第13話 彼の傷は、勲章ではなかった
第三十八日。アデライドは、北衛騎士団の執務棟の奥にある薄暗い資料室にいた。
古い紙の匂いが漂う中、ダリオは資料係から一葉の写しを受け取り、アデライドの前に差し出した。団長が開示を認めた指揮判断と処分の部分だけで、医療記録や他の隊員の名は伏せてある。ベルン自身も、事故で負傷したのが自分であると彼女に話すことを了承していた。
それは、騎士団の公的な印が押された『事故調査および訓戒記録』だった。
「……半年前の記録です」
ダリオは、いつもの公的な「私」という一人称ではなく、私的な「俺」という口調のまま、静かに語り始めた。
半年前。雨が上がった直後の悪路での護送任務中、第二隊の現場指揮を執っていたダリオは、到着時間を優先して迂回を怠るという判断を下した。その結果、地盤の緩んだ道で馬車が横転する事故が起き、部下であったベルンが脚に後遺症の残る重い怪我を負った。
「俺は、名誉の負傷をした悲劇の英雄なんかじゃない。ただ、判断を誤って部下を危険に晒した指揮官です」
ダリオは自らの過失を一切美化せずに告げた。上司からの厳しい調査を受け、正式な訓戒処分を受けている事実も、包み隠さず書類に記されている。
事故の記録を見て、アデライドはベルンを制した時の彼の硬い表情を思い出した。あの過剰な制止は、この自責と切り離せないのだろう。
アデライドは、書類に記された冷たい事実から目を逸らさなかった。
彼女は、ダリオの沈痛な告白を聞いて「誰にでも間違いはある」と無条件に慰めたり、「彼を想うが故の苦悩だ」と美化したりはしなかった。
「あなたが迂回を怠り、ベルンさんの脚を負傷させたという事実は、消えません」
アデライドは静かに、だがはっきりと告げた。
「でも、次にどんな仕事を望むかまで、あなたが決めてよいのでしょうか。私も、座る仕事なら喜んでもらえると思い込んでいました。彼が探したいと言っているものを、まだ聞き切れていないのではありませんか」
その厳しい言葉に、ダリオは一瞬だけ苦しげに目を伏せた。
ダリオはすぐには答えなかった。書面の端を押さえた指を緩め、長く息を吐いた。
「また傷つけるのが怖い。そればかりでした。彼が何を失うか、考えたつもりになっていた」
二人はこの薄暗い資料室で、初めて互いの弱さを含む深い意見を交換し合った。
「……あなたの言う通りだ」
ダリオは深く息を吐き、自らの一律禁止の考えが過ちであったことを認めた。
アデライドは彼に、ベルン本人の許可を得た上でエマにも同席してもらい、彼の本当の希望を聞く場を設けることを提案した。
ダリオはただ反省して立ち止まる男ではなかった。彼はすぐさま部屋の隅にある小さな机に向かい、白紙に羽ペンで直線を引いて、新しい書式を作り始めた。
『医務上の即時停止条件』『本人の作業希望』『検品不良時の対処』。
彼が書き始めたのは、それらの項目を別々の欄に分けた『安全判断票』の草案だった。これまでのように「少しでも危険だから全て禁止」と一括りにするのではなく、条件を細分化し、本人の意思を組み込んだ上で安全を担保するための仕組みだ。
「この草案を基に、エマ医務長と団長に再検討を願い出ます」
ダリオが書き上げた紙には、まだ誰の承認印もない。これは彼が今この場で起案した未完成の草案に過ぎず、この紙きれ一枚で明日から現場の運用が変わるわけではない。当事者たちの意見を聞き、正式な手続きを踏む必要がある。
それでも、自分の過去の過失から目を背けず、後悔を具体的な制度の形にして矯正しようと着手した年下騎士の背中を見て、アデライドの彼への信頼は確かなものへと変わっていった。
草案の作成から数日後。アデライドが借家の台所で、マルタから工房の月次報告を受けている最中だった。
マルタは帳簿の確認を終えると、不意に血相を変え、声を潜めて言った。
「奥様。王都の社交界で、旦那様――オスカー・ライネル伯爵が、よからぬ噂を吹聴して回っているようです」
アデライドは手を止めた。
マルタの報告によれば、オスカーは暁星会の会合や知人たちの前で、妻が勝手に家を出て金を浪費していると被害者のように振る舞い、さらにこう言いふらしているという。
「妻が寄付と称して大金をつぎ込んでいる先は、騎士団の若い騎士が一人いるだけだ」と。
オスカーは、自分が定額後援を切られた腹いせと自らの正当性を主張するため、アデライドの公的な支援活動を「年下の愛人への貢ぎ物」という醜聞に仕立て上げようとしているようだった。
資金源である工房の別財は書類の力で守り抜いたが、次なる標的は寄託事業そのものの信用だった。
悪意ある噂という見えない刃が迫る中、アデライドは冷めたお茶の入ったカップを静かに見つめた。




