせる。
「つまり、一般人はもちろん、うちでもそうはいねぇ。このお社はおおっぴらに鎮座地がアナウンスされてるわけじゃねぇんでね」
「いやぁ、大学の敷地やし、そないでもないとちゃいますのん?」
「そうでもねぇんだわ。環境科学専攻、そこの森林生態学特修の連中はここの常連だが、お社にゃ興味がねぇ。で、奥宮に関心があんのはせいぜい神職成課程くれぇなもんだ。でなけりゃ、よほどの変わりもんだ」
変人呼ばわりされた咲楽はニヤリとする。
「えらく親切な変人もおるもんですね。ほんで、どないな神さんですのん?」
「五十猛尊。素盞鳴尊の御子神であらせられる。はじめ父神とともに新羅の曽尸茂梨に天降りあそばれて、のち大八洲にお渡りなされて種々の木を植えたまい、本朝の山林を堅めたもうた神様であらせられる」
流れるような説明だ。感心しているふうの咲楽に、幸矢は抑えた声でいう。
「そんでな、もとは磐座があっただけつうんだよ。祭神不詳でよ。それが明治元年太政官布告第一九六号、神仏判然令にふさわしい体裁を整えるつうんで、五十猛尊の御霊を祀らせていただくことになったんだとさ。けど、本来の神様に御動座いただいたかどうかはわかんねぇな」
幸矢は背後の祠を一瞥することもなしにそう語った。もっとも咲楽にはどうでもよい話なようだ。
「さよですか。ようわからんですけど、神さんはおりますでしょ?」
ひどくなげやりに、祟り神だがな、と幸矢は答えた。冗談のはずがそうかもしれないと思えてきた。無性に気分がささくれだつ。たまらず彼は懐から煙草を取りだし、咥える。
察しがいいのか、牝猫は素早く幸矢のそばから離れた。一方で咲楽は彼の脇をぬけて祠へと近づいていく。幸矢はなにもいわず煙草に火をつける。そして咲楽へとふりかえった。彼はおおきく首を傾げる。
咲楽は十銭硬貨を賽銭箱に投じ、深く頭をさげた。ただ、柏手は一度も打たなかった。そして、彼女が姿勢を正した時だ。幸矢が苦笑を含んだ声をかける。
「ところでさ。おめぇの背中、すんげぇ汚れてんぞ」
すると咲楽は大慌てでブレザーを脱いだ。たしかに背中全体が土埃でびっしりと汚れていたのだ。それに美しい光沢を放つ長い黒髪にも土汚れがあった。とてもではないが人目に晒せるような状態ではない。
「なにしとん! すぐにゆうてくださいよぉ、もぉ! てか、なんやねん! パンスト、破れよったわ! ああ、どない面して表歩けばええねん!」
バタバタとブレザーを振りまわして、咲楽は激しい剣幕で怒鳴った。
幸矢は煙を吐きながら応じる。「そんな面してたらいいんじゃね」
「ウチは幸矢さんとはキャラの方向性がちゃいますねん」
「勝手に決めつけんな。だけど、どうしてそんなに汚れてんだ。普通、そこまでいっちまったらすぐに気づくもんだろが」
「そうはゆうても……」咲楽は手を止めた。「あれ、ほんま、なにしとん?」
「すまねぇが、この件についちゃ、俺はまったく関与してねぇからな。たぶん」
深刻な表情で咲楽はブリッジに右手を添えた。が、直後には笑っていた。
「ま、ほんま、どうでもええですわ。なんや、不運なだけですねん」
牝猫は咲楽に向けて頭をさげ、ミャア、と鳴いた。声に応じるように。
「よくわかんねぇ奴だな。……んで、咲楽さん、誰にここを教えてもらったんだ? そいつにゃあ忠告しときゃいい。ロクな神様じゃねぇぞ、てな」
「フロアセクションの先輩ですわ」
なるほどね、と幸矢はうなづく。その先輩も変わった奴だと思っている。
奉神舍大學は予科学生、学部一年生に共同生活を義務づけており、関連して様々な学生組織が存在する。フロアセクションはそのうちのひとつで、予科における基幹とされていた。学生宿舎の各区画を基本単位に男女混合で組織される。目的は日常での親交を担保し、宿舎の環境良化に努めるためであった。
幸矢は去年、その監督学部学生を務めていた。なお彼の主な業務はコンパ会場までの案内と上座で飲むことであった。
「ま、とにかく、だ。咲楽さん、もうここにゃ来ないほうがいい。祟り神だかなんだかしんねぇが、あくまで静かに、いや、やっぱ触れちゃなんねぇんだ」
苛立たしげに幸矢は紫煙を見つめた。さすがにというべきか咲楽は批難する。
「ほなら、幸矢さんはなんですのん? たしかに静かにしておったけど、目の前で昼寝するのは失礼やと思いますねん。しかも、飼い猫なんぞ連れてきて」
一瞬だけ幸矢の右の頬が震えた。彼はひどく真剣な面持でいう。
「このメルは俺が預かってるだけだ。そんで、友人で、散歩仲間だ」
幸矢は懐から煮干を取りだすと牝猫にさしだした。彼女は慎重にかじりつく。
「友人と一緒にどこ行こうがかまわんだろ? たしかにここは大神様の鎮守の杜だ。だが、俺にとっちゃ馴染みの裏山。ガキの時分から遊び場にしてたんだぜ。そんことで文句つけられちゃたまんねぇよ」
「いや、せやから、神さんの前で昼寝しとぉもんなら罰がくだされますわ」
澄んだ黄玉の双眸が粗い造作の顔を覗く。深い窪みの底にある瞳は影に溶けこんでいるようだった。
「ああ、そうだろうよ。昔から罪を積んできて、俺は祟られちまったんだ」
「それは……」咲楽の言葉を幸矢は首を振って遮った。
「いざ、そうなっちまえば楽なもんだ。昼寝をぶっこいても平気だわ」
穏やかに眠ることが許されるなら。心に隠して、幸矢はそう続けた。
「そこまでホラぬかしよるなら、神さんも手ぇだしにくいとちゃいますのん?」
幸矢の内心など知りようもない咲楽は苦笑する。
『たしかに手はだしてこねぇが』幸矢は自嘲しながら思った。
「ま、ウチはそれなりの礼儀をもって遇しますよ。祟り神は失礼な輩を祟るもんですやろ?」
幸矢は口角を歪めながら黙っている。咲楽の指摘するとおりなのだろうが、なにをもって失礼と判断するのか、ひどく恣意的なのではないかと思った。
「こないに素敵な空間、直に見てもうたら、二度と触れへんの、もったいのうてかないませんわ」
幸矢としても同意したかった。なんとも麗しい眺めだと思う。この端正な美少女は森の主たるエルフとしての雰囲気を装っている。背景は関東の雑木林であるが、そのように想像を逞しくさせたくなる。
「そんなに気にいっちまったか?」
「ええ。こん不思議な空気が心地よさそですやん」
幸矢は溜息をついた。まったくもって、危なかっしい娘だと思う。ほうっておいたら、ずっとここに入浸ってしまうのではないか、と思えてくる。いや、ひきこもってしまうのではないか、とも思えてくる。
わずかな間、幸矢の顔に粘ついたような暗いものが浮かんだ。
『まったく危ねぇ。こんな美しい娘がこれじゃ危ねぇ。な、咲楽さん、忘れんなよ。ここは森の奥だ。人の目が届かねぇ深奥だ。気楽に侵すと危うい領域なんだ』
たとえ醜女であろうともそうなのだ、と反論の声を思いつくが、咲楽の均整された美が幸矢の情動を強く刺激したのはたしかなことであった。
そうして、幸矢の心にある妄想が浮かんできた。そのために幸矢はおおきく音を立てて息を吐いた。
忌々しいことだが、この美少女にはぜひ受けいれてほしい妄想であった。
「咲楽さんにゃ、ひとつ忠告をしとかなきゃなんねぇな」
ぐるりを囲う緑の壁を探る。ついで咲楽の目を凝視して密やかな声でいう。
「あんま、この杜にゃ出入りすんな。消えちまうぞ」




