第5話 狙われる側
男が一歩近づいた。その瞬間、鼻を突く臭いがした。酒。かなり飲んでいる。頬も少し赤い。
「……酒くさ」
「あ?」
「何でもない」
酔っている。だから弱い。そんな都合のいい話ではない。男はノアより頭二つ近く大きい。腕も太く、剣を握る手にも慣れが見える。もう一人もいる。二対一。森では四体のゴブリンを倒した。だが、四体同時に戦ったわけではない。一体ずつにしたから勝てた。今は二人とも最初からノアを見ている。
「聞こえなかったのか?」
男が剣を軽く振った。
「剣と鎧を置け」
ノアは少しだけ肩を落とした。
「……分かった」
「そうそう。それでいい」
男の笑みが深くなる。隣の男も鼻で笑った。
「最初から大人しくしときゃいいんだよ」
ノアは《月銀の剣》から右手を離した。抵抗するつもりはない。そう見せる。
「まず剣を外せ」
「分かったって」
左頬の男が近づいてくる。一歩。もう一歩。ノアは右手を腰へ下ろした。触れたのは剣ではない。ズボンのポケット。指先にざらついた感触がある。土。森でゴブリンの目へ泥を投げたあと、使えると思って少しだけ入れておいた。
「何してんだ?」
「今外す」
「早くしろ」
近い。ノアは拳いっぱいに土を掴んだ。
「ほら」
「あ?」
右手を振り抜いた。乾いた土が男の顔面へ広がる。
「ぶっ――!」
目。鼻。口。まともに入った。
「ぐあっ! てめぇ!」
男が顔を押さえた。ノアはもう走っていた。
「なっ!?」
痩せた男が一瞬遅れる。細い路地を全力で駆け抜ける。
「待て!」
後ろから怒声。
「このガキ!」
まだ追ってくる。
「殺すぞ! 待て!」
「待つわけないだろ!」
ノアは角を曲がった。洗濯物の下をくぐり、積まれた木箱の横を抜ける。後ろから何かが倒れる音。二人とも諦めていない。むしろ完全に怒らせた。
「はっ……はっ……」
ノアの息が荒くなる。《耐久Ⅰ》があっても、走り続ければ疲れる。しかも今日は胸甲を身につけている。体格では向こうが上だ。長く追いかけられれば不利になる。また角を曲がった。そこで見覚えのある白い石壁が目に入る。
「教会……?」
昨日、ギフトの儀を受けた教会の裏手だった。正面とは違い、人通りはない。物置や倉庫が並び、その奥は行き止まりになっている。
「くそ」
戻ることはできない。すぐ後ろから足音がする。周囲を見る。閉じられた扉。小さな窓。そして石壁の脇に、地下へ続く階段があった。階段の先にある鉄扉は、完全には閉まっていない。
「ここしかない」
ノアは身体を滑り込ませた。扉を静かに戻す。中は暗かった。石の階段がさらに地下へ続いている。そして冷たい。
「……寒い」
下へ降りるにつれ、薬草と酒精のような臭いが強くなった。さらに、その奥に別の臭いが混じる。死臭。ノアは階段の先で足を止めた。広い石造りの部屋。壁際には簡素な台が並び、その上には白い布をかけられた人の形がある。
「遺体安置所……」
教会が身元の分からない死者や、引き取り手のいない遺体を一時的に置く場所だ。上から声が聞こえた。
「どこ行きやがった!」
ノアはすぐに身を低くした。部屋の奥へ移動し、大きな棚の陰へ身体を滑り込ませる。胸甲が壁へ当たらないよう手で押さえた。扉が開く。
「ここか?」
「地下?」
「死体置き場じゃねえか」
二人の声。階段を下りてくる。ノアは息を殺した。
「ガキ! いるんだろ!」
返事はしない。
「出てこい! 剣と鎧だけ置けば許してやる!」
さっきは殺すと言っていた。信用できるわけがない。男たちはしばらく室内を探した。棚。台。木箱。だが奥までは確認しなかった。
「いねえぞ」
「裏から抜けたか?」
「くそ。外探すぞ」
「見つけたら脚折ってやる」
足音が遠ざかる。階段を上がる。扉が閉じた。ノアはそのまま動かなかった。すぐ戻ってくるかもしれない。しばらく待つ。何も聞こえない。
「……はぁ」
ようやく息を吐いた。二人と戦わなくてよかった。土を投げて逃げた。格好いい戦い方ではない。でも。
「生きてる」
それで十分だった。棚の陰から出る。改めて周囲を見ると、部屋はかなり汚れていた。床には泥。台車には乾いた血。壁にも古い染みが残っている。鼻につく臭いも強い。
「まだ外には出ない方がいいな」
追手が離れるまで時間を潰す必要がある。ノアは右手を床へ向けた。
「《浄化》」
白い光が広がる。泥が消えた。もう一度。
「《浄化》」
壁の染みが薄くなる。血のついた台車。汚れた床。古い布。次々に浄化していく。遺体そのものには触れなかった。ただ、その周囲だけを綺麗にする。何度か使っているうちに、ノアは首を傾げた。
「……広くなってる?」
昨日までより、一度に届く範囲が少し広い。試しに床の一部分ではなく、部屋の隅全体を意識する。
「《浄化》」
白い光が大きく広がった。
「やっぱり」
使い方によって変わる。ノアは何度も試した。狭く。強く。広く。なるべく少ない力で。白い光を繰り返していると、部屋の空気まで少しずつ軽くなっていった。その時。階段の上から別の声が聞こえた。
「こっちへ」
ノアは動きを止めた。追手ではない。足音も違う。すぐに棚の陰へ戻る。二人ほどが降りてきた。
「また森か」
「ああ」
教会の人間らしい。何か重いものを運んでいる。やがて台へ置く音がした。
「これで何人目だ?」
「最近だけで三人だ」
「魔物じゃないんだろ?」
「剣傷だ。しかも装備も財布も全部持っていかれてる」
「冒険者狙いの殺人者か」
「ギルドにも話は行ってるらしい。まだ犯人は分かってないがな」
ノアは息を潜めたまま、その会話を聞いた。森。冒険者。剣で殺されている。装備と金を奪われる。
「……」
脳裏に浮かんだのは、左頬に傷のある男だった。最初に会った時から、《月銀の剣》を見ていた。今日も剣と胸甲を渡せと言った。断れば殺すつもりだった。
「まさか……」
証拠はない。だが、偶然にしては似すぎている。教会の二人は遺体を置くと、そのまま階段を上っていった。静かになる。ノアはしばらく待ってから棚の陰を出た。
「……あいつら、なのか?」
もしそうなら。逃げても終わらない。装備を持っている限り、また狙われるかもしれない。そんなことを考えていた時。指先が冷たくなった。
「……ん?」
地下の冷気とは違う。知っている感覚。《月銀の剣》。《黒鉄の胸甲》。呪われた品を見つけた時と同じだった。ノアは部屋の奥を見る。遺体とは別に、その持ち物が置かれている棚がある。服。鞄。折れた武器。靴。小物。その中。黒ずんだ外套に、薄い黒い靄がまとわりついていた。
「これだ」
ただし、廃品置き場ではない。誰かの遺品だ。ノアは近くに置かれていた札を見る。知らない名前。もう死んでいる人間の物。ノアは黙った。勝手に持っていけば盗みだ。それくらいは分かる。でも、外では自分を殺そうとしている男たちがいる。ノアは遺体が並んでいる方へ身体を向けた。頭を下げる。
「……すみません」
静かな部屋へ声が落ちた。
「命を狙われているので、使わせてください」
返事はない。それでも、言っておきたかった。ノアは外套から距離を取った。
「《浄化》」
白い光。普通の埃や泥が消える。だが黒い靄は残った。
「やっぱり呪いか」
もう一度。
「《浄化》」
黒い靄が揺れた。外套からわずかに灰色の布地が現れる。
「まだ」
《浄化》。黒い靄が膨らむ。ノアは距離を保つ。《月銀の剣》と《黒鉄の胸甲》で、呪いの扱い方は少し分かってきた。焦らない。頭が重くなれば休む。一度で全部消そうとしない。何度も削る。
「《浄化》」
黒い靄が薄くなる。休む。呼吸を整える。また右手を向ける。
「《浄化》!」
今度は白い光が大きく広がった。黒い靄が抵抗するようにうねる。
「消えろ……!」
さらに力を込める。白い光が外套全体を包み込んだ。黒い靄が裂ける。細かく散り。やがて完全に消えた。
「はぁ……はぁ……」
ノアは膝へ手をつく。かなり疲れた。だが、目の前には本来の姿へ戻った外套がある。深い灰色。薄く、軽い。端には目立たない刺繍が入っていた。慎重に触れる。嫌な寒気はもうない。文字が浮かぶ。
────────────
《影隠しの外套》
等級:希少級
効果:動作音と気配をわずかに抑える
────────────
さらに。
────────────
《影隠しの外套》に残された技能を継承しました。
《隠密Ⅰ》を獲得しました。
────────────
「《隠密Ⅰ》……」
ノアは外套を羽織った。ゆっくり歩いてみる。足を置く位置。身体の重心。衣擦れを減らす動き。完全に音が消えるわけではない。でも、静かに動こうとした時の感覚が明らかに違う。
「これなら……」
その時。もう一つ文字が浮かんだ。
────────────
《浄化Ⅰ》の熟練度が一定値に達しました。
《浄化Ⅰ》が成長しました。
《浄化Ⅱ》を獲得しました。
────────────
「……上がった」
ノアは右手を見る。床へ向ける。
「《浄化》」
白い光が広がった。さっきより明らかに広い。しかも同じ範囲を浄化しても、頭にかかる重さが少ない。
「使えば育つんだ」
装備だけではない。自分のギフトそのものも成長する。ノアは少しだけ笑った。そして。また寒気を感じた。
「……まだある?」
棚の一番奥。古い布の下。木片で布をめくる。そこには、一振りのナイフがあった。鞘まで黒い靄に覆われている。外套よりも濃い。ノアは一歩下がった。
「これは……強いな」
すぐに手を出すのは危険だった。だが、置いていけば誰かに処分されるかもしれない。ノアは厚い布を《浄化》し、そのナイフを何重にも包んだ。直接触れないように持ち上げる。それだけで指先が冷えた。遺体の方へもう一度頭を下げる。
「これも、使わせてください」
外套の内側へ包みを隠した。
◇
ノアが教会を出た頃には、外はかなり暗くなっていた。追手の姿はない。そのままスラムへ帰ることもできた。だが。
「また来るよな」
装備を渡さなかった。土まで顔へ投げつけた。相手が諦めるとは思えない。それに、遺体安置所で聞いた話もある。森で冒険者が殺されている。金と装備を奪われている。
「……確かめたい」
ノアは人気の少ない場所へ移動した。腰を下ろす。外套の内側から、布に包んだナイフを取り出した。そして。しばらく、その黒い靄を見つめた。
◇
日が完全に沈む前。ノアは街の外へ出た。《影隠しの外套》を羽織っている。腰には《月銀の剣》。胸には《黒鉄の胸甲》。そして、服の内側にはもう一つ。何も見えないように隠してある。森へ続く道を歩く。しばらくして。後ろから足音が聞こえた。
「……来た」
振り返らない。二人。声も聞こえる。
「いたぞ」
「今度は逃がすな」
やはり追ってきた。ノアはそのまま森へ入った。
「おい! 待て!」
走らない。むしろ二人がついてくる程度の速度で進む。木々が増える。道が狭くなる。街から見えなくなる。そこでノアは速度を上げた。
「逃げたぞ!」
「追え!」
二人の足音が近づく。ノアは太い木の陰へ入る。そして。《隠密Ⅰ》。呼吸を抑える。足の置き方を変える。外套が身体の動きに合わせて、わずかに気配を薄くする。二人が走ってきた。
「どこ行った?」
「この辺だろ!」
左頬の男。痩せた男。二人とも周囲を見る。ノアは動かない。
「分かれて探すぞ」
その言葉を待っていた。痩せた男が右へ。左頬の男が左へ。距離が開く。ノアは静かに痩せた男の後ろへ回った。一歩。もう一歩。以前なら、ここまで近づけば気づかれたかもしれない。男は振り返らない。ノアは《月銀の剣》を抜いた。
「――っ!」
背中から突き刺す。
「がっ……!」
男の身体が大きく震えた。ノアはすぐ剣を抜き、もう一度斬る。今度は首。血が飛んだ。痩せた男が地面へ倒れる。
「一人」
「てめぇ!」
怒声。左頬の男が戻ってきた。
「やりやがったな!」
剣を構える。酔いはもうほとんど抜けているように見えた。ノアも《月銀の剣》を構える。一対一。
「これなら」
「調子に乗るなよ、ガキ!」
男が踏み込んだ。速い。
「っ!」
剣が横から来る。ノアは受けた。金属音。腕へ強い衝撃。
「重っ!」
剣を弾かれる。男がもう一歩入ってくる。蹴り。腹。
「ぐっ!」
《黒鉄の胸甲》が守る。それでも身体ごと後ろへ飛ばされた。地面へ転がる。
「弱ぇ!」
男が追ってくる。ノアは立ち上がりながら剣を振った。男は簡単に避けた。
「剣術持ちか?」
「……」
「でも、使い方がガキだな!」
再び剣。ノアは受ける。一撃。二撃。三撃。重い。男は明らかに人を斬り慣れている。《剣術Ⅰ》で動き方は分かる。でも、経験が違いすぎる。
「くっ……!」
ノアは後ろへ下がる。男は逃がさない。剣が肩を掠めた。外套が裂ける。
「ちっ」
「どうした!」
男が笑う。
「ゴブリン相手に少し勝てるようになったくらいで、人間にも勝てると思ったか?」
ノアは答えない。呼吸が苦しい。腕も痺れてきた。まともに剣で戦えば負ける。分かっていた。だから。ノアは足元の土へ視線を落とした。男が笑う。
「また土か?」
「……」
「同じ手を二回も食らうと思ってんのか!」
ノアが左手を動かした瞬間、男は顔を庇った。だが。ノアは土を投げなかった。そのまま横へ走る。
「なっ!」
一瞬だけ作った隙。木の間へ逃げ込む。《隠密Ⅰ》。気配を抑える。男が追う。
「小賢しい!」
ノアは木の裏から斬りかかった。だが。
「見えてんだよ!」
剣で受けられた。
「っ!」
力で押し返される。男の肩がノアの胸へぶつかった。倒れる。《月銀の剣》が手から離れた。数歩先の地面へ転がる。
「あ……」
立ち上がろうとした。その前に、男の足が胸甲を踏みつけた。
「ぐっ!」
動けない。男の体重がかかる。《耐久Ⅰ》があっても苦しい。
「終わりだ」
男がノアを見下ろした。口元には笑み。
「惜しかったな。もう少し大人になるまで安物使ってりゃ、生きていられたかもしれねえのによ」
剣を振り上げる。
「お前みたいな若造がいい装備持っていると狙われるんだよ」
ノアは男を見る。遺体安置所で聞いた話が頭をよぎる。森で殺された冒険者。なくなった装備。財布。
「……森の冒険者も?」
男の笑みが深くなった。
「さあな」
否定しない。むしろ楽しんでいる。
「安心しろ。お前の剣も鎧もちゃんと使ってやる」
「……やっぱり」
「勉強になっただろ?」
剣先がノアへ向く。
「人の少ないところでいい装備見せびらかすな」
男が笑った。
「あの世の土産として覚えておけ」
剣が振り下ろされる。その瞬間。ノアの右手が外套の内側へ入った。布に隠していた柄を握る。抜く。
────────────
《宵闇の短剣》
────────────
黒い刃が現れた。
「な――」
男の剣が届くより先に。ノアは短剣を男の脇腹へ突き刺した。
「ぐっ!?」
男の身体が止まる。ノアは離さない。さらに押し込む。
「て、めぇ……!」
胸を踏んでいた力が緩んだ。ノアは身体を捻って抜け出す。男が短剣を抜こうと手を伸ばす。その前に。ノアは一度抜いた。そして。もう一度。今度は腹へ深く突き刺す。
「がっ……!」
男が膝をついた。ノアは距離を取らない。ここで止めれば。また立つかもしれない。また剣を振るかもしれない。昨日のゴブリンで学んだ。倒れるまで。動かなくなるまで。終わりではない。
「……殺されるのは嫌だから」
ノアは《宵闇の短剣》を引き抜いた。最後に。首へ突き立てた。男の身体から力が抜ける。地面へ倒れた。
「……」
ノアはしばらく動かなかった。息が荒い。手も震えている。人を殺した。ゴブリンとは違う。同じ人間。でも。男は自分を殺そうとした。剣を奪うために。鎧を奪うために。そして、おそらく他の冒険者にも同じことをしていた。ノアは地面へ落ちていた《月銀の剣》を拾った。二人の死体を見る。
「……俺は悪くない」
口に出してみる。少し違う気がした。正しいかどうかを決めたいわけではない。ノアは言い直した。
「死にたくなかっただけだ」
それなら、しっくりきた。《宵闇の短剣》についた血へ右手を向ける。
「《浄化》」
白い光が血を消す。黒い刃が再び現れた。ノアは短剣を見つめた。遺体安置所で。これを浄化した時。何が表示されたのか。それを知っているのは、まだノアだけだった。短剣を鞘へ戻す。外套の内側へ隠した。
「これは……見せない方がいいな」
《月銀の剣》。《黒鉄の胸甲》。《影隠しの外套》。それだけでも、すでに人間から狙われた。なら。切り札くらい。誰にも知られない方がいい。ノアは二人の死体を見下ろした。そして森の出口へ向かう。今日は。ゴブリンではなく。自分を狩ろうとした人間を殺して、生き残った。




