第1話 愛人の請求書は、私宛てでした
「使用人の肉代を減らせ」と言った夫は、その同じ机に、社交費と愛人の歓迎会の請求書を二枚置いた。
一枚は、見慣れた定額後援の請求書だった。
『暁星会・第一会期後援 二百十銀貨/支払人 アデライド・ライネル』
もう一枚には金色の花輪が刷られ、見慣れない字が続く。
『ミレイユ様歓迎会・臨時特別協賛 九十銀貨/ご署名をもって成立』
「今期の二百十はそのままでいい。来期から三百にしてくれ。それから、この九十にも署名を」
オスカーは事も無げにそう言い放つと、傍らに控えていた家令を呼んだ。次の会期の下働きの肉の仕入れ予定に赤線を引かせ、削減の指示書を清書させて自ら堂々と署名した。今会期はすでに納入契約が済んでおり、塩漬け肉などの保存食の備蓄で賄えるため、今日の明日で彼らの食事が減るわけではない。だが、この命令が撤回されなければ、次の会期からは確実に屋敷で働く者たちの食卓に響く。家令は無言で頭を下げ、指示書の控えをアデライドの手元にも渡した。
机の向こうには、オスカーが二枚の請求書への署名をその場で持ち帰らせるために呼び寄せた、社交クラブ暁星会の書記が気まずそうに立っている。
「愛人の歓迎会に、ですか」
アデライドが静かに問うと、オスカーは微かに顎を上げた。
「愛人は貴族の嗜みだ。君も伯爵夫人なら、これくらいの後援は快く出すものだろう?」
以前にも、会合に伴う出費に異を唱えたことはあった。そのたびにオスカーは「家の体面に関わる」と言い、アデライドは客の前で揉めるのを避けて支払った。今日も同じように収まると思っているのだろう。差し出されたペンが、彼女の指を待っていた。
「では、こちらには署名いたしません」
アデライドは、金色の花輪が刷られた九十銀貨の紙を裏返した。
「定額の二百十銀貨は、今期の約束ですからお支払いします。ですが、次の会期には払いません。終了通知を、いま書記の方へ渡します」
彼女は袖口からあらかじめ用意してあった書面を取り出し、同席していた書記へまっすぐに差し出した。ミレイユとの関係を知ってから、二人だけで話す機会は何度も求めた。それでも支払いの話に戻る夫を見て、会計責任者のマルタと代理人に相談し、別居の準備を進めていた。今日こそ彼の返事を聞いてから決めようと思っていたが、差し出されたのは、また請求書だった。書記は戸惑ったようにオスカーを見たが、宛名がクラブの会計部門になっており、支払人本人の直筆署名がある以上、受け取らないわけにはいかない。
「受領の印を」
アデライドの淡々とした声に促され、書記は終了通知と彼女の控えに赤い受領印を押した。
夫の手が止まった。受領印を見つめた後、オスカーは書記に向き直った。
「予約はまだ取り消さなくていい。費用は私から返事をする」
それから妻へ、声を落とす。
「人前でここまでしなくてもいいだろう。話なら後で聞く」
これまで何度も聞いた言葉だった。後でと言われて待つ間に、支払期日だけが来る。
「もう、後では待ちません」
「馬鹿なことを言うな。一時的に機嫌を損ねるのは構わないが、みっともない真似はよせ。歓迎会は予定通り開く」
オスカーは空欄のままの臨時協賛書を机の端へ押しやり、妻の宣告を軽く聞き流した。
アデライドはそれ以上反論しなかった。夫が正しく事態を理解できず、なお豪華な会を予約しようとしているのなら、それは彼の勘定で支払うべき事柄だ。彼女は家令から受け取った肉の仕入れ削減指示書の控えを丁寧に折りたたみ、鞄に収めた。
「失礼いたします」
短く一礼し、書斎を後にする。
自室に戻ったアデライドは、あらかじめまとめておいた当面の私物だけを手に取った。
彼女が暁星会に毎会期支払ってきた二百十銀貨は、伯爵家から出ているものではない。祖母から受け継いだ『ヴェルナー織布工房』の収益――職人たちの賃金や材料費、修繕費を控除した純益からなる、アデライド単独名義の別財預金だ。夫の家の同意なく、彼女の署名ひとつで動かせる資金である。
夫婦の間に波風を立てないため、夫の顔を立てるためにと、求められるままに自分の預金から支払ってきた。見栄の金を払えば夫婦は平穏に回っていくと思い込んでいた。だが、今日、夫が差し出した愛人への請求書と、見栄の代償を使用人の食卓に押し付けようとしたあの削減指示書を見て、最後まで残っていた迷いが冷え切った。自分が払い続ける限り、この歪みは決して終わらないのだと。
アデライドは、自己口座から家賃を負担する契約を結んだ市内の借家へと荷物を運び出させた。伯爵家の邸宅から持ち出したのは、自分の衣服と身の回りの品だけだ。
馬車に揺られ、王都の登記所へ到着した頃には、空はすでに薄暗くなり始めていた。
石造りの冷たい廊下を歩き、窓口へ向かう。九年に及んだ婚姻の重さに比べ、手続きの場は拍子抜けするほど事務的だった。
「離縁申立書と、別居届ですね。確認いたします」
窓口の役人が書面を受け取り、淡々と項目を点検していく。アデライドは背筋を伸ばして待った。愛人がいるという事実だけで自動的に離縁が成立するわけではない。だが、持続的な私財拠出の要求、家内の節約強制、そして何より彼女自身の婚姻継続意思の消滅は、この申し立てを裏付ける十分な理由となる。
やがて、役人の手が動き、二枚の書類に重々しい音を立てて赤い受理印が押された。
書記が押した終了通知の受領印と同じ、鮮やかな赤。その印が紙に落ちた瞬間、アデライドの肩から目に見えない重い石が一つ転がり落ちたような気がした。今日この日から、彼女の支払いは正当に彼女自身のものになったのだ。
日暮れの登記所を後にしようと廊下を歩いていたとき、ふと、壁に並んだ掲示板に目が留まった。
そこには、王都の様々な機関からの告知や、貴族向けの名誉ある寄付の募集が貼られている。きらびやかな夜会の案内や、大理石の記念碑建立のための賛助願いといった、見慣れた華やかな文面が多い。
だが、その隅に、一切の装飾を持たない質素な紙が一枚だけ貼られていた。
『記念碑はいりません。雨の日の床が必要です』
短い言葉の下に、北衛騎士団、第二隊副隊長ダリオ・クレストという力強い署名があった。
アデライドはその紙の前で足を止めた。
名誉を称える大理石ではなく、ただ雨の日に転ばず歩けるための床。見栄のための金はいらないと、堂々と要求する不器用なほどに実務的な言葉。
自分の資金を、誰かの見栄や虚栄のためではなく、本当に必要なものを直すために使えるとしたら。
アデライドは、その署名が記された掲示の修繕先を静かに見つめた。そこに行けば、誰が何に困っているのかが、自分の目で確かめられるはずだった。




