第4話 卑怯でいい
《黒鉄の胸甲》を身につけて歩くと、昨日までとは身体の感覚が少し違った。黒銀色の胸甲は見た目ほど重くない。それでもシャツ一枚だった時とは違い、走れば肩や脇へ重さがかかる。ノアの痩せた身体には少し大きかったが、紐をきつく締めれば戦うには問題なさそうだった。何より、《耐久Ⅰ》を得てから身体の芯が少し強くなったような気がする。試しに腹を軽く拳で叩いてみた。
「……よく分からないな」
痛くないわけではない。ただ、以前ならしばらく残りそうな鈍い感覚がすぐ消えた。実際に攻撃を受ければ、もっと分かるのかもしれない。
「できれば受けたくないけど」
わざわざ痛い思いをして確かめる必要はない。ノアは《月銀の剣》を腰へ差し、冒険者ギルドへ向かった。受付では昨日と同じゴブリン討伐を選ぶ。
「今日は防具があるんですね」
「拾いました」
「……またですか」
「はい」
受付の女性は何か言いたそうな顔をしたが、結局それ以上は聞かなかった。
「無理だけはしないでくださいね」
「分かってます」
依頼票を受け取り、そのまま街を出た。
◇
森へ入って一時間ほど。ノアは太い木の陰から、前方を覗いていた。ゴブリンが四体いる。一体は棍棒。もう一体は錆びた短剣。残り二体は石を削って作ったような粗末な斧を持っていた。地面には食い散らかされた小動物の骨が転がり、四体はその中央で何かの肉を奪い合っている。
「四体か」
昨日なら、見つけた時点で引き返していた。一体を相手にしただけで腕を裂かれたのだから当然だ。今日は《黒鉄の胸甲》がある。《耐久Ⅰ》もある。そして何より、昨日よりゴブリンの動きを少し知っている。だからといって、四体まとめて戦う気はなかった。
「一体ならやれる」
四体なら。一体ずつにすればいい。ノアはゆっくり後ろへ下がり、足元から小石を拾った。狙うのはゴブリンではない。四体から少し離れた茂みへ投げる。石が枝へ当たった。ガサッ。
「ギャ?」
一体が顔を上げた。棍棒を持ったゴブリンだ。残りの三体も一度だけ周囲を見たが、すぐに肉の奪い合いへ戻った。
「ギャッ」
棍棒持ちだけが音のした方向へ歩いてくる。ノアは木の反対側へ回った。呼吸を抑える。落ち葉を踏む音が近づいてきた。一歩。二歩。ゴブリンが木の横を通り過ぎる。背中。ノアは飛び出した。
「っ!」
《月銀の剣》を振り下ろす。銀色の刃が首の後ろへ深く食い込んだ。
「ギッ……」
ゴブリンは振り返ることもできず、その場へ崩れ落ちた。ノアは倒れる身体を支え、なるべく音を立てないよう茂みへ引きずり込む。
「一体」
昨日とは違う。怪我もしていない。ノアは残り三体を見る。同じ手がもう一度通じるとは限らない。少し考え、倒したゴブリンの棍棒を拾った。今度は小石より遠くへ放り投げる。棍棒が地面へ落ち、大きな音がした。
「ギャギャ?」
残った三体が一斉に顔を上げた。一体が立ち上がる。短剣持ち。もう一体も動こうとしたが、最後の一体が何か叫び、二体はその場へ残った。
「一体だけ来い」
ノアは木陰へ隠れた。短剣持ちは、先ほどのゴブリンより警戒している。歩く速度も遅い。茂みを短剣で突きながら進み、何度も左右を確認する。
「同じのは無理か」
なら別の方法を使う。ノアはしゃがみ込み、足元の湿った土を左手で掴んだ。ゴブリンが木の横から顔を出す。目が合った。
「ギャッ!」
短剣が上がる。ノアは剣ではなく、左手を振った。泥がゴブリンの顔へ飛ぶ。
「ギャアッ!」
両目を押さえた。短剣を滅茶苦茶に振り回す。ノアはすぐには近づかない。刃の届く範囲を見る。一歩外。横へ回る。首が空いている。《月銀の剣》を振った。刃が首へ入る。
「ギッ!」
浅い。ゴブリンは倒れなかった。ノアはもう一度踏み込んだ。今度は深く。ゴブリンが膝から崩れる。
「二体」
目へ泥を投げた。卑怯なのかもしれない。でもノアには、どうでもよかった。スラムでの喧嘩なら石も使う。棒も使う。相手が転べば蹴る。三人で一人を囲むことだって珍しくない。魔物相手だけ正々堂々戦わなければならない理由など、どこにもない。死んだら終わりだ。
「ギャアアッ!」
残り二体が異変に気づいた。石斧を握り、同時に走ってくる。
「まあ、そうなるよな」
ノアは逃げた。背中を向けて、木々の間を全力で走る。二体を正面から待ち受ける必要はない。後ろから足音が追ってくる。しばらく走ると、二つの足音にずれが出てきた。一体の方が速い。もう一体が徐々に遅れる。ノアは振り返った。十分に離れた。
「それでいい」
太い木を回り込み、急に足を止める。先頭のゴブリンが勢いよく飛び出してきた。石斧を大きく振り上げている。ノアは木の陰から《月銀の剣》を突き出した。
「ギャッ!?」
走っていたゴブリンは止まれない。そのまま自分から刃へ突っ込んできた。腹へ深く刺さる。
「重っ……!」
ゴブリンの体重が剣へ乗った。ノアは押し倒されそうになりながら、身体を横へずらす。ゴブリンが地面へ転がった。剣を引き抜く。まだ生きている。とどめを刺そうとした時、二体目が追いついた。
「ギャアッ!」
横から石斧が来る。
「っ!」
避ける。間に合わない。ゴンッ!石斧が《黒鉄の胸甲》へぶつかった。
「ぐっ!」
強い衝撃。ノアの身体が横へ弾かれた。肩から地面へ転がる。
「っ……痛い!」
胸を押さえる。痛い。だが息はできる。骨が折れた感じもしない。ノアは一瞬だけ胸甲を見る。石斧が当たった場所には、小さな傷がついているだけだった。
「これが《耐久Ⅰ》……?」
胸甲が守っただけではない。身体そのものが衝撃へ耐えたような感覚がある。だが、ゴブリンはもう追ってきていた。確かめている暇はない。ノアは立ち上がる。石斧が上から振り下ろされた。今度は横へ避ける。刃が地面へ食い込んだ。
「今だ」
ゴブリンの顔を蹴る。
「ギャッ!」
仰け反った。ノアはその胸へ剣を振る。肩口から深く斬り込む。まだ倒れない。
「しぶといな!」
もう一歩踏み込み、今度は喉を狙った。刃が入る。ゴブリンが崩れ落ちた。背後で草が動く。最初に腹を刺したゴブリンだった。地面を這っている。逃げようとしていた。ノアは追いつく。
「逃がさない」
背中へ剣を突き刺す。短い鳴き声。それで動かなくなった。逃げる敵を斬ることに迷いはなかった。生き残れば仲間を連れて戻ってくるかもしれない。それに、自分はゴブリンを討伐するために来ている。
「……四体」
ノアは剣を抜き、息を整えた。最初から四体へ突っ込んでいたら勝てなかった。一体ずつ引き離す。警戒されたら目を潰す。二体に追われたら、足の速い一体だけ先に来させる。
「正々堂々なんて、いらないな」
勝てる形にしてから戦えばいい。それで生き残れるなら、その方がいい。ノアは四体分の討伐証明を集めた。最後に《黒鉄の胸甲》へ触れる。石斧が当たった部分には小さな傷が残っていた。
「すごいな」
昨日の自分なら、あの一撃で大怪我していたかもしれない。《黒鉄の胸甲》。《耐久Ⅰ》。確実に強くなっている。だからこそ、勘違いしない。
「でも痛いものは痛い」
攻撃を受けても平気になったわけではない。受けない方がいい。ノアは《月銀の剣》についた血を《浄化》で落とし、街へ戻った。
◇
「四体ですね」
受付の女性が討伐証明を確認した。
「はい」
「怪我は?」
「ないです」
「なら結構です。無茶だけはしないでください」
「分かってます」
それだけで受付は報酬を渡した。ノアは銅貨を数え、少し嬉しくなる。昨日より多い。これなら食べても金が残る。毎日同じように稼げるとは限らない。それでも、昨日までより明らかに生活が変わり始めている。ギルドを出る。
「今日は肉も買えるな」
明日の分のパンも欲しい。全部使わず、少し残しておきたい。昨日までは、今日食べられるかどうかしか考えられなかった。今は明日の食事まで考えている。たったそれだけなのに、ずいぶん違った。夕方になり、ノアはスラムへ続く細い通りへ入った。露店も店じまいを始め、人通りが少なくなっている。
「おい」
前から声がした。ノアは足を止めた。見覚えのある男が立っている。太い首。無精髭。左頬に斜めに走った古い傷。防具屋から出たところで肩をぶつけてきた男だった。
「……あ」
その隣にはもう一人。痩せた男が壁へ寄りかかり、短剣を弄んでいる。二人。
「何?」
左頬に傷のある男は答えず、ノアを上から下まで眺めた。最初に見るのは《黒鉄の胸甲》。次に《月銀の剣》。口元が歪んだ。
「昨日よりずいぶん羽振りがいいじゃねえか」
「そうでもない」
「その剣も、その鎧も、ガキが持つには立派すぎるだろ」
「拾った」
「へえ」
男が一歩近づいてくる。
「ずいぶん運がいいんだな」
「そうかも」
ノアは二人を見る。一人なら戦えるかもしれない。だが、人間二人を同時に相手にしたことはない。左頬の男は、自分より頭二つ近く大きい。隣の男も武器を持っている。森では四体のゴブリンを倒した。でも、一度に四体と戦ったわけではない。一体ずつにしたから勝てた。
「俺、帰りたいんだけど」
「帰れるさ」
左頬の男が笑う。
「身軽になればな」
視線が《月銀の剣》へ落ちる。ノアは右手を下げ、剣へ届く位置へ置いた。それを見て男が鼻で笑った。
「やめとけ。昨日までスラムでゴミ漁ってたガキだろ?」
腰の剣へ手をかける。隣の男も壁から身体を離し、短剣を握った。
「二人相手に勝てると思ってんのか?」
ノアは答えなかった。正面から二人。今の自分にできるか。分からない。左頬の男が、ゆっくり剣を抜いた。
「その立派な剣と鎧を置いていけ」
黄色い歯を見せて笑う。
「死にたくなければな」




