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スラム育ちの俺《浄化》スキルで成り上がる  作者: 月瀬 リュカ


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第3話 黒鉄の胸甲

 街を出て森へ入ってから、ノアは何度も腰の剣へ手を伸ばしていた。《月銀の剣》がある。《剣術Ⅰ》も覚えた。ギルドで受けた依頼は、初心者向けのゴブリン討伐だ。受付の女性も、一体だけなら新人でも倒せることが多いと言っていた。それでも、実際に魔物がいる森へ足を踏み入れてみると、話を聞いている時とはまるで違った。風で枝が揺れる。茂みから鳥が飛び立つ。そのたびに、何かが飛び出してくるような気がした。

「……怖いな」

 口に出す。少しだけ気持ちが楽になった。怖いものは怖い。強がったところで、剣が上手くなるわけではない。ノアは足音を抑えながら森を進んだ。しばらくすると、風に乗って嫌な臭いが流れてきた。

「……くさ」

 腐った肉と獣の糞を混ぜたような臭いだった。ノアは足を止め、《月銀の剣》の柄へ手を置く。前方の茂みが揺れた。

「ギャッ」

 小さな緑色の身体が現れた。ノアより頭一つ以上小さい。腰には汚れた布を巻き、細い腕には太い棍棒を持っている。口から突き出した黄色い歯には、黒い汚れがこびりついていた。ゴブリン。向こうもノアに気づいた。

「ギャギャッ!」

 逃げない。むしろ嬉しそうに棍棒を振り上げ、こちらへ走ってくる。

「本当に来るのかよ!」

 ノアは《月銀の剣》を抜いた。銀色の刃が木漏れ日を反射する。ゴブリンが間合いへ入る。棍棒が振り下ろされた。怖い。だが、どう動けばいいのかは分かる。《剣術Ⅰ》。ノアは半歩横へずれた。棍棒が肩の横を通り過ぎる。

「っ!」

 そのまま剣を振った。銀色の刃がゴブリンの右腕へ深く食い込む。

「ギャアッ!」

 血が飛んだ。棍棒が地面へ落ちる。深く斬った。これで終わった。一瞬、そう思った。だがゴブリンは倒れなかった。血を流したまま地面を蹴る。

「え――」

 腹へ頭からぶつかってきた。

「ぐっ!」

 息が抜ける。ノアは背中から地面へ倒れた。ゴブリンがそのまま飛びかかってくる。黄色い歯。汚れた爪。顔へ伸びてきた手を、ノアは咄嗟に左腕で防いだ。

「っ!」

 三本の爪が皮膚を裂く。熱い。次の瞬間、焼けるような痛みが走った。

「このっ!」

 右手に握った剣を、下から突き上げる。銀色の刃がゴブリンの腹へ入った。

「ギ……」

 今度は明らかに手応えが違った。肉を裂く抵抗。奥へ入り込む感触。気持ち悪い。それでもノアは止めなかった。歯を食いしばって剣を押し込む。ゴブリンの口から血が垂れ、身体から力が抜けた。ノアは死体を横へ押し退ける。

「はぁ……はぁ……」

 しばらく立てなかった。心臓がうるさいほど鳴っている。

「……危なかった」

 剣術を覚えた。希少級の剣も持っている。だから何となく、もっと簡単に勝てると思っていた。全然違った。一度斬って油断しただけで、殺されかけた。ノアは身体を起こそうとして、左腕の痛みに顔をしかめた。血が手首まで流れている。傷そのものは深くない。だが、ゴブリンの爪はひどく汚れていた。

「これ、まずいよな」

 スラムでは小さな傷を放置したせいで、腕を腐らせた人間を見たことがある。薬を買えない。治癒術師にも頼めない。そういう人間は、少しの怪我でも死ぬことがある。ノアは傷口へ右手を向けた。

「《浄化》」

 白い光が左腕を包む。傷へ入り込んでいた泥が消えた。ゴブリンの血も、汚れもなくなる。ただし裂けた皮膚はそのまま。血も少しずつ滲んでいる。

「やっぱり治らない」

 それでも、傷口を清潔にできる。ないよりはずっといい。問題は包帯だった。そんなものは持ってきていない。

「準備不足だな……」

 周囲を探す。木の根元に古い布切れが落ちていた。泥まみれで、普通なら傷へ巻く気にはならない。ノアは右手を向ける。

「《浄化》」

 白い光が布を通り抜けた。泥が落ちる。臭いも消える。残ったのは、古いが清潔な布だった。

「これなら使える」

 細く裂き、左腕へ巻く。片手では少し苦労したが、なんとか固定できた。ノアは腕を動かしてみる。痛い。でも剣は握れる。

「傷は治せなくても、こういう使い方はできるんだな」

 《浄化》。教会では掃除のためのギフトだと笑われた。実際、掃除にも使える。でもそれだけではない。汚れた傷口を綺麗にできる。拾った布を包帯代わりにできる。使い方を考えれば、まだ他にも何かできるかもしれない。ノアは倒れたゴブリンを見る。初めて自分で殺した生き物だった。腹へ剣を刺した感触は、まだ手に残っている。気分はよくない。だが、死んだのはゴブリン。生きているのは自分だ。

「……俺も、食べないと死ぬからな」

 小さく呟き、討伐証明になる右耳を切り取った。一体で帰っても報酬は出る。だが少しだけ物足りない。ノアは左腕を見る。

「もう一体だけ」

 欲張りすぎない。一体だけ探す。それで帰る。それからしばらく森を歩き、単独で歩いているゴブリンを見つけた。今度は最初から油断しなかった。棍棒を避ける。腕ではなく、喉を見る。一歩踏み込む。《月銀の剣》が首を深く裂いた。

「ギャ……」

 二体目は、それで終わった。ノアは倒れたゴブリンをしばらく見つめた。

「最初から、倒す場所を狙うのか」

 同じ一回の攻撃でも、腕と首ではまるで違う。《剣術Ⅰ》を持っているだけでは足りない。どう使うかは、自分で覚えなければならない。ノアは二つ目の討伐証明を回収した。それ以上は探さなかった。腕も痛む。今日はこれで十分だ。

◇

「二体ですね」

 ギルドへ戻ると、受付の女性が討伐証明を確認した。

「はい」

「初めてなら十分です。怪我は?」

「ちょっと」

 ノアが左腕を見せると、受付の女性が眉を寄せた。

「防具なしで行ったんですか?」

「持ってないから」

「せめて革鎧くらいは用意してください。今回は腕で済みましたけど、腹や胸を裂かれていたら危なかったですよ」

「買えるなら買います」

「……そうでしたね」

 受付の女性も昨日の登録料のことを思い出したらしい。報酬を受け取る。ノアは手の中の銅貨を数えた。昨日までなら、これだけまとまった金を一度に持つことはほとんどなかった。

「これで防具買える?」

「安い中古なら……いえ、まだ少し厳しいと思います」

「やっぱり」

「まず食事をしてください。その顔で次の依頼を受けると言われたら止めますから」

「そんな顔してる?」

「してます」

 腹が鳴った。受付の女性が苦笑する。

「ほら」

「……食べてきます」

◇

 ギルドを出ると、すぐ近くの屋台から肉を焼く匂いが流れてきた。ノアの足が勝手にそちらへ向く。

「パンと肉」

「肉挟みなら銅貨三枚だ」

 三枚。少し迷った。防具が欲しい。金も貯めたい。でも、昨日からほとんど食べていない。

「……一つ」

 銅貨を渡す。硬めのパンに焼いた肉と少しの野菜を挟んだものを受け取った。まだ温かい。一口かじる。

「……うまい」

 肉の脂が口いっぱいに広がった。こんなまともなものを食べたのは、いつ以来だろう。夢中でもう一口かじろうとして、視線を感じた。少し離れた壁際。小さな子供がこちらを見ていた。七つか八つくらい。服は汚れ、裸足。じっとパンを見ている。目が合った。子供はすぐに顔を逸らした。

「……」

 ノアはパンを見る。腹は空いている。ものすごく空いている。全部食べても足りないくらいだ。もう一度、子供を見る。

「……見るなよ」

 子供の肩が小さく跳ねた。

「取らないよ」

「そうじゃなくて」

 ノアは少し迷ったあと、パンを半分にちぎった。大きい方を自分の手元へ残す。小さい方を子供へ差し出した。

「ほら」

 子供が目を丸くする。

「……いいの?」

「全部はやらないぞ。俺も腹減ってるから」

 子供は恐る恐る近づき、パンを受け取った。

「ありがとう」

「落とすなよ」

「うん!」

 子供はすぐに走っていった。ノアは残ったパンを見る。

「……少なくなった」

 自分で渡したのだから当然だ。少しだけ後悔した。でも、取り返しに行く気にはならなかった。

「まあいいか」

 残った分を口へ入れる。腹いっぱいにはならない。それでも、昨日よりずっとマシだった。

◇

 受付から聞いた防具屋へ向かった。店内には革鎧や金属製の胸当てが並んでいる。ノアは一番安そうな革鎧を指差した。

「これ、いくら?」

 店主が金額を答える。

「……高い」

「これでも中古だぞ」

「もっと安いのない?」

「壊れててもいいなら裏にあるが、そんなもん鎧にならん」

 ノアは財布を見る。買えない。今日の報酬では全然足りなかった。店主の視線がノアの腰へ移る。

「その剣を売ればいいじゃねえか」

 ノアはすぐに《月銀の剣》の柄へ手を置いた。

「売らない」

「そいつなら鎧どころか、しばらく飯にも困らんぞ」

「それでも売らない」

「そうかよ」

 この剣はただの武器ではない。《剣術Ⅰ》を得るきっかけにもなった。何より、これがなければノアはゴブリン一体にすら勝てなかったかもしれない。手放すつもりはなかった。店を出る。通りには多くの人が行き交っていた。荷物を運ぶ男。買い物をする女。昼間から酒を飲んでいる冒険者。ノアは残った銅貨を握りながら考える。鎧が必要。でも買えない。

「どうするかな……」

 その時、横から肩へ強い衝撃を受けた。

「うわっ」

 二歩ほどよろめく。ぶつかってきたのは、大柄な男だった。太い首。汚れた革鎧。腰には剣。左頬には、斜めに走った古い傷がある。

「どこ見て歩いてんだ、ガキ」

「……そっちからぶつかっただろ」

「あ?」

 男の目が細くなる。ノアは口を閉じた。相手は大きい。自分より頭二つ近く高く、腕も太い。しかも後ろには、似たような男が二人いる。三人。勝てない。

「……すみません」

 ノアは横を通ろうとした。

「待てよ」

 肩を掴まれる。太い指が食い込んだ。

「スラムのガキか?」

「……」

「小綺麗にしても分かるんだよ」

 男が笑う。後ろの二人も笑った。ノアは何も言わない。男は肩を軽く押した。軽く。相手にとっては。それだけでノアはまたよろけた。

「次ぶつかったら金取るぞ」

 男たちは笑いながら歩いていった。

「……嫌な奴」

 ノアは肩を擦った。かなり力が強かった。あんな相手にまともに殴られれば、ゴブリンの棍棒より痛いかもしれない。腹は立つ。でも、剣を抜かなくて正解だった。三人相手に喧嘩を売っても死ぬだけだ。ノアは男たちの背中を一度だけ見てから歩き出した。鎧。やはり必要だ。ゴブリン相手にも。人間相手にも。そこで足が止まった。

「……買う必要あるのか?」

 今着ているシャツ。ズボン。靴。そして《月銀の剣》。全部、店で買ったものではない。ノアは来た道とは違う方向へ歩き出した。

◇

 廃品置き場には、今日も大量のゴミが積み上がっていた。ノアは今度、衣類ではなく武器や防具が捨てられている辺りを探した。最初に見つけたのは泥まみれの革鎧だった。

「《浄化》」

 泥が消える。胸の部分が大きく裂けていた。

「駄目」

 次は鉄製の胸当て。汚れを落とすと、大きくへこんでいるのが分かった。鎖帷子も見つけた。半分近く鎖が切れている。《浄化》しても直らない。

「使えるの全然ないな」

 それでも探す。防具屋で買う金はない。なら、ここで見つけるしかない。革鎧。鉄片。壊れた兜。穴の空いた胸当て。何度も《浄化》を使いながら状態を確認する。そのうち、頭が少し重くなってきた。

「使いすぎか」

 少し休む。昨夜の《月銀の剣》ほどではないが、何度も《浄化》を使えば疲れる。ノアは廃品の山へ腰を下ろした。

「そう簡単に見つからないよな」

 むしろ昨日がおかしかった。希少級の剣がゴミに混ざっていたのだから。少し休み、再び探し始める。しばらくして。重なった革鎧の下に、黒いものが見えた。

「……ん?」

 引っ張り出そうとして、手が止まる。寒い。夜ではない。風も吹いていない。それなのに、指先から冷たさが這い上がった。ノアはすぐに手を引っ込めた。

「この感じ……」

 昨夜と同じだ。《月銀の剣》を見つけた時。触る前に感じた、嫌な寒気。ノアは二歩下がった。革鎧を木片でどける。その下から現れたのは、金属製の胸甲だった。乾いた血と泥で真っ黒になっている。

「また、呪われてる?」

 右手を向ける。

「《浄化》」

 白い光が胸甲を包んだ。泥が落ちる。乾いた血も消える。しかし、黒いものだけが残った。靄。ゆっくりと胸甲へまとわりついている。

「やっぱり」

 昨夜と同じだ。普通の汚れではない。ノアの胸が高鳴った。怖い。でも。それ以上に期待する。《月銀の剣》は、呪いを消したことで希少級へ戻った。さらに《剣術Ⅰ》まで得た。

「これも……」

 ノアは距離を保ったまま、もう一度右手を向けた。

「《浄化》」

 黒い靄が揺れる。胸甲の端から、本来の黒銀色がわずかに現れた。

「いける」

 もう一度。

「《浄化》」

 白い光が広がる。黒い靄が膨らみ、ノアへ伸びようとする。すぐに後ろへ下がった。靄は白い光に触れ、弾けて消える。

「やっぱり触らない方がいいな」

 ノアは昨夜より慎重だった。焦らない。一度使ったら少し待つ。頭が重くなったら休む。何度も《浄化》を重ねる。黒い靄が少しずつ薄くなっていく。胸甲の本来の姿が現れる。

「あと少し」

 額に汗が滲む。右手を上げる。

「《浄化》!」

 白い光が胸甲全体へ広がった。残っていた黒い靄が一気に吹き上がる。空中で暴れ、やがて細かく裂けた。そして。消えた。

「……やった」

 廃品の中に残ったのは、黒銀色の胸甲だった。表面には細かな傷がある。少しへこんでいる場所もある。それでも、大きく壊れてはいない。ノアは念のため、木片で何度か触った。反応はない。最後にもう一度だけ《浄化》をかける。何も起きない。

「大丈夫そうだ」

 そこで初めて胸甲を持ち上げた。重い。だが、持てないほどではない。目の前に文字が浮かぶ。

────────────

《黒鉄の胸甲》

等級:希少級

防御力:+15

────────────

「また希少級……」

 防具屋に並んでいた革鎧より、どう見ても上等だった。今日稼いだ金を全部使っても買えない。そんな防具が。ゴミの中に捨てられていた。そして。さらに文字が現れた。

────────────

《黒鉄の胸甲》に残された技能を継承しました。

《耐久Ⅰ》を獲得しました。

────────────

「……来た」

 二つ目。《剣術Ⅰ》に続く技能。《耐久Ⅰ》。身体の奥へ、じんわりと何かが染み込むような感覚が広がった。急に筋肉が増えたわけではない。身体が大きくなったわけでもない。それでも、少しだけ身体の芯が強くなったような気がする。

「これなら、次は……」

 ノアは言いかけて、やめた。今日、一体目のゴブリンに油断して怪我をしたばかりだ。装備が増えたからといって、急に何でも倒せるようになるわけではない。

「まず、ちゃんと使えるようにならないとな」

 《黒鉄の胸甲》を身につける。少し大きい。紐をきつく締めれば、どうにか身体へ固定できた。銀色の剣。黒銀色の胸甲。どちらも拾い物だ。昨日まで、まともな靴すら持っていなかった。それが今は。

────────────

《浄化Ⅰ》

《剣術Ⅰ》

《耐久Ⅰ》

────────────

 ノアは自分の胸甲へ触れた。

「……明日は、怪我しないようにしよう」

 今日より少しだけ。上手く戦えるように。そのために、この防具を使う。ノアは廃品置き場をあとにした。


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