第10話 夫婦の話し合いは、そこで終わった
第二十八日。王都の裁判所に設けられた殺風景な調停室で、アデライドは夫であるオスカーと長机を挟んで向き合っていた。
「君がまた社交費を払うというなら、今回の家出の騒ぎは水に流してやってもいい」
オスカーの口から出た第一声は、和解の提案とは程遠いものだった。ミレイユとの関係をどうするかには触れず、先に社交費の再開を条件にする。その順序が、アデライドには以前と何も変わっていないように思えた。
同席している二人の調停委員に対し、オスカーは大仰な身振りで主張した。
「妻は一時的な感情の乱れから家を飛び出し、貴族としての社交の義務を放棄しております。私は寛大にも彼女の帰還を許そうとしているのです」
アデライドは手元の鞄にそっと触れ、静かに反論を始めた。
「腹立ちだけで、家を出たのではありません。愛人関係の存在もさることながら、私の個人的な別財からの拠出を持続的に強要されたこと、そして何より、その見栄の代償を使用人たちに押し付けようとしたことが、婚姻継続の意思を完全に失わせたのです」
アデライドは鞄から一枚の紙を取り出し、調停委員へと提出した。
「これは、私が別居した日に夫が家令に命じて作成させ、自ら署名した指示書の控えです」
調停委員が紙を受け取り、その文面を読み上げる。
「『次会期以降の、使用人向け肉の仕入れを削減せよ』……伯爵。ご自身の任意団体への臨時協賛金や増額を妻に求める一方で、家内の相互扶助を損ない、使用人の食費という基本的な維持費を削るよう命じたのは事実ですか」
オスカーの顔が微かに引きつった。妻がこのような内部の書類を証拠として持ち出すとは、想定していなかったのだろう。
「それは……あくまで、家計の見直しとしての一時的な節約の提案であって、強制したわけでは……」
「しかし、ここに伯爵の明確な署名があります。このままでは、次会期から確実に彼らの食卓に影響が出ます」
調停委員に厳しく指摘され、オスカーは舌打ちを堪えるように口元を歪めた。彼は指示書を押し返しかけ、調停委員の顔を見て手を止めた。公的な記録にどう残るかを、気にしているようだった。
「……そこまで言うなら、あの指示は撤回する。今日、この後すぐに家令に取消の書面通知を出そう」
オスカーは吐き捨てるように明言した。
調停委員が強制的に家計を差配したわけではない。オスカー自身が、自らの言葉で撤回の意思決定を行ったのだ。
「承知いたしました。伯爵による削減指示の撤回を、調停記録に記載いたします」
書記の羽ペンが動き、公的な記録としてそれが残された。
オスカーはその場で取消通知にも署名し、代理人に家令への送付を命じた。約束は記録になった。屋敷で実行されるかまでは、今のアデライドには確かめられない。それでも、指示を撤回させることはできた。
「さあ、これで君の不満は消えただろう」
オスカーがふんぞり返り、鷹揚に頷いてみせた。
「家に戻り、次会期からの社交費の支払いを再開しなさい。そうすれば、すべて元通りだ」
彼にとっては、使用人の食費を元に戻すという譲歩を見せたのだから、妻もそれに応えて金を出すのが当然の取引なのだ。
だが、アデライドは真っ直ぐに夫の目を見据え、はっきりと首を横に振った。
「婚姻中に共費で購入した家具などの共有財産の分配には、公正に応じます。ですが、暁星会への任意後援の再開も、貴方との婚姻の継続も、断固として拒否いたします」
「なんだと……っ! ここまで私が譲歩してやっているというのに!」
「夫婦の相互扶助は、もう破綻しているのです」
アデライドの明確な拒絶により、調停委員は静かに「調停不成立」を宣言した。
これにより、話し合いの段階は終わり、次なる段階――証拠に基づく公開の場での審理へと進むことが確定した。長期戦になることは覚悟の上だった。アデライドに迷いはなかった。
重苦しい調停を終え、裁判所の外へ出たアデライドは、冷たい初夏の風に少しだけ目を閉じた。
借家に戻ると、留守の間に届けられた北衛騎士団からの定期報告が机に置かれていた。
釜の納入予定と、施設の点検日程。末尾には、連絡担当のダリオの名で「現場は予定通り動いています」と短く添えられている。
彼女が裁判所で夫と向き合っている間にも、現場は動いていた。励ましの言葉ではなかったが、その報告に、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
アデライドは受領の返書に「予定通りと伺い、安心しました」と書き、他の業務書類と一緒に封をした。
明後日、第三十日をもって、アデライドが負担してきた暁星会の最後の会期が満了する。第三十一日からは、クラブへの定額入金は完全にゼロとなる。
夫の懐に、いよいよ本物の不足が顕在化しようとしていた。




