第8話 恵みの券に、名前はいりません
第十六日。北衛騎士団の療養隊員の家族に対する生活支援、『家族券』の支給が始まる日だった。
この事業では、毎会期六十銀貨の枠内で、市の家族相談員が必要度に応じて支援対象者を選定する。エマは療養中であるという事実だけを同意に基づき確認し、誰に券を出すかの選考には関わらない。そしてルカが匿名番号の発行と、商店への精算照合を担うという厳密な分業体制が敷かれていた。
支給を前に、施療区の会議室でルカが取り出した試刷りの券を見て、アデライドは眉をひそめた。
「一昨日お話しした、紋章なしの券への変更は?」
「こちらは商店に先に渡してあった旧案です。差し替える前に、精算への不安に答えてほしいと返されまして」
「……これは、何ですか」
アデライドが指差した券のど真ん中には、装飾過多な『ライネル伯爵夫人』という文字と、伯爵家の紋章が黒々と、ひどく目立つように印刷されていたのだ。
ルカが書類をめくりながら答える。
「提携する商店からの要望です。彼らも商売ですから、支払い遅延を恐れています。この券の裏付けが確かな貴族の寄付によるものだと一目でわかるようにしてほしいと」
「だからといって、これではまるで恵みの見せびらかしです。券を店で出すたびに、怪我人の家族だと吹聴して歩くようなものではありませんか」
アデライドは紋章の入った券を机に置き直した。
「私の名前を残す必要はありません。この案は使わずに済む方法を考えましょう」
「しかし」と、ルカが事務的な顔を少ししかめた。
「すでに印刷した分の費用が無駄になります。それに、作り直したところで、どこの誰の金か分からない無地の券では、商人たちが受け取りを渋るかもしれません」
「再印刷の費用は、記録費の枠で収まるか確認していただけますか」
アデライドは迷いなく答えた。
「商人たちには、私の名前ではなく、市の会計で信用を担保してください。ルカ書記の管理する匿名番号を用い、市が責任を持って半会期……十五日ごとに商店と精算を行う方式に変更してください。そうすれば、遅延の不安は解消されるはずです」
さらにアデライドは言葉を継ぐ。
「それから、券を利用する方に礼を求めない条件も、提携の際に確かめていただきたいのです。お店を選ぶのは市ですが、安心して使える券にしたいので」
厳しい口調で言い切ったアデライドの横で、それまで黙って書類を見ていたダリオが、静かに顔を上げた。
彼は紋章のある券を見てから、アデライドへ短く頷いた。
「……ルカ書記。現場からも、夫人の提案を支持します。患者の家族を萎縮させるような券は、支援になりません」
ダリオの援護射撃もあり、ルカは小さく息を吐いて頷いた。
「相談員と提携担当にも確認を取ります。精算日は毎半会期、受領から十五日以内。記録費の枠にも収まりますから、市の認証印と番号だけの券を手配しましょう」
その日の午後、市の認証印と匿名番号だけを記した簡素な家族券で、初回の支給が始まった。
夕刻、提携商店に精算手順を届けたルカとダリオに同行していたアデライドは、市中の仕立屋からほど近い通りに立っていた。視線の先には、仕立屋での手伝い仕事を終え、提携商店へと入っていくリナの姿がある。
リナは店主に向かって、市の認証印のある簡素な券を差し出した。店主は券をジロジロと見たり、伯爵夫人への感謝を口にするよう促したりはしなかった。ただ慣れた手つきで券を受け取り、帳面に何かを書き込むと、夕食の材料となるパンと野菜を彼女に手渡した。
そこにあるのは、「施しを受ける可哀想な人」と「恵みを与える側」という非対称な関係ではなく、市が精算を保証する「普通の客」と「普通の店主」のやり取りだった。
店を出てきたリナの顔には、誰かにへりくだるような卑屈さはなく、ただ家族の夕食を手に入れた安堵の表情だけが浮かんでいた。お金のために感謝を強制されることを嫌っていた彼女の自然な歩みを見て、アデライドはほっと胸を撫で下ろした。
「……良い判断でした」
商店前の軒下で、ルカの用事が終わるのを共に待っていたダリオが短く呟いた。
彼はアデライドの顔を見ず、ただリナの背中を見送っている。だが、その低い声には確かな称賛が込められていた。
自分の決断が現場を守れたのだと認められ、アデライドは「ええ」と短く返しつつ、微かに照れたような表情を見せた。二人の間にあるのは、貴族と騎士という身分の差ではなく、同じ目的のために仕事の価値観を共有する者同士の、静かな信頼だった。
家族の日常が一つ守られた。そう安堵して借家へ戻ったアデライドを待っていたのは、机の上に置かれた一通の重々しい封書だった。
差出人は、夫オスカーの代理人を務める弁護士だ。
嫌な予感を覚えながら封を切ると、そこには法的な用語が連なる冷たい文面が記されていた。
『貴殿が所有を主張するヴェルナー織布工房について。当該工房の収益は婚姻期間中に形成されたものであり、夫婦の共同財産に該当すると主張する。よって、工房から貴殿の個人口座への支払いの即時停止を求める』
アデライドは手紙を強く握りしめた。
臨時協賛の九十銀貨を断られ、定額の二百十銀貨の停止通知を受け取ったオスカーは、妻が本当に資金を引き揚げたことに焦りを感じているのだろう。そして、力ずくで彼女の財源そのものを差し押さえようと動いてきたのだ。
だが、あの工房は決して共有財産などではない。
傷ついた騎士や家族を支える寄託の基盤を守るため、アデライドは再び、冷徹な法と証拠の戦いへと引き戻されていくのだった。




