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「愛人は貴族の嗜み」と言う夫へ。歓迎会費は払いません――離縁を決めた私と、見栄の寄付を断る年下騎士  作者: 他力本願寺


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第11話 釜を買っただけでは、終わらない

第三十二日。昨日から社交クラブ『暁星会』の新たな会期である第三十一日目が始まっていた。


 アデライドの自己口座から毎会期支払われていた二百十銀貨の入金は、第一日の終了通知通り、完全にゼロとなった。風の噂では、妻の預金を当てにしていた夫オスカーが差額を自費で補うことができず、さらなる会合費の規模縮小を余儀なくされているという。だが、アデライドにとって、もはやそれは遠い世界の話だった。彼女が目を向けるべきは、見栄の社交ではなく、目の前の現実的な不足である。


 その日、アデライドは施療区の裏手にある洗浄場に立っていた。


 本日は、予算二百六十銀貨を投じて手配された、新しい煮沸釜の納入と試運転の日だった。釜の代金とは別に、第百二十五日までを見越した初期燃料三十六銀貨と、水汲み用の補助器具四銀貨も確保してある。これらはすべて、寄託の承認枠内で確実に管理されていた。


 真新しい大釜が、先日の測定を基に水汲み場寄りに据えられ、下から轟々と薪の火が焚かれる。やがて大量の湯が沸き、白く濃い湯気が立ち昇り始めた。


「まず器具の試験からだ。決めた量を超えないように!」


 現場の職員の掛け声とともに、使用済みの医療器具が次々と釜に投入されていく。


 だが、試運転が始まって間もなく、現場の空気が慌ただしくなり始めた。


 給水樋で水を運ぶ回数は減った。だが、実際に使う量の器具を処理すると、空の桶だけで測った時には見えなかった混雑が生じた。さらに、煮沸し終わった大量の器具を引き上げても、それを乾かすための十分な空間と人手が足りず、洗浄場のあちこちで職員たちの作業が完全に詰まってしまった。


 熱気と湿気が充満する中、重い水桶を持った職員と、濡れた器具を抱えた職員がぶつかりそうになる。


 それを見ていたダリオが、険しい顔で前へ出た。


「ライネル夫人、そこでお待ちください。これでは危ない」


 乾燥棚を確かめようと通路へ足を踏み出したアデライドを、彼は腕を伸ばして制止した。


「釜の試運転に伴う運搬と、器具の乾燥工程について、安全な衛生基準が確認できるまで一時停止すべきです」


 それは施療区での就労全般を禁じるものではなく、あくまでこの釜の運用周辺における危険を回避するための、現場責任者としての的確な提案だった。


 腕組みをして作業を注視していた医務長のエマも、それに同意して頷いた。


「ええ。ですが、医療と衛生上、煮沸の確実な手順と時間を省略するわけにはいきません。必要な工程の停止は維持しつつ、水運びの動線と、乾燥・仕分けを行う職員の配置を分けて、安全な運用手順を検証し直すべきです」


 お金を出して大きな釜を買えば、すべてが解決するわけではない。アデライドは自分の見通しの甘さを素直に認めた。


 彼女はエマの手順に従い、ダリオと共に洗浄場内の運搬動線と役割の変更に取り掛かった。


 給水のための専用通路を確保し、他の作業員が立ち入らないようにする。煮沸を終えた器具は、乾燥専用の棚を新設した別の区画へと一方通行で流し、そこで仕分けを行う。


「この新しい手順に職員の皆様が慣れるまで、数日の時間を設けましょう」


 エマが手順と配置の再試験を決め、本格的な定常運用の開始は四日後の第三十六日に延期された。その間は従来の小鍋を使い、納入試験の費用は購入設置費の内に収める。予定は少し遅れたが、必須の衛生手順を削ることなく、職員の過重な負担と危険を確実に減らすための仕組みが整えられたのである。


 夕刻。本日の勤務時間を終え、人影のまばらになった施療区の裏手で、ダリオがアデライドを待っていた。


 彼はどこか居心地が悪そうに目を伏せ、紺色の実務外套の背筋を真っ直ぐに伸ばした。


「……先ほどは、強い口調で止めてしまい、失礼でした」


 年上の伯爵夫人であり寄付者でもあるアデライドに対し、現場で厳しく制止したことを、彼は彼なりに気にしていたのだ。公務の線を越えて過剰にへりくだることはないが、そこには彼の不器用で実直な誠実さがあった。


 アデライドは少しだけ目を丸くした後、ふっと口元を緩めて首を振った。


「止めてくださって助かりました。お礼を言う方です。私も、少し働いたくらいで動線を覚えたつもりになっていました」


 ダリオは微かに目を見張り、やがて短く息を吐いた。


「私も、声が大きすぎました。桶を持っていた職員まで驚かせてしまった」


「では、そちらには一言。私には、これからも危ない時は教えてください」


 二人は並んで立ち、夕暮れの冷たい空気の中で少しだけ笑い合った。ただ資金を出す側と現場の騎士というだけではない、同じ目的に向かって修正を重ねる者同士の、穏やかな信頼の瞬間だった。


 だが、その静かな空気を割るように、足を引きずりながら一人の男が近づいてきた。


 過日の雨の日に、家族と共に回廊を渡った療養隊員のベルンだった。


 彼の顔には余裕がなく、その手には、数日前から施療区の壁に貼り出されていた『復職準備班』の募集要項の紙が強く握りしめられている。


 ベルンはアデライドの前で立ち止まると、痛みを堪えるような、それでいてひどく切実な声で言った。


「……夫人に恩はあります。俺の家族に良くしていただいたことも。でも」


 ベルンは握りしめた紙を震わせた。


「この仕事を断ったら、療養の扱いや、家族への支援も変わるのですか。俺は、まだ希望を聞いてもらっていません」


 善意で用意したはずの仕事の場が、当事者にとっての圧力になり得る。その残酷な事実に直面し、アデライドの笑みは凍りついた。

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