第18話 私は、ヴェルナーに戻ります
第六十五日。十日間の不服申立期間は、オスカー・ライネル側からの異議申し立てがないまま、静かに満了した。
アデライドは朝一番で馬車に乗り、王都の登記所へ向かった。窓口で書類の手続きを終えると、事務官から公的な印が押された一枚の書面が手渡された。
「こちらが、離縁確定証となります。ご確認ください」
アデライドは書面を受け取り、冷たい文字の羅列の中に『婚姻関係の解消が確定した』という一文を認めた。
これで、彼女は完全に夫の家の支配から脱したのだ。
アデライドは事務官から差し出された戸籍簿の変更手続き書類に、自らの手で署名を書き込んだ。
『アデライド・ヴェルナー』
九年ぶりに記すその旧姓は、ペンの運びが少しぎこちなかったが、指先には確かな自由の手応えがあった。
彼女にはまだ、法的な別件処理が残されていた。婚姻時に持ち込んだ持参金四千銀貨の返還手続きと、婚姻中に共費で購入した家具類、評価額一千五百銀貨の精算である。
だが、アデライドはこれらについて、元夫と直接会って金銭の交渉をするような真似は一切しなかった。追加の紛争で解消の事実を汚すのは無意味だ。彼女は淡々と法定の書類を揃え、すべての精算事務を代理人弁護士へ一任した。
過去の遺物に執着するよりも、自分の日常を取り戻すことの方が、今の彼女にとってはるかに重要だった。
同日。アデライドは新しい名前で、市庁舎の寄託窓口を訪れていた。
月に一度の、寄託事業の定例報告を受けるためだ。窓口の向こうには、騎士団側の申請・連絡担当としてダリオ・クレストが座っていた。
「今会期の、復職準備班の運用状況です」
ダリオは手元の書類を開き、公的な「私」という一人称で、淡々と、しかし確かな声で報告を始めた。
そこには、先日正式に運用が開始された『安全判断票』に基づく、現場の改善記録が記されていた。危険な工程はエマの判断で停止され、残りの安全な作業は、参加者の意思に基づいて無理なく続けられている。
アデライドは報告書に目を通し、深く頷いた。
「……素晴らしい改善です。現場の皆様の努力に感謝いたします」
彼女は寄託者としての確認欄に、さらりと署名をした。
『アデライド・ヴェルナー』
その署名を見た瞬間、ダリオの青い目が微かに見開かれた。アデライドは顔を上げた。
「今朝、離縁の確定証を受け取りました。こちらの登録名も変更をお願いします」
定例報告が終わり、二人は窓口を出て、市庁舎の公的な廊下へと歩み出た。
周囲には書類を抱えた役人や、手続きに訪れた市民がせわしなく行き交っており、私的な会話を長く交わすような場所ではない。
ダリオは足を止め、アデライドに向き直った。彼は背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「アデライド……ヴェルナー様。離縁の確定、おめでとうございます」
彼はわずかに躊躇いながらも、新しい姓で彼女を呼んだ。だが、その声はどこか硬く、自分自身を強く律しているようだった。
「ですが、私はまだ、この基金の申請担当という公的な立場にあります」
ダリオは立ったまま、逃げることなく言葉を続けた。
「私があなたの寄託事業の担当を続けている限り、私からあなたを個人的にお誘いするわけにはいきません」
それは、彼が自らに課した絶対の線引きだった。
巨額の資金を出す後援者と、その資金の窓口となる騎士。二人の間に私的な関係が生じれば、どんなに公正に運用していても「便宜を図っているのではないか」という疑念を招き、アデライドの評判を汚すことになる。彼は彼女を守るために、その「立場の限界」を明確に口にしたのだ。
これまでのアデライドなら、相手の立場を慮り、波風を立てまいと黙って頷き、静かに身を引いていただろう。
だが、自らの手で古い名前を捨て、新しい生き方を決めた今の彼女は違った。
アデライドはダリオの誠実な言葉を正面から受け止め、そして、初めて自分自身の意思を彼に向かって明確に示した。
「……その窓口の担当を降りた後なら、どうなのですか?」
ダリオが小さく息を呑む音が聞こえた。
アデライドは彼を困らせるように微笑むと、その場で「次の休日に会いましょう」といった私的な約束は作らず、静かに会釈だけをして、その場を歩み去った。
背後で、ダリオが小さく「はい」と答えるのが聞こえた。
何に対する返事だったのか、彼女は振り返って確かめなかった。ただ、市庁舎を出るまで、その短い声が耳に残っていた。




