第9話 祖母の工房は、誰のものか
第二十二日。アデライドは王都から馬車で半日ほど離れた郊外にある、『ヴェルナー織布工房』を訪れていた。
機織りの音が響く工房の奥、静かな事務室で、アデライドは会計責任者のマルタ・ドニエと向かい合っていた。マルタの手には、先日アデライドの借家に届いたのと同じ、オスカーの代理人からの支払停止要求書が握られている。
「旦那様――いえ、ライネル伯爵の代理人は、工房の収益は婚姻期間中に形成されたものであり、夫婦の共同財産に該当すると主張しています」
マルタは分厚い眼鏡の奥の目を眇め、不快そうに書類を弾いた。
「奥様がご自身のお金を引き揚げたことに腹を立て、こちらの資金源を絶って干上がらせようという魂胆でしょう。ご自分の社交費が減ったからといって、浅はかな真似を」
この主張が通れば、少なくとも収益の扱いを争っている間、彼女の支出を抑えられると見込んだのだろう。だが、アデライドは微かに冷たい笑みを浮かべた。
「ええ。ですが、この工房は祖母から私個人が受け継いだものです。婚姻前に、公証人役場で私の単独名義とする『別財登録』を済ませてあります」
アデライドが持参した革の鞄から、重々しい封印の施された公証原本の写しを取り出すと、マルタは安堵の息を吐いた。
「登録時の記録と、収益の扱いも確認しましょう。こちらの帳簿と突き合わせます」
「旦那の不当な要求に応じる気は毛頭ありませんが、念のためだ。裁判所に提出する資料に、一銀貨の隙もないようにしておく必要がある」
そう言って事務室に入ってきたのは、工房長のイーヴォだった。彼は筋骨隆々とした腕を組み、アデライドを真っ直ぐに見据えた。
「アデライド様。この工房が弾き出す月純益七百二十銀貨は、職人たちの賃金、糸や染料の材料費、そして織機の修繕費といった必要経費をすべて控除した後の金額です。ただし、今後も同額が出る保証はありません。伯爵への支払いにも寄付にも、純益を渡す前の運転資金は回せません」
イーヴォの言葉は、雇用主に対するものとしては厳しいが、職人と工房を守るという強固な意志の表れだった。アデライドはその厳格な態度を頼もしく思った。
「わかっています、イーヴォ。工房の資金には一切手をつけさせません。寄付に使っているのは、すでに私の自己口座に入っている別財預金だけです。……マルタ、過去数年分の会計記録と、私の個人口座への振込原簿、それに納税記録を出してください。再検算して、反論の証拠を揃えます」
アデライドは実務服の袖を捲り上げた。
騎士団での寄託事業は、すでに彼女が承認した予算枠内で動いている。現場での安全確認や手続きはエマやルカが担っており、アデライドが毎日立ち会わずとも回る仕組みができている。だからこそ、彼女は今、自分の財産と職人たちの生活を守るための書類仕事に専念できた。
数日かけて完璧に整えられた公証別財登録の写しと会計記録は、アデライドの代理人弁護士を通じて直ちに裁判所へ提出された。
代理人からは、工房だけでなくその収益も別財とする登録が有効だと返事があった。夫側は婚姻中の収益だけでも共同財産と扱えないか争う構えだったが、支払停止の要求書だけで口座が止まることはない。
工房への支払停止要求は法的な効力を持たず、職人たちの今月の給金も、次期の材料の仕入れ資金も、一銀貨たりとも脅かされることはなかった。
経済的に追い詰めて屈服させようというオスカーの企みは、アデライドの用意周到な書類の力によって、あっけなく粉砕されたのである。
工房での慌ただしい作業を終え、王都の借家に戻ったアデライドのもとに、北衛騎士団から定期の業務報告書が届いていた。
団長レイモンの名義で送られてきた書面には、完成した回廊のその後の保守点検状況や、まもなく納入される衛生釜の試運転予定などが事務的に記されている。
アデライドは書面に目を通し、深く息を吐いた。資金が現場で正しく使われている報告を読むと、法的な戦いで疲弊した心が少しだけ救われる気がした。
書類の束を読み終えようとした時、最後の一枚として、小さなメモ用紙が添えられているのに気づいた。
『通路幅の再測定値。排水勾配に異常なし』
そこに記されていたのは、飾り気のない短い実測値だけだった。だが、その筆圧の強い、不器用なほどに真っ直ぐな手書きの文字は、ダリオのものだった。
それは個人的な私信ではない。あくまで、寄託事業に関する業務上の連絡事項の一部に過ぎない。離縁の係争中である今、彼の方から私的な接触や不用意な言葉を送ってくることはない。彼の職務上の節度は、アデライドの名誉を守るためのものでもある。
アデライドはそのメモを特別なものとして胸に抱いたり、返事を書いたりすることはなかった。ただ、他の書類と共に仕事用の鞄に丁寧に仕舞った。
それでも、現場の彼がいつも通りに車輪の幅を測り、雨の日の床を守ってくれているという事実をその筆跡から感じ取った時、彼女の胸の奥で、張り詰めていた緊張がふっと和らいだ。自分は一人で戦っているのではないという、ささやかで確かな安心感がそこにあった。
その静かな余韻を打ち破るように、扉が叩かれた。
使いの者が届けたのは、裁判所からの公的な通知だった。
第二十八日に行われる、離縁に向けた第一回調停の期日を知らせる呼出状。
いよいよ、あの夫と直接対峙し、法的な決別を突きつける日が迫っていた。アデライドはダリオのメモが入った鞄を傍らに置き、冷たい手でその呼出状を握りしめた。




