第8話 呪われたもの
「……た……す……け……」
ノアの動きが、一瞬止まった。松明の光に照らされた顔は、間違いなく人間のものだった。化け物の脚の付け根から生えている。首はない。身体もない。顔だけが肉へ埋め込まれ、その目がノアを見ていた。
「喋れるの……?」
返事はなかった。代わりに、化け物の腹の横についていた別の顔がゆっくり目を開く。唇が震えた。
「……こ……ろ……」
「え?」
「……して……」
その瞬間。
「ぐっ!」
ノアの身体へ巻きついていた腕が、さらに強く締まった。肋骨が軋む。
「痛っ……!」
助けを求めている。殺してくれとも言っている。それなのに、化け物の身体はノアを殺そうとしていた。
「わけ分かんないな……!」
《月銀の剣》を持つ右腕も押さえ込まれている。力を入れる。動かない。四本ある腕のうち三本がノアの身体を押さえ、残った一本が首へ伸びてきた。太い指が喉へ触れる。ノアは咄嗟に顎を引いた。
「《浄化》!」
至近距離。白い光が化け物の全身へ広がった。
「ギャアアアアアアッ!」
いくつもの口から同時に悲鳴が上がった。ノアの耳が痛くなるほどの声。化け物を覆っていた黒い靄が、白い光に触れた部分から薄くなっていく。そして。
「……!」
締めつけが弱くなった。ほんの一瞬。だが十分だった。ノアは身体を捻った。右腕を引き抜く。《月銀の剣》を短く振る。ザシュッ!腰へ巻きついていた腕を一本切り裂いた。黒い液体が飛ぶ。
「離せ!」
残った腕を蹴る。ようやく身体が抜けた。ノアは床を転がりながら距離を取る。
「はっ……はっ……」
立ち上がる。松明はまだ燃えていた。今度は相手の姿がはっきり見える。異様に太った胴体。四本の脚。腹と背中から伸びる腕。人間の顔。どこを見ても人間の部位なのに、一つとして正しい場所についていない。切られた腕が床へ垂れている。だが。
「……止まらない?」
化け物は痛がる様子すらなかった。三本の腕と四本脚で身体を支え、再びノアへ向き直る。
「た……す……け……」
脚の付け根の顔。
「ころ……して……」
腹の顔。
「あ……あ……」
背中からも声がした。
「……」
気味が悪い。可哀想だとも思う。だが、それで剣を下ろすわけにはいかない。
「俺も殺されたくないから」
ノアは《月銀の剣》を構えた。化け物が床を蹴る。巨体が一気に迫った。その直前。ぞわっ。《危険察知Ⅰ》。
「っ!」
ノアは横へ飛ぶ。化け物の巨体がすぐ脇を通過した。壁へ激突する。ドンッ!石片が落ちた。ノアはすぐに踏み込む。
「そこ!」
《月銀の剣》を振り下ろした。脚へ深く食い込む。黒い液体が飛び散る。
「ギィィィィ!」
身体が傾く。それでも倒れない。一本の脚を引きずりながら、三本の腕を振り回した。ぞわっ。危険察知。ノアは頭を下げる。一本目が頭上を通過。二本目。身体を捻る。三本目。
「っ!」
避けきれない。肩へ直撃した。
「ぐっ!」
ノアの身体が横へ飛ぶ。石床を転がる。肩が熱い。
「痛い……」
《黒鉄の胸甲》が守っていない場所だった。それでも折れてはいない。《耐久Ⅰ》がなければ、もっと酷い怪我になっていたかもしれない。ノアは立ち上がる。
「どこ斬れば死ぬんだよ」
首がない。頭も一つではない。心臓がどこなのかも分からない。腕を斬っても。脚を斬っても。止まらない。剣だけで倒そうとするのは難しい。ノアの目が、化け物を覆う黒い靄へ向いた。
「……呪い」
こいつは普通の魔物ではない。身体そのものが、強い呪いに包まれている。
「だったら」
左手を向ける。
「《浄化》!」
白い光が化け物へ直撃した。
「ギャアアアッ!」
やはり。剣で斬られた時より、明らかに苦しんでいる。黒い靄が薄くなる。
「もう一回!」
《浄化》。化け物が床を転がる。三本の腕で石床を掻きむしった。ガリガリと石が削れる。ノアは近づかない。
「《浄化》!」
三度目。その時だった。
「……ん?」
黒い靄が薄くなった一瞬。膨れた腹の中央に。何かが見えた。黒い。円形。金属。
「何だ、あれ」
肉の中へ埋まっている。腕輪のように見えた。だが、すぐに黒い靄が戻り、見えなくなる。
「……あれが原因?」
化け物が起き上がった。今度は床を這うように迫ってくる。ぞわっ。
「っ!」
ノアは後ろへ下がった。背中が壁へ当たる。
「まずい」
逃げ場がない。腕が伸びる。《月銀の剣》で払う。一撃。二撃。三本目を受け止める。
「重っ……!」
押される。力が違いすぎる。さっき組み付かれた時もそうだった。自分ではどうやっても振りほどけなかった。
「力じゃ勝てない」
ノアは横へ身体を滑らせた。腕が壁を叩く。石が砕ける。
「だったら、まともにやらない」
松明を見る。部屋の中央だけが明るい。壁際は暗い。ノアは《影隠しの外套》を握った。呼吸を抑える。足音を殺す。暗がりへ入る。《隠密Ⅰ》。姿が消えるわけではない。だが、動作音と気配は薄くなる。化け物の動きが止まった。
「……?」
いくつもの顔が別々の方向を見る。ノアはゆっくり横へ回る。一歩。また一歩。背後へ。三歩。二歩。その時。ぞわっ!
「!」
反射的に身体を引いた。見ていなかった腕が、後ろへ振り抜かれる。鼻先を掠めた。
「危なっ……!」
こちらが見えていなくても、腕を振り回している。だが《危険察知Ⅰ》のおかげで避けられた。腕が戻る。
「今!」
踏み込む。《月銀の剣》を両手で握る。狙うのは。さっき黒い物が見えた場所。腹の中央。
「っ!」
突き刺す。ズブッ!肉へ深く入った。
「ギャアアアアアア!」
化け物が暴れる。腕がノアへ伸びる。危険察知が激しく反応する。
「まだ!」
剣を横へ動かす。肉を切り開く。黒い液体が大量に溢れた。腐ったような臭い。吐きそうになる。それでも。
「見えた!」
肉の奥。黒い金属の輪。間違いない。腕輪だ。しかも、黒い靄のほとんどがそこから広がっている。
「これが原因か!」
ノアは剣を引き抜き、転がるように離れた。直後。腕が石床を叩く。ドンッ!床に亀裂が入った。
「……あれを浄化すれば」
全部消えるかもしれない。だが腕輪は肉の中だ。近づかなければならない。ノアは息を整える。敵を見る。片腕は使えない。脚も一本傷つけた。最初より遅い。それでも捕まれば力では勝てない。
「もう一回」
暗がりへ下がる。《隠密Ⅰ》。今度は動かない。待つ。化け物が周囲を探す。
「……あ……」
「たす……け……」
「ころ……して……」
いくつもの顔が声を漏らす。ノアは唇を噛んだ。
「……分かったよ」
助けられるかは分からない。だが。
「少なくとも、これよりはましだろ」
化け物が松明の近くへ移動した。腹の傷が見える。黒い腕輪。今。ノアは走った。ぞわっ。腕。身体を沈める。頭上を通過。二本目。《月銀の剣》で受け流す。三本目。避けきれない。
「ぐっ!」
背中へ当たった。前へ倒れそうになる。踏ん張る。あと一歩。ノアは左手を傷口へ突き出した。
「《浄化》!」
白い光。肉の中へ直接流れ込む。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!」
今までで一番大きな悲鳴。ノアは手を止めない。
「《浄化》!」
二度目。黒い靄が吹き出す。腕へ絡みつく。
「冷たっ……!」
指先が痺れた。それでも。
「《浄化》!」
三度目。黒い腕輪に白い光が走る。化け物の身体が大きく跳ねた。
「うわっ!」
ノアが弾き飛ばされる。床を転がる。すぐに剣を構え直した。
「来る……?」
化け物は動かなかった。脚が震えている。腕も力なく垂れ下がった。そして。黒い靄が。少しずつ消えていく。
「あ……」
脚の付け根にある顔が目を開いた。さっきまで濁っていた目。ほんの僅かに。人間らしい色が戻っていた。口が動く。
「……あり……」
その先は聞こえなかった。目が閉じる。化け物の身体が崩れ始める。
「……」
肉が溶けたわけではない。無理やり繋がれていた物が、支えを失ったように外れていく。腕。脚。人骨。腐った布。身体の一部。一つずつ床へ落ちていく。最後に膨れた胴体が崩れた。静かになった。ノアは剣を構えたまま待つ。《危険察知Ⅰ》。反応しない。
「……終わった?」
一分ほど待つ。何も動かない。そこで。
「ノアー!」
上から管理人の声がした。
「生きてるか!」
「生きてる!」
「ロープを持ってきたぞ!」
「ちょっと待って!」
「なんでだ!」
「確認する!」
「確認しなくていい! 早く上がってこい!」
「すぐ終わる!」
「危ないんだろう!」
「もう大丈夫!」
「本当か!」
「多分!」
「多分って言うな!」
管理人の声が地下へ響いた。ノアは化け物だったものへ近づく。床には、何人分なのか分からない骨や肉が散らばっていた。その中央。黒い物。
「やっぱり」
太い金属製の腕輪。化け物の腹へ埋まっていたものだ。近づくだけで寒気がする。
「呪物だ」
かなり強い。ノアは直接触れなかった。《月銀の剣》の先で引っかけ、肉の中から転がす。カラン。
「これが、あいつをあんなふうにしたのかな」
分からない。誰が作った。なぜここにいた。何人の身体が使われていた。ノアには何も分からない。ただ。これを浄化したら何になるのか。それだけは気になった。
「ノア!」
「今行く!」
鞄から布を出す。腕輪を何重にも包む。腰へ結ぶ。上からロープが降りてきた。
「掴め!」
「うん!」
ノアはロープを握る。管理人が上から引く。壁へ足をかけながら登る。肩。背中。腕。身体中が痛い。
「くっ……!」
「もう少しだ!」
最後は管理人に腕を掴まれ、納骨堂へ引き上げられた。ノアは床へ転がった。
「はぁ……」
「怪我は?」
「いっぱい痛い」
「血は?」
身体を見る。大きな傷はない。肩や背中を強く打っている。
「多分大丈夫」
「また多分か!」
管理人は本気で心配していたらしい。ノアが起き上がると、大きく息を吐いた。
「何がいた?」
「分からない」
「魔物か?」
「多分」
「どんな奴だ」
ノアは少し考えた。
「人間を、いっぱい変なところにくっつけたみたいな奴」
「……」
管理人の顔が青くなる。
「聞かなきゃよかった」
「俺も見たくなかった」
「倒したのか?」
「うん」
「一人で?」
「松明がなかったら無理だった」
ノアは管理人を見る。
「ありがとう」
「いや……それはいい」
管理人は床に開いた穴を見る。
「下にまだ何かいるのか?」
「《危険察知》は反応してない」
「そうか……」
ノアは腰へ結んでいた布包みを外した。
「それで」
「何だ?」
「化け物の中から、これが出てきた」
布を少し開く。黒い腕輪。管理人の顔がさらに引きつった。
「閉じろ」
「まだ何も聞いてないけど」
「閉じろ」
「うん」
ノアはすぐに包み直した。
「これ、多分呪われてる」
「持ってくるな!」
「もう持ってきた」
「そういう意味じゃない!」
「墓地の物だから聞くけど」
ノアは腕輪を持ち上げる。
「これ、処分していい?」
「いい!」
「持って帰っても?」
「持って帰れ!」
「本当に?」
「二度とここへ持ってくるな!」
「分かった」
ノアは腕輪を鞄へしまった。
「なんでそんな物を持って帰りたがるんだ……」
「《浄化》できるかもしれないから」
「浄化したらどうなる?」
「いい物になることがある」
「……それで命をかけるのか?」
「命はかけたくない」
「さっき死にかけただろ」
「今回は床が抜けただけだし」
「その後、化け物と戦っただろ!」
「それは予定外」
「……」
管理人は頭を抱えた。
◇
骨の整理は、その日では終わらなかった。床に大穴が開いた。その下から未知の地下空間まで見つかった。作業を続けられる状態ではない。管理人と一緒にギルドへ戻る。
「床の下から魔物が?」
受付の女性が驚いた。
「魔物はいないって聞いてたけど」
「下にもう一部屋あった」
「落ちたんですか?」
「うん」
「怪我は?」
「痛い」
受付の女性がノアの肩を見る。
「治療院へ行ってください」
「お金かかる?」
「今回はこちらで負担します」
「じゃあ行く」
「そこは即答なんですね」
管理人が横から口を挟む。
「追加報酬も出す」
「え?」
「元の依頼は骨の整理だ。下に化け物がいるなんて聞いていない」
「もらえるの?」
「当然だ」
「じゃあ欲しい」
「遠慮しないんだな」
「なんで?」
「……いや、いい」
ギルドでも、新しく見つかった地下空間を調査することになった。ノアは分かる範囲で場所と化け物の特徴を説明した。呪われた腕輪については、管理人から処分の許可をもらったことだけ伝えた。
◇
治療院で身体を見てもらった。骨折はない。肩と背中の打撲。数日は無理をするなと言われた。ノアはそのまま住処へ戻る。扉を閉めた。鞄を置く。
「……疲れた」
今日は何時間も骨を分けた。床が抜けた。落ちた。暗闇で化け物に襲われた。身体中が痛い。本当なら寝たい。だが。鞄を見る。
「……」
気になる。
「少しだけ」
布包みを取り出す。机代わりの木箱へ置いた。布を開く。黒い腕輪。近くにあるだけで冷気を感じる。
「家の指輪より強そうだな」
少し距離を取る。手を向けた。
「《浄化》」
白い光が腕輪を包む。黒い靄が膨らんだ。バチッ!弾ける。
「……強い」
もう一度。
「《浄化》」
少し薄くなる。だが、すぐに黒い靄が戻ってくる。ノアは焦らなかった。強い呪いほど時間がかかる。それはもう知っている。少し休む。パンを食べる。水を飲む。身体を休ませてから、また。
「《浄化》」
白い光。少しずつ。黒いものを削っていく。何度目だったか。腕輪の表面が僅かに見え始めた。
「もう少し」
「《浄化》!」
黒い靄が大きく膨らんだ。白い光が押し返す。そして。ぱきん。小さな音。黒い靄が一気に消えた。
「……お」
腕輪の姿が変わった。黒ずんでいた金属が、鈍い銀色へ戻る。太めの腕輪。表面には、人の身体を囲むような紋様が刻まれていた。文字が浮かぶ。
────────────
《剛身の腕輪》
等級:希少級
技能:《身体強化Ⅰ》
────────────
「身体強化……」
その瞬間。腕輪から何かが流れ込んできた。腕だけではない。肩。背中。腹。脚。身体の隅々まで熱が走る。
────────────
《身体強化Ⅰ》を習得しました。
────────────
「……っ」
ノアは立ったまま、自分の身体を見る。見た目は変わっていない。腕が太くなったわけでもない。背が伸びたわけでもない。相変わらず十五歳の細い身体。
「本当に強くなった?」
試しにその場で軽く跳ぶ。
「おっ」
思ったより身体が浮いた。着地。もう一度。今度は少し強く床を蹴る。
「……軽い」
身体そのものが軽くなったように感じる。違う。身体が軽くなったのではない。自分の身体を動かす力が増えたのだ。木箱の横に置いてある水桶へ手を伸ばす。持ち上げる。
「軽い」
以前より力が入る。今度は部屋の端から端まで軽く走る。狭いので数歩しかない。それでも。最初の一歩が明らかに速い。
「力だけじゃないんだ」
腕力。脚力。瞬発力。身体全体。全部が少しずつ底上げされている。
「これ、いいな」
地下で化け物に組み付かれた時を思い出す。あの時はどうやっても振りほどけなかった。腕一本すら動かせなかった。《身体強化Ⅰ》があれば。
「今なら、もう少し抵抗できるかも」
もちろん、あの化け物と真正面から力比べをして勝てるとは思わない。まだⅠだ。自分の身体も細いまま。それでも。できなかったことが。少しずつできるようになっている。ノアは、自分が持っている力を頭の中で並べた。《浄化Ⅱ》。《剣術Ⅰ》。《耐久Ⅰ》。《隠密Ⅰ》。《危険察知Ⅰ》。そして。《身体強化Ⅰ》。
「……強くなってる」
一か月。呪物は一つも見つからなかった。探しても。探しても。何もなかった。それなのに。誰も受けたがらなかった墓地の仕事を受けたら。床の下から。また一つ。自分を強くしてくれる物が出てきた。ノアは浄化された《剛身の腕輪》を見る。
「誰もやりたがらない仕事……」
呪われた家。墓地。地下室。死体。普通の人間が避ける場所。普通の冒険者が嫌がる依頼。そこには。呪われた物が残っている可能性がある。
「……そういう仕事を探せばいいのか」
ゴミ捨て場だけではない。誰も触りたくない物。誰も近づきたくない場所。誰も受けたくない依頼。他人にとっての外れが。自分にとっては。強くなるための当たりかもしれない。ノアは《剛身の腕輪》を握った。一か月ぶりに見つけた呪物は。また一つ。ノアを強くしていた。




