第3話 騎士が欲しいのは、大理石ではない
第四日。アデライドは市庁舎での手続きを済ませた足で、北衛騎士団の団長室を訪れていた。
広い執務机を囲むように、四人の人物が集まっている。国庫からの予算と施設管理の最終責任を持つ騎士団長レイモン・ベルジュ。医療と安全の専門家である医務長エマ・アルト。市の寄託監督書記であり、会計監査を担うルカ・ノルト。そして、先日施療区で搬送台を押していた第二隊副隊長、ダリオ・クレストだ。
アデライドは案内された席に着くと、まずは礼儀として貴族の名刺を差し出した。レイモンは恭しくそれを受け取り、ルカも手元の書類に目を落としながら軽く会釈をした。
だが、ダリオは違った。彼は机に置かれた名刺の金字の装飾を一瞥しただけで、すぐに手元の寸法板へと視線を戻した。彼の関心は、目の前に座る女が伯爵夫人であることよりも、書き留められた車輪の幅や通路の実測値にあるようだった。
身分や肩書きで人を見ないその態度は、アデライドにとって決して不快なものではなかった。むしろ、資金の使い道を現場の物理的な寸法で測ろうとする彼の姿は、信用に足る実務家の証のように思えた。
「さて、ライネル夫人。この度は我が北衛騎士団へ多大なご支援を賜り、誠に感謝に堪えません」
レイモン団長が、机の端に置いた記念碑の見本図を示して口を開いた。
「そこで、後援のお名前を残す記念碑もご用意できます。これまでの寄付では、名を刻む場所がないとお断りになった方もおられまして。ご希望があれば、整備とは別にお見積もりを」
きらびやかな名誉を用意して寄付者を喜ばせる。それは、社交界でオスカーのような貴族が好んで用いる典型的な手法だった。
「団長。大理石は、雨漏りを防ぎません」
穏やかな空気を断ち切るように、ダリオの声が響いた。
彼は手元にあった図面を無造作に広げた。そこには、施療区の動線と地盤の勾配が細かな数字で書き込まれている。
「見栄のための寄付なら、現場としては断ります。騎士が欲しいのは、大理石ではない。雨の日に、患者を乗せた台を安全に運べる床です。装飾に回す金があるのなら、回廊の整備に充てるべきだ」
ダリオは、寄付者である年上の伯爵夫人に対して、一切の遠慮も媚びもなく正論を突きつけた。団長が慌てて彼を制止しようと口を開きかけたが、アデライドはそれより早く、静かに、しかしはっきりと応じた。
「副隊長の仰る通りです。大理石の記念碑は辞退いたします。私の資金は、必要な回廊の整備に充ててください」
ダリオが微かに目を見開いてアデライドを見た。彼女は真っ直ぐに青い目を見返し、言葉を続ける。
「私が払いたいのは、誰かの面子を立てるための金ではありません。実際に現場で車輪が滞りなく進むための費用です。それを確認しに来たのですから」
アデライドの言葉に、ダリオの強張っていた肩の力がわずかに抜けたように見えた。彼は何も言わなかったが、今度は彼女の言葉を聞いてから、図面へ視線を戻した。
方針が決まると、市書記ルカが事務的な手つきで書類を整えた。
「それでは、『北衛傷病者・家族支援寄託』として市に登録を行います。夫人の別財預金より、予約枠として上限一千八百銀貨を設定。これは全額を一度に振り込むものではなく、使途と検収を満たした段階で、必要分のみを送金いただく形となります」
「ええ、構いません」
アデライドは頷いた。一千八百銀貨という額は決して少なくないが、祖母の織布工房から得た正当な純益の一部である。夫の承諾も、共有財産の切り崩しも必要ない。
「初期配分として、回廊の工事に二百四十銀貨。不足の事態に備えた予備費として二百六十銀貨を設定します。釜や家族券、復職準備班などは、市で確認した配分表の通りです。支払いの前提として、工事の期限も相談したいと思います」
アデライドがエマの方を向いた。
「五日後に、療養隊員とご家族の面会日が控えていると伺いました。それに間に合わせるため、三日後を完工希望日とし、安全が確認されることを支払いの条件とします」
資金を拠出する側としてアデライドにできるのは、支援対象の事業を指定し、予算上限と支払い時期を定めることだけだ。彼女には、個別の業者を選んだり、工事の図面を承認したりする権限はない。
第七日という厳しい期限が設定されたことで、見積もりの説明に呼び入れられた工事業者が、机の上の図面を指差した。
「材料は揃っています。屋根を葺き直し、既存の床を張り替える工事ですから、三日で仕上げる見込みはあります。ただ、余裕のある日程ではありません」
その言葉を聞いたダリオが、図面の一角を鋭く指差した。
「待ってください。この角の先だけ、排水経路の実測欄が空いています。外から流れ込む雨水まで、既存の溝で受けられるのですか」
「既存の図では捌ける計算です。明日、外側も確認します。溝の清掃と勾配の調整で済む見込みですが、大きな増設が必要なら報告します」
業者の答えを聞いて、レイモン団長は図面を見直した。
「では、確認済みの屋根と床の作業を先に許可する。排水に変更が出れば、完成日の見直しも含めて相談してくれ」
アデライドは頷きながらも、面会日の札から目を離せなかった。
「できるだけ、九日には使えるようにお願いします」
無理なら延ばせると、自分からも言えばよかった。だが、その時には、業者の見込みにすがる気持ちの方が勝った。
アデライドの目の前で、三人の責任者による署名が進められていく。『工事許可:レイモン』『医療・安全:エマ』『会計:ルカ』。アデライドが記すのは、寄託の支払い条件と上限額に対する同意の署名だけである。
ペンを走らせながら、エマが冷ややかな声で釘を刺した。
「言っておきますが、安全検収のための雨天使用試験は絶対に省略しません。面会日に間に合わせるためだとしても、患者の安全を脅かす未検証の通路を通すわけにはいきませんからね」
「当然だ」
ダリオが図面の空白の実測欄を指で強く叩いた。そして、寄付者であるアデライドを真っ直ぐに見据え、厳しい声で言い放った。
「雨が流れ込んだら、当日止めます」
それは、金を出した彼女への媚びなど微塵もない、現場を預かる者としての容赦のない宣告だった。
アデライドは怯むことなく、彼の視線を受け止めて静かに頷いた。見栄の記念碑を立てるより、この実直で厳しい宣告こそが、彼女の求めていた真っ当な契約の形だった。




