第2話 そこは、通り道です
離縁の申し立てを受理させた翌朝、アデライドが仮の住まいとした市内の借家を出ようとした折、一人の使いが訪ねてきた。旧伯爵邸の家令からの、手紙を持たない口頭の伝言だった。
伝えられた内容は二つ。一つは、昨日アデライドが臨時協賛への署名を即座に拒絶したため、愛人の歓迎会の資金が足りず、会そのものが縮小される見通しになったということだった。どこでどのような規模の会が開かれるのかはまだ未確定の伝聞段階らしいが、少なくとも夫の目論見通りには進んでいない。
そしてもう一つは、アデライドが気にかけていた使用人の食事についてだった。
「今会期の末日までの間は、すでに納入契約が済んでおります。塩漬け肉などの備蓄もございますので、屋敷で働く者たちの献立が変わることはございません」
使いの者は周囲を気にするように小声で告げた。
「ただし、旦那様が署名された、次会期からの削減指示書は依然として有効のままです」
「……わかりました。知らせてくれてありがとう」
アデライドは使いの者に労いの言葉をかけ、見送った。
馬車に乗り込み、王都の北衛騎士団へ向かう道すがら、彼女は小さく息を吐いた。臨時協賛を断った効果が、思いのほか早く返ってきたのだ。一方で使用人の食卓を今守っているのは、すでに結ばれた納入契約だった。次会期まで安心できるわけではない。
だが、第三十一日からの削減指示書を撤回する権限は、妻であるアデライドにはない。金で人の生活を脅かし、自分の見栄を張ろうとするあのやり方を、有耶無耶に許すわけにはいかなかった。彼女は鞄の中にある指示書の控えを指先でなぞり、いずれ始まる調停の場で、婚姻継続を不可能にした証拠として必ず提出しようと固く決意した。
北衛騎士団の敷地は、貴族の社交場とは正反対の場所だった。
きらびやかな装飾は一切なく、頑強な石造りの建物が実務的に立ち並んでいる。アデライドが目指したのは、国庫の通常予算で運営されている前線の隊舎ではなく、掲示板にあった修繕先――療養隊員たちが過ごす『施療区』だった。
案内されて足を踏み入れた通路は、ひんやりと薄暗かった。アデライドは「雨の日の床が必要です」という言葉の真意を確かめようと、床の石畳に視線を落としていた。
だが、彼女にはまだ、貴族の来客としての振る舞いが無意識に残っていた。通路の端に寄るでもなく、動線の中央寄りで立ち止まってしまったのだ。
「そこは、通り道です」
不意に、冷たく無愛想な声が響いた。
顔を上げると、木製の搬送台がこちらへ向かってきているところだった。台の上には、脚に痛々しい包帯を巻いた隊員が乗っており、少しの振動でも顔をしかめている。
その台を押していたのは、暗い栗色の短髪に青い目をした、紺色の実務外套を着た青年騎士だった。彼はアデライドの身なりや、貴族特有の威圧感など全く気にする様子もなく、患者から目を離さず、彼女に道を空けるよう促した。
「……失礼いたしました」
アデライドはハッとして、慌てて壁際へと道を空けた。
青年は彼女に礼を言うこともなく、台を揺らさないよう極めて正確な手つきで車輪を止め、ゆっくりと再び押し出した。
「クレスト副隊長、その先は空けてあります」
奥の職員が声をかけた。アデライドはその名に顔を上げた。掲示に署名していたダリオ・クレストとは、この青年だったのか。
年上の貴族に対する物言いとしては率直すぎて失礼だったが、患者を運ぶその腕には、現場を知る実務家としての確かな技量があった。
「お見苦しいところをお見せしました、ライネル夫人」
搬送台が通路の奥へ消えた後、白衣を羽織った壮年の女性が現れた。施療区の責任者である医務長、エマ・アルトだった。
「本日は、寄託の件で現場を拝見したいと伺ったのですが」
アデライドが本題を切り出すと、エマの目元がスッと険しくなった。
「設備はご案内できます。ただ、患者さんへの面会や、怪我の事情を聞くことは、ご本人の了承なしにはお受けできません」
エマの言葉には、明確な拒絶が含まれていた。これまでにも、寄付と引き換えに患者からの大袈裟な感謝や、悲劇的な物語を求めてきた貴族が少なからずいたのだろう。彼女の態度は、支援者を名乗る部外者への強い警戒そのものだった。
以前のアデライドであれば、相手の機嫌を損ねないよう、詳細を聞かずにすぐにお金を手渡して解決しようとしたかもしれない。だが、それでは何が不足しているのか分からないままだ。
彼女はその即効策を自分の中で明確に撤回した。
「利用者の方のお名前や、怪我の事情を伺うつもりはございません。ただ、私の資金が本当に必要なものに変わるかを知りたいのです。ですから、通路の寸法と、車輪が通る際の安全検査の様子だけを、見学させていただけませんか」
ただ同情して金を出すのではなく、物理的な現場の課題を測りたいというアデライドの申し出に、エマはわずかに目を丸くした。やがて、彼女は小さく息を吐き、警戒を少しだけ緩めた。
「……現場の時間を奪わないという条件でしたら、構いません」
許可を得たアデライドは、決して動線を塞がないよう壁際に立ち、施療区の様子を観察した。
石畳には細かな段差があり、車輪が引っかかるたびに患者の体に負担がかかっているのが見て取れた。雨漏りの染みが広がる床は、濡れれば滑りやすくなるだろう。立派な大理石の記念碑などより、この日々の小さな障害を取り除くことにこそ、祖母から受け継いだ自分の別財を使うべきだ。アデライドはそう確信した。
ふと視線を向けると、先ほどの青年騎士ダリオが、少し離れた窓辺に立っていた。
彼はアデライドの方を気にするそぶりすら見せず、ただ険しい顔で窓の外の空模様を追っていた。灰色の雲が垂れ込め、窓ガラスには斜めに雨の筋が走り始めている。彼の頭の中にあるのは、雨に濡れたこの通路で、いかにして患者を安全に運ぶかということだけなのだろう。
帰り際、見送りに立ったエマが、アデライドの視線に気づいて静かに告げた。
「明後日、あの副隊長も事業の説明に同席します。彼は、寄付には厳しいですよ」
「ええ。承知しております」
雨の筋を追うダリオの厳しい横顔を脳裏に焼き付けながら、アデライドは、自分の資金が初めて真の意味を持つかもしれない明後日の面談へ向け、静かな覚悟を決めていた。




