第15話 私の財産を、私が使うだけです
第四十九日。王都の裁判所に設けられた重厚な法廷で、アデライドとオスカーの離縁を巡る公開審理が始まった。
証言台の前に立ったオスカーの代理人弁護士は、もったいぶった口調で裁判官へ向かって主張を展開した。
「裁判長。妻アデライドの家出は、些細な夫婦喧嘩を発端とした、妻としての義務の明白な放棄です。さらに彼女は現在、夫の同意も得ず、北衛騎士団に対して大がかりな寄託事業を行っております。これは夫への腹いせを目的とした、家計を傾かせるほどの復讐の浪費であり、決して看過できるものではありません」
オスカーは代理人の横で、同情を誘うような憂い顔を作ってみせた。
「私は妻の突然の変節と浪費癖に困り果てております。ですが、彼女が反省して家に戻り、再び社交の義務を果たすのであれば、寛大に許す用意があります」
傍聴席に向けたその芝居がかった言葉には、未だに「妻の預金は自分が管理すべきものだ」という根深い誤認が透けて見えた。寄託の是非より、別居後に急な支出をしたという印象へ議論を向けたいらしい。アデライドは、代理人と用意した書類へ目を落とした。
だが、アデライドは夫の的外れな感情的攻撃に対し、同じように声を荒げて反発することはしなかった。
彼女は傍らに立つ自身の代理人に促し、あらかじめ入念に準備していた客観的な証拠書類の束を裁判官へと提出した。
「裁判長。提出いたしましたのは、祖母から受け継いだ『ヴェルナー織布工房』の公証別財登録の記録。そして、私が暁星会に対して支払ってきた定額後援の契約書でございます。ご覧の通り、支払人は私個人の名義であり、別居の日に受領された会期満了による終了通知も添付しております」
アデライドは冷徹な声で説明を続ける。
「私が寄託事業に用いているのは、この公証された別財の預金のみです。夫の財産や、夫婦の共有財産には一切手を触れておりません。私自身の財産を、私が選んだ使途に使うだけです」
さらに代理人が、最後の一枚を裁判官の前に提示した。
「そしてこちらが、別居の日に夫オスカー・ライネル本人が署名した『次会期からの使用人向け肉の仕入れ削減指示書』の写しと、先の調停において、本人がそれを撤回したことが記された調停記録でございます」
アデライドは、騎士団の家族からの感謝の証言や、ダリオとの根も葉もない噂に対する反論などには一切頼らなかった。愛人の存在という私生活の屈辱を公開の場で語る痛みは伴うが、彼女はあくまで、「夫による別財拠出の持続的な強要」と「見栄のために使用人の食費を削ろうとした相互扶助の欠如」、そして「経済的圧迫」という客観的な事実のみで立証を組み立てたのだ。
裁判官は提出された書類に一つ一つ目を落とし、やがて顔を上げてオスカーの代理人を見た。
「公証人役場の記録が示す通り、妻が自己の別財を自らの意思で使用する権利は法的に保障されている。寄託事業への支出は、共有財産を侵害する浪費には当たらない」
裁判官の厳格な声が法廷に響く。
「本法廷は、夫側が主張する感情論と、妻側が提示した『夫の求めに応じて別財を拠出しない自由』および『経済的圧迫による婚姻関係の破綻』という争点を明確に分けて審理する」
裁判官は寄託の是非を巡る議論を打ち切り、これまでの拠出要求と夫婦の話し合いについて、双方に確かめ始めた。アデライドは、一つずつ質問に答えた。
その日の審理が休廷となり、アデライドは控え室へ向かう静かな廊下を歩いていた。
当然だが、離縁が確定していない今、この場にダリオの姿はない。彼からの個人的な面会や、救済の言葉もない。
だが、アデライドが羽織っている実務服の上着の裏ポケットには、『通路幅の再測定値』と記されたダリオの小さな寸法メモがあった。以前、業務報告に添えられていたものを、今朝、鞄の書類を整理した際に移していた。
廊下を歩くたび、布越しにその硬い紙の感触が指先に触れる。彼女は立ち止まってそれを取り出したり、感情に浸ったりはしない。ただ、そのかすかな感触だけが、彼女の戦いが決して孤独ではないことを、静かに確かめさせてくれた。
ふと窓の外へ目を向けると、裁判所の正面口から出て、帰りの馬車に乗り込もうとするオスカーの姿が見えた。
彼は馬車の開いた扉の前で一度だけ手を止め、何かを躊躇うように立ち止まった。だが、結局こちらを振り向くことはなく、重い足取りで馬車の中へと消えていった。
アデライドは、彼のその背中が何を意味していたのか、彼の内心を推量しようとはしなかった。もはや彼の心の中に、彼女の関心を割く場所はない。
判決が下されるのは五日後、第五十四日。
長く苦しい、名前を取り戻すための戦いの終わりが、はっきりと見え始めていた。




