第14話 記念碑の裏に書かれた条件
第四十三日。工房の会計責任者マルタから知らされた「若い騎士を買った」という悪意ある噂は、単なる社交界の陰口に留まらず、明確な形を持って北衛騎士団に波及していた。
人脈と面子の調整に長ける夫オスカーが、自らの得意な土俵で仕掛けてきたのだ。
彼は社交クラブ『暁星会』の理事や有力な賛助会員たちを動かし、北衛騎士団の団長レイモンに対して、連名による一つの提案書を送りつけてきた。
『貴騎士団の崇高な理念に賛同し、暁星会より維持費の継続的な援助と、名誉ある記念碑・後援称号を授与する』
一見すれば、資金不足に悩む騎士団にとってありがたい申し出である。しかし、その甘い言葉の裏には、寄託そのものを乗っ取るための条件が巧妙に隠されていた。
援助の条件として、現在アデライド個人が市に登録している『北衛傷病者・家族支援寄託』の運営を暁星会に統合すること。そして、支援の正当性と透明性を示すという名目で、中庭に建立する記念碑の銘板に、寄付者の名前と共に「恩恵を受けた傷病者の個人名と人数」を大々的に公表することを求めてきたのだ。
アデライド個人の寄付を「若い騎士への私的な貢ぎ物」と貶めた上で、権威あるクラブがそれを公的に管理し直してやる、という体裁だった。
提案書の連名欄には、暁星会の理事のほか、旧賛助会員の名もあった。添付された移管案には、騎士団から寄託者へ管理の変更を勧め、本人と市の同意を得て、未執行枠をクラブの管理下へ移す手順が記されていた。維持費の援助と引き換えに、支援を受ける側から彼女を説得させようという筋書きらしい。
「市の管理よりも、社交界の信用を取り戻せる、と」
レイモンは添え状の一節を読み、額を押さえた。
「維持費を継続して出すという部分には、正直、惹かれました。だが、この条件まで承知するわけにはいかない」
騎士団に出向いたアデライドは、夫の流した醜聞に対しても、患者の痛々しい写真や、同情を引く家族の証言を使って反撃するようなことはしなかった。
「反論には、感情ではなく、事実と規程だけを用いましょう」
アデライドは、市書記のルカが管理する独立監査記録をレイモンの机に並べた。
回廊の施工費三百二十銀貨、衛生釜の調達費二百六十銀貨、そして家族券の支給。そこには、寄託の使途が厳密な設備投資と市を通じた匿名の生活支援であり、特定の若い騎士個人への私的な資金援助などではないことが、客観的な数値で証明されている。
「私は、預け替えには同意しません。既存の支援は今の契約通りに続けます。その上で、クラブからの条件付き援助を受けるかどうかは、団と市でご判断ください」
アデライドがそう告げると、レイモンはルカへ向き直った。
「ルカ書記。市の規程に照らして、この援助条件はどうなりますか」
「当然、却下されます」
ルカは規則通りに冷徹に答えた。
「支援対象者の個人名を公開することは、家族券の支給前に確認した匿名規程に明確に違反します。市と協定を結んでいる以上、この条件での寄付は受諾できません」
レイモンは深く頷き、団長としての決定を下した。
「……その通りだ。我が騎士団は、隊員の尊厳を売ってまで資金を得るわけにはいかない」
レイモンは提案書への返書に『提示された条件での援助は、独立審査規程に反するため辞退する』と記し、暁星会へと返送した。オスカーが得意とする人脈と面子による政治工作は、アデライドが最初に構築した「匿名と独立検収」という頑強な制度の前に、完全に打ち破られたのである。
騒動が規程によって退けられ、静けさを取り戻した廊下で、ダリオがアデライドの前に歩み出た。
彼は噂の場において、彼女を守るために感情的な擁護演説をして回ることはなかった。ただ「私には資金決裁権がなく、現在の職務は現場連絡と配属の調整のみだ」という事実を各所で淡々と説明し、彼女の資金を自分の判断では動かせないと伝えていたことを、団長から聞いていた。
「ライネル夫人」
ダリオは少し距離を置いたまま、静かに、だが決意を込めた声で告げた。
「あなたの離縁が、俺の名で汚れないように。これからの対応を決めました」
彼は真っ直ぐにアデライドの目を見つめた。
「離縁が確定し、私が寄託の担当を離れるまでは、仕事以外でお会いするのは控えます。必要な業務連絡は、これまで通り続けます」
それは、自分たちの関係に少しでも醜聞の付け入る隙を与えないための、彼なりの最大の誠意だった。
共に現場を直してきた信頼がある。仕事の報告が終わっても、もう少し話していたいと思う日も増えていた。それでも、彼女の法的な戦いを終わらせるまでは、あえて距離を置く。その痛みを伴う節度をアデライドも深く受け止めた。
「……わかりました。必ず、終わらせてきます」
彼女は短く答え、次なる離縁審理の場――公開の裁判での戦いへと、決意を新たに歩み出した。




