第5話 雨の日、三人で食堂へ
第九日。雨上がりの朝の空気は冷たく、施療区の中庭にはまだ細かい水滴が残っていた。
急遽八十銀貨を追加して掘り直された新しい排水側溝の横で、二度目の雨天使用前試験が行われている。
ダリオが重りを積んだ車輪付き搬送台を押し、問題のあった曲がり角へと差し掛かる。今度は車輪が泥濘に取られることもなく、滑らかに木の床の上を通過した。さらに彼は、歩行補助具を突いた状態を想定し、体重をかけて床の滑りやすさを確かめる。
「水路への排水は機能しています。床面の摩擦も問題ありません」
ダリオの報告を受け、手元の記録板を見つめていたエマが、厳しく周囲の濡れた箇所を点検する。
「……ええ。規定の安全水準を満たしていますね」
アデライドも少し離れた場所からその様子を見守っていた。間もなく、本日の面会に訪れた療養隊員の家族たち――先日の見学の帰りに挨拶を交わしたリナと、七歳になる娘のオルタ――が施療区の入り口に到着したと連絡が入った。
だが、エマはすぐには通そうとしなかった。
「申し訳ありませんが、残りの箇所の滑り止め試験が完全に終わるまで、ご家族の通行は許可できません」
患者の安全を預かる医務長として、面会時間だからといって使用前試験を中途半端に切り上げることは絶対にしないという意志だった。
「構いません。安全が確認されるまで待ちましょう」
アデライドは迷いなく同意した。彼女はあらかじめ予定していた完工の挨拶や、寄付者としての無用な式典をすべて中止するよう手配していた。見栄のための儀式など、この現場には必要ないのだ。
試験の完了を待つ間、アデライドのもとに使いの者が一通の私信を届けてきた。借家に届いたものを、留守を頼んでいた家事手伝いが使いに託してくれたのだった。
封を開けると、中に入っていたのは社交クラブ暁星会の書記から送られた『後援終了確認書』だった。宛名には、契約者であるアデライド本人の名が記されている。
文面には、第一日に彼女が提出した通知に基づき、今会期末をもって定額後援二百十銀貨の引き落としが正式に終了することが事務的に記されていた。そして、書類の末尾にはこう添えられている。
『会員オスカー・ライネル様へ、同内容の写しを送付済み』
さらに、その言葉を証明するように、別紙にはオスカー宛ての写しを届けた際の配達受領欄があり、そこには夫本人の受領署名がはっきりと残されていた。
アデライドは、冷たい風の中でその受領印を指先でなぞった。
第一日、夫は彼女が突きつけた終了通知の重みを理解せず、ただの当てつけだと高を括っていた。だが、この受領印がある以上、次会期からの資金停止は紛れもない現実として夫の元へ到達したのだ。もはや、夫の虚栄心を満たすために彼女の別財が使われることはない。
夫がどのような顔でその通知の写しを見たのか、アデライドは推量しなかった。ただ、自分の支払いが正当に終わりを迎えたという事実だけが、確かな実益として彼女の胸をすっきりとさせた。
「試験完了。回廊の通行を許可します」
エマの張りのある声が響き、回廊の両端に置かれていた木札が外された。
入り口で待たされていた家族たちが、案内されて中庭へと入ってくる。夫のベルンが歩行補助具を使い、リナに手を引かれたオルタと共に、真新しい木の回廊をゆっくりと歩き始めた。
アデライドの寄付によって、ベルンの負傷した脚が魔法のように治ったわけではない。歩くたびに顔をしかめる様子から、痛みや不自由さは依然として残っていることがわかる。
しかし、車輪が沈む泥濘や、滑りやすい危険な水溜まりはもうそこにはない。彼らは転ぶ心配をすることなく安全な床を進み、施療区の食堂へと向かっていった。病をたちどころに治すことはできなくても、雨の日に家族揃って一つの食卓につくことはできたのだ。
アデライドは、彼らの前に出て感謝の言葉を求めるような野暮な真似はしなかった。少し離れた物陰に立ち、ただ静かにその光景を見守る。
ふと視線を落とすと、自分の手の甲に、わずかに木のささくれや木くずが付着しているのに気づいた。今朝、検査前の空の搬送台を、職員と一緒に所定の位置へ動かした時についたのだろう。
隣を見ると、同じように物陰から家族の背中を見送っていたダリオの手にも、同じ木くずがついていた。
ダリオがアデライドの視線に気づき、自分の手と彼女の手を交互に見る。
大理石の記念碑にも名誉ある称号にもならなかった、泥臭い失敗と修正の痕跡。二人は誰に見せるでもなく、そのちっぽけな木くずを見つめ合い、小さく笑い合った。称賛を求めない、仕事の成果としての密やかな共有だった。
面会時間が終わりに近づき、アデライドが施療区を後にしようとした時のことだ。
洗浄場へと続く裏手の通路で、アデライドはベルンの妻、リナの姿を見かけた。彼女はベルンの着替えを入れた籠を抱え、忙しそうな職員に声をかけるのをためらっていた。その足元には、職員が置いた空の水桶がある。
リナは、通りかかった施療区の職員に向かって、少し困ったような、申し訳なさそうな声でこぼした。
「すみません、夫の着替えはどこへ置けば……。包帯を替える日は、水を運ぶ人まで手いっぱいなのですね」
その言葉が、アデライドの耳に真っ直ぐに届いた。
アデライドは足を止め、水汲み場へ急ぐ職員と、空の水桶を静かに見つめた。
寄付によって、雨を凌ぎ、安全に歩くための回廊という『屋根』は建った。しかし、そこで過ごす人々の日常の負荷がすべて消え去ったわけではない。衛生を保つためのお湯、それを沸かすための水、そしてそれを運ぶ人手。
帳簿の上の黒字が、必ずしも現場の人々の平気を意味するわけではないのだ。
お金を払うだけでは終わらない、物理的で現実的な次の不足。アデライドは空の水桶を見つめながら、次なる課題へと静かに思考を向けていた。




