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「愛人は貴族の嗜み」と言う夫へ。歓迎会費は払いません――離縁を決めた私と、見栄の寄付を断る年下騎士  作者: 他力本願寺


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第20話 帳簿を持たない午後

第七十二日。王都の中心から少し外れた、裏通りにある小さな菓子店。


 アデライドは窓際の席に座り、向かいに座る青年を静かに見つめていた。ダリオ・クレスト。彼が寄託事業の申請窓口も、同事業に関わる現場担当も降りたことでようやく実現した、初めての私的なお茶の時間だった。


 今日のアデライドは、隙のない「立派な後援者」としての実務服ではなく、少しだけ肩の力を抜いた柔らかな平服を選んでいた。ダリオも騎士団の紺の外套ではなく、仕立ては良いが飾りのない、落ち着いた色合いの私服姿だ。剣を帯びていない彼は、どこにでもいる生真面目な青年に見えた。


「お待たせいたしました」


 店員が二人分のメニューをテーブルに置いた。


 アデライドはそれを開き、ふと手が止まった。ずらりと並ぶ華やかな菓子の名前を見つめながら、彼女は自分の中にぽっかりと空いた穴に気づいていた。


 九年間の婚姻生活で、彼女は夫の見栄を満たすための豪華な会合を手配するか、ただ請求書に金を出すばかりだった。誰かと向かい合って、「あなたの食事の好みは何ですか」と尋ねられたり、自分のために甘いものを選んだりする経験が、彼女にはほとんどなかったのだ。


 ふと視線を上げると、向かいのダリオもまた、メニューを前にして固まっていた。


 彼は流行りの菓子の名前など全く知らないらしく、眉を深く寄せて真剣に悩んでいる。その顔つきは、未承認の安全判断票や、複雑な工事図面を睨みつけている時のように険しかった。


 アデライドは、年上の女性として、あるいは元伯爵夫人として、ここでも気の利いた菓子をさらりと選んで彼を先導すべきだろうかと、ほんの少しだけ考えた。


 しかし、彼女は小さく息を吐き、そんな「取り繕う役割」を降りることにした。


「……ダリオさん。実は私、何を選んでいいか全くわからないのです」


 アデライドが素直に白状して笑うと、ダリオは一瞬目を瞬かせ、やがて毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。


「俺もです。こういう店には縁がなくて、何がなんだか」


 彼はいつもの「私」ではなく、年齢相応の「俺」という私的な一人称で口を開いた。


 頼りない年上の女と、菓子一つ選べない年下の騎士。二人は互いの不慣れさが急におかしくなり、声を立てずに笑い合った。七歳という年齢差や、寄付者と副隊長という肩書きの壁が、その小さな笑いの中で自然と溶けていくのを感じた。


 結局、二人は店員の勧めるままに、一番素朴な焼き菓子とお茶を頼んだ。


 一口食べたダリオが、思いがけず嬉しそうな顔をした。


「こういうものは、もっと気取った味がするのかと」


「気取った味?」


 言い方がおかしくて、アデライドは笑った。彼も自分の言葉に困ったように笑い、窓から差す光で眩しそうにしている彼女に気づくと、席を替わろうかと尋ねた。


 大げさに扱われるより、そのささやかな気遣いが心地よかった。


 テーブルに運ばれてきた茶器を挟んで、二人の口から出るのは、いつもの厳しい検収の話や、予算の監査報告の話ではなかった。


「子供の頃、実家の裏山で木登りをして、見事に落ちたことがあります。その時の傷がこれで……」


 ダリオは「ヴェルナー様」と公的な呼称を使いつつも、口調は素のままで、自分の幼い頃の失敗談をぽつりぽつりと話し始めた。それは半年前の護送事故の重いトラウマとは無関係な、ただの他愛のない日常の記憶だった。


 アデライドもまた、彼につられるようにして語った。


「私は、祖母の工房で織りかけの布を台無しにしてしまって。マルタにひどく叱られたのを覚えていますわ」


 完璧な後援者でも、有能な副隊長でもない。二人は、自身の失敗や知らないことを恥ずかしがらずに見せ合える関係になりつつあった。


 目が合うたび、ダリオは少し照れたように笑った。アデライドも、その視線をすぐには逸らせなくなっていた。だが、彼らは今日この場で、交際を急いで求めることはしなかった。今はただ、この「帳簿を持たない午後」の穏やかな時間が、何よりも尊く感じられたのだ。


 穏やかな時間が終わり、店を出た帰り道のことだった。


 二人が少し距離を空けて並んで歩いていると、すれ違った一台の馬車の窓から、見知った顔が覗いた。かつてアデライドが所属していた社交クラブ『暁星会』の知人だった。


 相手は驚いたような顔をしたが、アデライドは軽く会釈をしてそのままやり過ごした。ダリオも特段気にする素振りは見せなかった。


 それだけのすれ違いを、アデライドはその時、深く気に留めなかった。


 翌々日、昼過ぎ。アデライドが郊外の織布工房で執務をしていると、マルタが血相を変えて事務室に飛び込んできた。手には一通の書状が握られている。


「ヴェルナー様、一大事です。工房の主力取引先から、契約の更新を二週間保留するという通告が届きました!」


「保留……? 納品は滞りなく済んでいるはずですが」


「それが、理由が……」


 マルタは悔しそうに書状を差し出した。


 そこには、遠回しな言葉でこう記されていた。『所有者が騎士への私費を優先し、納品や仕入れ代金を滞らせるのではないかという信用上の懸念があるため、審査期間を設ける』と。


 アデライドは一昨日の馬車を思い出した。あの目撃談が、以前からの噂に結びついたのだろうか。経路までは分からない。だが、公務と私情を分けただけでは、本業への疑いまで消せなかった。

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