第17話 守りたい仕事を、断る
第六十一日。アデライドは急な呼び出しを受け、北衛騎士団の団長室へ足を運んでいた。
室内には団長レイモンのほか、医務長エマ、第二隊副隊長ダリオ、市書記ルカ、そして契約を扱う文官の姿があった。机の上には、復職準備班で作られた織布の試作品と、運送組合から届いた何枚もの書状が散乱している。
先日の報告にあった百八十銀貨の臨時追加注文は、締切が目前に迫っていた。
「団長。現在の作業員の習熟度では、この過密な納期には応えきれません。現に、提出予定の試作品の一部に、明らかな検品不良が見つかっています」
ダリオが深刻な表情でレイモンに訴えかけていた。
「その上、組合側は当初の約束になかった納品数量の増加まで要求してきている。これ以上の無理を重ねれば、必ず事故が起きます。直ちに、この班の全作業を一時停止すべきです」
ダリオの言葉には、強い切迫感があった。
「間に合わせようとして、また無理をさせるわけには……」
彼の手元には、あの『安全判断票の草案』がある。参加者の希望を記す欄は、開かれないままだった。
「まず、エマの所見と本人たちの返事を聞く」
レイモンは停止の決裁を保留し、医務長へ目を向けた。
アデライドはダリオの具申を最後まで聞き、静かに口を挟んだ。
「お待ちください。全面停止というのは、本人が希望しており、かつ安全に続けられる既存の軽作業まで、すべて奪うということですか?」
ダリオは一瞬、言葉を詰まらせた。彼は再び「守るための禁止」という一律の思考に陥っていたのだと、その時になって気づいたようだった。
アデライドはダリオの焦りそのものは否定せず、だがその解決策の誤りをはっきりと指摘した。
「団長。エマ医務長が判断する医学的な停止が必要な工程と、本人の意思で続けられる安全な作業は、明確に区別すべきです。その上で、現在の要求水準に満たない運送組合からの追加注文百八十銀貨分については、全量を取り消すことをお勧めします」
「百八十銀貨分の全量取消だと?」
レイモンが眉をひそめた。
「ええ。無理に全量をこなそうとして検品不良のまま納品し、騎士団の信用を落とすより、できない分は違約金を払ってでもきっぱりと断り、既存の小口試作の品質を守るべきです」
追加注文の契約書には、取消対象額の1割を違約金として支払う約款が明記されている。文官が、組合へ確認した返答を示した。追加分は一組の荷覆いとして揃える契約で、部分納品への変更は受け入れられなかったという。
「数量の追加は、こちらも断っています。それでも、当初分に修繕が重なると納期に足りません」
レイモンが低く言った。
「試作の所要時間を基に受けたが、検品と手直しの時間を見込めていなかった。受注を認めた私の見通しも甘かった」
アデライドの言葉を聞いたダリオは、自分の手元にある未承認の草案――条件を細分化し、本人の意思を尊重する仕組み――を、一番先に無視したのが自分自身であったことに気づき、強く唇を噛んだ。
「……草案を作った私が、一番先にそれを無視しました」
ダリオは自らの過ちを率直に認め、レイモンへ向き直った。
「全面停止の具申は撤回します。エマ医務長が定める医学的停止条件、各作業員の参加意思の再確認、そして試作の品質確認。これらを完全に分けた案として、再度提出させてください」
彼は一度言葉を切り、草案の欄を指で追ってから、具体的な運用手順へと意見を修正した。自分の過失から逃げず、その場で誤りを正す年下騎士の姿を見て、アデライドは深い信頼を覚えた。
エマは、作業者に確かめてきた希望と、停止が必要な工程を一つずつ読み上げた。草案には前もって集めていた意見も書き込まれている。ダリオがその場で抜けた条件を補い、レイモンとエマが修正後の手順を確認して、正式に承認した。危険な工程をすべて再開するのではなく、基準に満たない作業のみを安全に停止する仕組みが、ついに確立されたのである。
同時にレイモンは、運送組合に対して「追加注文百八十銀貨分の全量取消」の通知を出すことを決裁した。
取消に伴う違約金は、百八十銀貨の1割にあたる十八銀貨。アデライドは、これを自身の私費から直接払って恩着せがましく穴埋めするような真似はしなかった。
「その違約金十八銀貨につきましては、寄託の『予備費』から支出することに同意します」
彼女はあくまで寄託者として、予備費の用途と支払時期への同意を示したのみだ。実際の支払いは、エマによる安全側の確認と、ルカの会計照合を経て実行される。
これにより、予備費は百八十から百六十二へと減る。だがこれは単なる損失ではなく、信用を損なわず、安全に働く道を未来へ残すための「成功のための失敗費用」だった。
ルカは、小口試作の売上は分離した帳簿で計上し、対応する経費から差し引いて次の寄託送金を減らす、と確認した。費用を二重に賄うことはしない。
会議の終わりに、ダリオはアデライドに向き直り、静かに頭を下げた。
「私の判断が、間違っていました。……ご助言に感謝します」
二人は互いの誤りを正し合える修正能力を認め合い、職務の場における確かな連帯を深めた。
それから数日が経ち、第六十四日の夜がやってきた。
王都の借家で、アデライドは時計の針を見つめていた。法的な異議申立期限の満了が、すぐそこまで迫っていた。




