第7話 愛人と、市庁舎で会いました
第十四日。アデライドは市庁舎の一室で、施療区の医務長エマ、そして市の寄託監督書記ルカと向かい合っていた。
「療養中であることは、本人の同意を得て確認します。ただ、診療名簿そのものを会計台帳へ写す必要はありません」
エマの語気は強かった。患者の情報を守る医療の専門家として、当然の反発だった。
ルカは規則通りに帳簿を広げ、真面目な顔で返す。
「しかし、寄託された資金が誰にいくら使われたのか、公的な記録として照合できなければ監査が成立しません」
アデライドは両者の言い分を聞き、一つの妥協案を提示した。
「実名台帳と、公開用の台帳を完全に分離してはいかがでしょう」
アデライドの言葉に、二人の視線が集まった。
「ご本人の同意で医務長が療養の事実を確認し、市の家族相談員が支給を決める。その原簿はそれぞれの担当で保管して、ルカ書記は匿名番号と金額で会計を照合できませんか。詳しい監査が必要な時だけ、原簿の管理者の立ち会いで確認するのです」
エマが少し考え込み、やがて頷いた。
「……それならば、医療記録の独立性は保てます」
ルカも手元の書類にその手順を書き込みながら、短く答えた。
「金額と番号の突合が可能であれば、市としての監査要件は満たせます。その手順で進めましょう」
硬い規則を重んじるルカも、実名保護の意義を理解し、この短い取り決めを受け入れた。
無事に監査の手順が決まり、アデライドがエマと共に市庁舎のロビーへと降りてきた時のことだった。
貸室の申請窓口の方から、聞き覚えのある甲高い声が響いてきた。
「ですから、もっと華やかな装飾をお願いしたいのです。伯爵家の歓迎会にふさわしいように」
そこに立っていたのは、没落しかけた子爵家の次女であり、夫オスカーの愛人であるミレイユ・サントだった。
彼女は、オスカーが予定していた豪華な歓迎会が、臨時協賛九十銀貨を出せなかったことで資金繰りに行き詰まり、ここ市庁舎の小広間へと会場を縮小された事実を受け入れられずにいるようだった。
ミレイユが振り向き、アデライドの姿を認めると、その顔に勝ち誇ったような、それでいて苛立ったような色が浮かんだ。彼女は躊躇うことなくアデライドへと歩み寄る。
「伯爵夫人ともあろう方が、歓迎会の費用を出し渋るなんてみっともない真似はおやめなさいな。オスカー様は『後援は確保した』と仰っていましたわ。妻ならば、不足分はあなたが払うべきです。伯爵家から出るお金でしょう? 奥様が会計を止めたと伺いましたわ。私にも、もう招待を知らせた方がいるのです」
ミレイユの指が、貸室の申請書を握りしめていた。家計を預かる妻が、夫の決めた会を妨げていると聞かされているらしい。
アデライドが呆れて息を吐きかけた時、横から静かな足音が近づいてきた。
先日完成した回廊の検収記録を市へ届けに来ていたダリオだった。彼は紺色の実務外套姿のまま、騒ぎの真ん中へと歩み出てきた。
ミレイユはダリオの姿を上から下まで見回すと、鼻で笑った。
「ああ、騎士団へ後援をなさるというお話は聞きましたわ。こちらの方が、そのお金を決めていらっしゃるの?」
ミレイユの棘のある言葉に、アデライドは眉をひそめた。だが、ダリオは挑発に乗ることもなく、表情一つ変えずに口を開いた。
「基金の採否や支援の決定は、私ではなく、市と騎士団の独立した規程で決まります。私個人には、一銀貨の決裁権もありません」
彼はアデライドを庇って熱弁を振るうようなことはしなかった。ただ、尋ねられた事実だけを淡々と説明し、一歩引いた。それは、アデライドの言葉を奪わず、彼女自身が対峙するための余白を残す、彼なりの節度ある擁護だった。
自分の言葉を信じ、出番を譲ってくれた年下騎士の態度に背中を押され、アデライドはミレイユを真っ直ぐに見据えた。
手元にある家族券の匿名資料を絶対に見せないよう鞄にしっかりとしまいながら、冷徹な声で告げる。
「あれは伯爵家の支出ではなく、私個人の財産から払う、私名義の契約です。臨時協賛は締結していません。そして、暁星会への定額後援も、今期で終了します」
「……え?」
ミレイユの顔から、一瞬で余裕が消え去った。
アデライドはそれ以上、言葉を重ねなかった。誰が本当の契約者であり、臨時協賛が成立せず、定額後援も今期で終わるという事実のみを告げたのだ。私的な喧嘩で市の窓口を騒がせるのは、彼女の望むところではない。
「失礼いたします」
アデライドは短く告げると、呆然と立ち尽くすミレイユを残し、ダリオとエマと共にその場を毅然と立ち去った。
市庁舎を出て、冷たい風が頬を撫でた時、同行していたエマが先ほどの騒ぎなど全く気にしていない様子で、実務的な懸念を口にした。
「台帳を匿名番号に分離できたのは良いことです。ですが、実際に患者に渡す『家族券』の印に、あなたの名前や寄付者の紋章が大きく出てしまえば、意味がありませんよ」
アデライドはハッとしてエマを見た。
「店で券を使う時に、受け取る側が目立ってしまえば、周囲からの詮索は避けられませんからね」
匿名で守るべき尊厳は、書類の上だけでなく、商店での支払いや、日々の生活の場でも守られなければならない。
愛人への決別という私的な決着がついた今、アデライドの思考はすでに、支援を必要とする家族たちの生活をどう守るかという、次なる課題へと向かっていた。




