第6話 お金があっても、湯は沸かない
第十二日。アデライドは、リナがこぼした言葉の真意を確かめるため、施療区の裏手にある洗浄場へ足を運んでいた。
そこは、石造りの冷たい壁に囲まれた、熱気と湿気が立ち込める空間だった。使用済みの包帯や医療器具を煮沸消毒するために、小さな鉄鍋が幾つも火にかけられている。職員たちは鍋の湯が減るたびに重い木桶を持ち、少し離れた水汲み場との間を足早に往復していた。
最初は単純に、大きな煮沸釜を一つ買って寄付すれば解決すると思っていた。大釜があれば一度に大量の消毒ができ、手間が省けるだろうと。
だが、現場の忙しない立ち回りを見つめているうちに、アデライドの脳裏に祖母の織布工房を預かる工房長、イーヴォの言葉が蘇った。
『新しい機械を入れる時は、作業工程と負荷を見ろ。機械が大きくなれば、それを動かす人間の動きも変わるんだ』
その通りだった。大釜を導入すれば、一度に沸かさなければならない水の量も跳ね上がる。今までのように小さな桶でちまちま運んでいては、大釜を満たすまでに何往復もせねばならず、水運びの労力が一時点に集中してしまう。
さらに、大量の水が沸騰するまでの長い待機時間が発生し、火を維持するための薪の消費量も増える。結果として、水運びと燃料の管理に追われ、職員の残業時間がかえって増えてしまう可能性があった。
お金を出して釜という「物」を買うだけでは、お湯は沸かない。それを安全に、かつ継続して動かすための人手と仕組みが必要なのだ。
アデライドは予算の上限――釜の購入と設置に二百六十銀貨、初期燃料と補助器具に四十銀貨の、計三百銀貨――という枠を頭の中で再確認した。この予算内で職員の過重を減らすには、現状の動線と作業量を正確に把握しなければならない。
彼女は本日予定していた私的な所用を取り消す手配を済ませると、実務服の袖を捲り上げた。そして、空になっていた木製の水桶を自ら手に取った。
「ライネル夫人、何をなさっているのですか」
驚いたようなエマの声に、アデライドは振り返った。
「動線と作業量を測定します。大釜をどこに置けば水運びの距離が最短になるか、水はけの勾配はどうなっているか。実際に運んでみなければわかりませんから」
エマは水桶を指差した。
「では、清潔な水だけを、半分の量でお願いします。使用済みの器具には触れないでください。運ぶ順路はこちらです」
アデライドは頷き、示された位置へ移った。
そこへ、通路の向こうからダリオが歩いてきた。彼はこれから第二隊の隊内会合へ向かうところだったらしく、片手には書類の束を持っている。
だが、水桶を持つアデライドと、忙しなく動く洗浄場の様子を見た彼は、ピタリと足を止めた。そして、通りかかった若い連絡員の肩を掴んだ。
「隊長に、施療区の測定が延びるので会合を欠席してよいか聞いてくれ。報告はこの書面で提出する」
許可の返事が届くのを待ってから、ダリオは書類を連絡員に預け、洗浄場へと入ってきた。彼は何も言わずに一番大きな水桶を手に取ると、水汲み場へ向かって歩き出した。
アデライドは水桶を抱えながら、彼のその行動に小さく目を見張った。
彼には隊の副隊長としての公務があるはずだ。彼は現場連絡も担当しているが、水運びの測定まで自分で引き受ける必要はなかったはずだ。なぜ会合を取り消してまで、この水運びに同席したのだろうか。
アデライドは彼の背中を見つめながらその理由を考えたが、勝手な推量はすまいと頭を振った。今はただ、目の前の測定に集中すべき時だ。
ダリオの正確で無駄のない動きと、エマの厳しい監督が加わり、測定は効率的に進んだ。
現在の水運びの往復回数、煮沸にかかる待機時間。そして、大釜を新たに設置する場合、どこに置けば水汲み場からの距離が減り、使用済みの湯を安全に排水できるか。
アデライドとダリオは、介助人たちの間に混ざり、黙々と水桶を運んだ。言葉を交わす余裕すらなく、ただ足元の石畳と桶の重さだけを感じながらの往復。しかし、その過酷な実体験を通して、アデライドは現場が本当に求めているものが何なのかを肌で理解していった。
やがて、必要なデータの測定がすべて終わり、エマが記録板を置いた。
「……給水の往復は減らせそうです。水汲み場寄りに釜を置き、清掃できる給水樋を設ける案で、納入業者に確認します。熱い器具を扱った時にも動線が交わらないかは、納入試験で確かめましょう」
単なる「釜の購入」という買い物計画が、現場の負荷を減らす生きた運用計画へと前進した瞬間だった。
ほっと息をついたアデライドは、ふと隣に立つダリオを見た。彼の紺色の実務外套の袖口が、水桶から跳ねた水で重く濡れている。
アデライドは懐から清潔な乾いた布を取り出した。
「拭いてください」
彼女は短くそう言って、布を彼に差し出した。大げさに感謝を伝えたり、貴族としての特別扱いを見せたりはしない。ただ、共に現場の労務を担った者に対する、当然の気遣いとして。
ダリオは少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに「……どうも」と低い声で応じ、その布を受け取った。
布越しに伝わる微かな体温。そこには、金銭の授受では決して生まれない、実務を通した静かな信頼関係があった。
釜の設置に向けた見通しが立ち、安堵の空気が漂ったのも束の間だった。
施療区の入り口に、分厚い帳簿を抱えた人物が姿を現した。市の寄託監督書記であるルカ・ノルトだ。
ルカは几帳面な足取りでアデライドとエマに近づくと、事務的な、感情の読めない声で告げた。
「お疲れ様です。本日は、寄託金による今後の支援計画――療養隊員のご家族に対する『家族券』の支給について、監査の手続きに参りました」
ルカは抱えていた帳簿を開き、羽ペンを取り出した。
「市の規定に基づき、対象となる家庭を確定させる必要があります。エマ医務長、該当する患者の実名が記載された名簿を、今すぐこちらへ提出してください」
その言葉に、場の空気が一瞬にして凍りついた。
必要な資格確認と、会計担当が診療名簿まで保管することは、同じではない。名簿の写しが増えれば、誰がどこまで見られるのかも曖昧になる。
アデライドは息を呑んだ。お金を正しく使うためには、監査が必要だ。だが、そのために守るべき彼らの生活を晒してしまえば、支援の意味が根底から崩れてしまう。
次なる「秘密」という名の重い壁が、アデライドの前に立ちはだかっていた。




