第16話 勝訴の日、出せない手紙
第五十四日。王都の裁判所に設けられた法廷に、厳粛な静寂が満ちていた。
証言台の前に立つアデライドの耳に、裁判官の威厳ある声が響き渡った。
「原告と被告の婚姻関係は、被告の持続的な私財拠出の要求などにより、もはや回復困難な程度に破綻していると認める。よって、両者の婚姻関係を解消する」
それは、アデライドが長い間待ち望んでいた、明確な勝利の宣言だった。
裁判官は判決の理由として、アデライドが提出した客観的な証拠――公証別財登録の記録や、第一日に夫オスカーが自ら署名し、のちに撤回した食費削減指示書の記録――を挙げた。夫が妻の個人的な別財からの拠出を強要し、相互扶助の義務を著しく損なっていた事実が、法的に認定されたのだ。
一方で、オスカー側の代理人が声高に主張していた「寄託事業への支出は、夫への腹いせによる財産の浪費である」という訴えは、何一つ証拠のない単なる感情論として完全に退けられた。
木槌の音が鳴り響き、審理が終わる。
アデライドは小さく息を吐き、静かに頭を下げた。見栄と虚飾にまみれた九年間の結婚生活を終える道が、裁判所の決定によって開かれた瞬間だった。
閉廷後、控え室へ続く廊下で、アデライドはオスカーとすれ違った。
彼は裁判に敗訴したという現実を突きつけられたにもかかわらず、次に口にしたのは、妻の訴えを振り返る言葉ではなかった。
「……せいぜい強がるがいいさ」
オスカーは足を止め、負け惜しみのように冷笑を浮かべた。
「女一人の生き方には限りがある。どうせすぐに後悔して、泣きついてくるだろう。その時になって謝っても、もう遅いからな」
その言葉には、以前と変わらず彼女が戻る余地を残しておこうとする響きがあった。
アデライドは立ち止まり、オスカーを真っ直ぐに見据えた。
「私の限りを決めるのは、あなたではありません」
抑揚のない冷ややかな声で短く返し、アデライドは彼を一瞥もせずに歩み去った。
その後、アデライドは自身の代理人弁護士と面会し、今後の手続きの確認を行った。
「本日は勝訴判決が出ましたが、不服申立期間は明日から数えて十日間、その最終日の夜までです。この期間が満了し、不服がなければ、その翌日に初めて離縁は確定となります」
弁護士の言葉に、アデライドは頷いた。法的にはまだ十日間、婚姻状態が続くのだ。
また、婚姻中に共費で購入した家具類、評価額一千五百銀貨の精算と、彼女の持参金四千銀貨の返還手続きについても確認した。これらを巡って泥沼の争いを引き延ばすつもりはないため、すべて別件として代理人に精算を一任することにした。
王都の借家に戻ったアデライドは、実務服の上着を脱ぎ、窓際の椅子に深く腰を下ろした。
一人きりの静かな部屋。そこでようやく、重い鎖から解き放たれたような、静かな喜びが胸の奥から湧き上がってきた。
勝訴した。自分の財産と、これからの生きる道を自らの手に取り戻したのだ。
この明確な勝利と喜びを、誰に一番に伝えたいか。アデライドの頭に真っ先に浮かんだのは、暗い栗色の短髪と、不器用なほどに真剣な青い目を持つ、年下の騎士の顔だった。
雨の日の回廊で、泥に塗れながら共に車輪を押した彼。自分の離縁が醜聞で汚れないよう、自ら距離を置くと宣言してくれたダリオ。
アデライドは無意識のうちに机に向かい、引き出しから上質な便箋を取り出して羽ペンを握っていた。
『ダリオ・クレスト副隊長へ』
滑らかな紙に、彼の名前を記す。
『本日、裁判で離縁の判決が下りました。あなたの誠実な気遣いに――』
そこまで書こうとして、アデライドはふとペンの動きを止めた。
弁護士の言葉が蘇る。十日間の不服申立期間。法的には、自分はまだオスカー・ライネルの妻なのだ。
そして何より、ダリオ自身が「離縁が確定し、私が寄託の担当を離れるまでは、仕事以外でお会いするのは控えます」と、苦しいほどの節度を持って宣言してくれた。
今、感情の赴くままにこの手紙を彼に送れば、それはただの私情の押し付けになり、彼が守ろうとしてくれている決意と一線を踏みにじることになる。
「……まだ、出せないわね」
アデライドは自分の心の中にある「彼が好きだ」という確かな自覚を噛み締めながら、名前だけを記した便箋をそっと引き出しの奥にしまい、封をせずに置いた。
今はまだ、待つべき時だった。
だが、私的な感情の余韻に浸る時間は長くは続かなかった。
数日後、騎士団から、連絡担当のダリオの名で急ぎの業務報告が届けられた。
それは、療養隊員たちが軽作業を行う『復職準備班』に関するものだった。報告書によれば、班で小口の試作を請け負っていた運送組合から、別途百八十銀貨にのぼる臨時注文が試験的に舞い込んだという。
しかし、事態は手放しで喜べるものではなかった。
その追加注文は納期の要求が極めて厳しく、現在の作業員たちが無理なくこなせる限界を超過している恐れがあった。さらに悪いことに、急いで仕上げたこれまでの試作品の一部に、検品不良が見つかったという不穏な報告も添えられていたのだ。
納期への過密な重圧と、品質の低下。それは、作業を始めたばかりの復職準備班にとって、致命的な信用失墜に繋がりかねない事態だった。
勝利の喜びも束の間、守りたいと願った仕事の現場に、新たな危機が迫っていた。アデライドは報告書を強く握りしめ、厳しい選択を迫られることになる。




