第21話 七歳下の騎士は、自分で選びます
第七十六日。保留の通告が届いてから二日、アデライドはマルタと共に、郊外の工房で帳簿と納品記録を洗い直していた。
机の端には、発端となった大手商会の書状が置かれている。二週間の審査が続く間にも、予定の納品は進めなければならない。
「……何度読み返しても、あの噂だけで疑われるのは腹立たしいですね」
会計責任者のマルタが、忌々しげに眼鏡の奥の目を細めた。
書状が問題にしているのは、所有者が私的な支出のために工房の運転資金へ手を出し、納品を滞らせるのではないかという懸念だった。その疑いに応える資料は、ようやく揃いつつあった。
以前、騎士団の基金統合を狙われた時は、支援事業の独立性を守る必要があった。だが今回は、工房で働く職人たちの雇用と生活に直結する、明確な本業への実害である。
「ヴェルナー様、資料に加えて、騎士団の方から商会へ口添えしていただくことは……」
マルタの提案に、アデライドは静かに首を横に振った。
「それはなりません。騎士団の権威や副隊長の地位による圧力で取引先を威圧すれば、それこそ彼らの疑念を裏付けることになります。愛情の私事を、取引上の証明にしてはいけません」
アデライドは冷静だった。彼女が反論の材料として選んだのは、確かな「帳簿」と「実績」のみだった。
彼女はマルタと共に、工房が単独で保有する健全な運転資金の証明書、過去数年間にわたる遅延のない納品実績の記録、そして次期の生産に必要な材料の仕入れ代金がすでに支払い済みであることを示す領収書を揃えた。
「噂で取引を保留するのは彼らの自由ですが、私たちは事実で応えるしかありません」
アデライドは添え状に、資料の確認に加え、予定納品の検品にも応じると記し、使いに託した。返答を得るには、まだ時間がかかる。更新の判断を待つ間も、工房の仕事を止めるわけにはいかなかった。
手間と時間はかかるが、お金の力や権威で強引に解決するのではなく、あくまで商取引の原則に則って信用を取り戻す道を選んだのである。
取引先への書類を送り出し、アデライドが王都の借家へ戻った頃には、日は落ちかけていた。
今日は、勤務後のダリオと会う約束をしている。家の前で落ち合い、人通りの少なくなった並木道を歩き始めると、彼は騎士団内でも説明を求められたと話した。
「資金決裁も給付の採否も、元々私の権限ではない。関連する訓練の監督からも外れていると、引継ぎの記録を示しました」
ダリオは足元に目を落とした。
「その上で、仕事の外で誰と過ごすかは、自分で選びたいと伝えました」
彼が工房の商談へ口を出すことはなかった。アデライドも、取引先へ送った資料と、これから受ける検品についてだけ話した。
噂による実害が出たことに対し、ダリオは自分の存在が彼女の重荷になっているのではないかと案じていたようだった。
「ご迷惑をおかけしました。俺が軽率に外でお誘いしたせいで……」
「手間はかかります。でも、お茶に誘ってくれたことを、謝らないでください」
アデライドは彼の謝罪を遮り、揺るぎない声で言った。
「工房の信用は、帳簿とこれからの納品で証明します。誰に何と言われようと、私の財産と仕事は私が守ります」
その凛とした横顔を見つめながら、ダリオはふと足を止めた。
彼は、公的な「私」という仮面を完全に外し、飾らない「俺」という私的な言葉で、真っ直ぐにアデライドを見た。
「……俺は、あなたと次の休日も、その次も過ごしたい」
夏の夕風が、二人の間を静かに吹き抜ける。
「あの菓子店で、俺の話を聞いて笑ってくれたでしょう。仕事の話がなくても、もっと話していたかった」
ダリオは一度、言葉を切った。
「後援者と副隊長としてではなく。俺個人の……恋人として」
仕事の相談をする時よりも、彼の声は少し硬かった。それがアデライドの胸に触れた。
アデライドは小さく息を吸い込んだ。彼女はこれまでずっと、妻として、あるいは後援者として、「お金を払う役割」ばかりを人に求められてきた。だが今、目の前にいる青年は、彼女の資金も権力も必要としていない。ただ『アデライド』という一人の女性を選ぼうとしているのだ。
「……私も、あなたを選びたい」
彼女はそう応え、ダリオが差し出した手に、アデライドは自分の手を重ねた。
「アデライド、と呼んでも?」
「……ええ」
呼ばれた名前に、まだ少し慣れずに顔が熱くなる。彼女はその手を、握り返した。
互いの独立した生活を守り抜き、金や権力に依存しない対等な関係として、ここで初めて二人の恋が成立したのである。
借家の灯りが見えても、アデライドは歩調を速めなかった。次の休日の約束を、今度は恋人として交わしたかった。




