第2話 冒険者になる
目を覚ました時、最初に目へ入ったのは銀色の剣だった。昨夜、廃品置き場で見つけた《月銀の剣》。黒い呪いに覆われていたものを何度も《浄化》し、本来の姿へ戻した希少級の武器だ。そして、この剣を浄化したことで、ノアは《剣術Ⅰ》まで手に入れた。
「……夢じゃないよな」
寝床の横へ置いていた剣を握る。途端に、どう構えればいいのかが分かった。足の位置、腰の落とし方、肩から力を抜く感覚。昨日まで剣などまともに握ったことすらなかったのに、身体の中には確かに技術が残っている。意識を向ければ、自分が持つ力も確認できた。
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《浄化Ⅰ》
《剣術Ⅰ》
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神父から授かったギフトは《浄化Ⅰ》だけだ。《剣術Ⅰ》は間違いなく、《月銀の剣》を浄化したことで得た。
「他の呪われた物でも、同じことが起きるのかな」
もしそうなら。呪われた武器や防具を見つければ、装備だけでなく技能まで増やせるかもしれない。考えるだけで胸が騒いだ。だが、すぐに腹が鳴った。
「……まず飯だな」
昨日食べたのは、昼前の硬いパン一つだけだった。手持ちは銅貨二枚。今それを食事へ使えば、ほとんど何も残らない。ならば稼ぐしかない。ノアは《月銀の剣》を見る。《剣術Ⅰ》があるなら、冒険者になれるかもしれない。魔物を倒して報酬を受け取れれば、スラムで日雇いの雑用をするよりはるかに稼げる。
「よし」
立ち上がりかけて、止まった。自分の格好を見る。
「……これで行くのか?」
灰色だったはずのシャツは泥と煤で黒ずみ、袖には何か月前についたのか分からない染みが重なっている。ズボンも似たようなものだ。膝は擦り切れ、裾には乾いた泥が固まっていた。ノアは腕へ鼻を近づける。
「くさっ」
思わず顔を背けた。昨日までは気にしていなかった。スラムでは周囲も似たような臭いだからだ。だが、一度意識するとひどい。汗、垢、煙、下水。いろいろな臭いが身体へ染みついている。
「これでギルドに行ったら、入る前に追い出されそうだな」
そこで、自分の右手を見る。昨夜、《浄化》を使った服からは泥も臭いも消えた。
「人間にも使えるのか?」
少し迷った。でも、呪われた剣にさえ使えた力だ。ノアは右手を自分の胸へ向ける。
「《浄化》」
白い光が身体を包んだ。
「うわっ」
次の瞬間、髪や肌から黒いものがぼろぼろと落ち始めた。髪へ固まっていた脂と埃。首筋や腕にこびりついた垢。爪の間へ詰まっていた汚れまで、次々と剥がれていく。ノアは目を丸くした。
「俺、こんなに汚かったのか……」
顔を擦る。何もつかない。髪へ触れても、いつものべたつきがなかった。腕へ鼻を近づける。
「……臭わない」
こんなに身体が清潔になったのは、生まれて初めてかもしれない。近くに置いてあった欠けた水桶を覗き込む。底に残った雨水へ、自分の顔が映った。
「……俺、こんな顔だったんだ」
煤で黒ずんでいた頬は、本来の肌の色へ戻っている。日に焼けてはいるが、思っていたより色は薄い。ただし、頬は痩せていた。額の古い傷も、腕の細かな切り傷も残っている。
「傷は消えないか」
やはり《浄化》は治癒ではない。それでも、水を使わず身体を綺麗にできるだけで十分だった。問題は服だ。身体が綺麗になったせいで、今度は着ている服の傷みが余計に目立つ。
「これも」
シャツへ《浄化》を使う。泥や黒ずみは綺麗に消えた。しかし、裂けた袖も擦り切れた裾もそのままだ。
「やっぱり壊れたものは直せないんだな」
なら、最初から壊れていない服を探せばいい。ノアは《月銀の剣》を布で包み、廃品置き場へ向かった。
◇
朝の廃品置き場には、すでに何人ものスラム住民がいた。金属片を拾う老人。薪になりそうな木材を集める女。まだ履ける靴を探している子供。誰も余計な話はしない。価値のある物が見つかれば、それだけで喧嘩になる場所だ。ノアも衣類が積まれている場所へ向かった。最初に見つけたのは、泥まみれの茶色いシャツだった。
「《浄化》」
汚れが消える。胸の辺りに大きな穴が現れた。
「駄目だな」
次は黒いズボン。浄化すると、股の部分が完全に裂けていた。
「もっと駄目だ」
三着目は小さすぎた。ただ、穴はない。ノアは少し考えてから、それを衣類の山の奥へ戻さず、端の見える場所へ置いた。自分には着られない。でも、もっと小さな子供なら使えるかもしれない。四着目は片袖がない。五着目は血で黒く染まっていた。ノアは一度だけ手を止めた。
「……死人のかな」
珍しいことではない。死んだ人間に服は必要ない。スラムでは、使えるものなら誰かが使う。《浄化》をかける。乾いた血が消えた。その下から、胸を刃物で大きく切り裂かれた跡が現れる。
「これも無理だな」
ノアは服を横へ置いた。それからしばらく探し、ようやく穴のない白いシャツを見つける。少し大きいが、問題はない。
「《浄化》」
泥と汗染みが消えた。
「これは使える」
次に紺色のズボン。裾は少し擦れているが、破れてはいない。これも浄化。靴はさらに時間がかかった。左右揃っているもの自体が少ない。ようやく見つけた茶色い革靴は、泥と油で表面が真っ黒になっていた。
「頼むぞ」
《浄化》。汚れが消える。
「お」
少しひび割れている。でも底には穴がない。足にも合った。
「当たりだ」
ノアは廃品の陰へ入り、その場で服を着替えた。綺麗なシャツ。穴のないズボン。まだ履ける革靴。全部、誰かが捨てたものだった。それでも十分だった。
「……悪くない」
少なくとも、昨日よりずっと人間らしく見える。最後に《月銀の剣》を腰へ差した。
「剣だけおかしいな」
服は貧しい少年そのものなのに、剣だけが銀色に輝いている。どう考えても釣り合っていない。盗品だと思われるかもしれない。少し考えたが、他に武器はない。
「聞かれたら拾ったって言えばいいか」
実際、拾った。呪われていたことまで話す必要はなかった。
◇
冒険者ギルドは、スラムから歩いて一時間ほどの場所にあった。石造りの二階建て。朝から剣や槍を持った冒険者たちが出入りしている。ノアは入口の前で一度だけ足を止めた。昨日までなら、自分がここへ入るなど考えもしなかった。冒険者。魔物を殺して金を稼ぐ人間たち。危険な仕事ではある。それでも、日雇いの荷運びやゴミ拾いよりは稼げると聞いていた。
「……行くか」
扉を開ける。中は酒と汗、それに獣皮の臭いが混ざっていた。壁には大量の依頼書。奥には酒場まであり、朝から酒を飲んでいる男もいる。何人かがノアを見た。
「なんだ、あのガキ」
「使いじゃねえの?」
聞こえたが無視する。受付へ向かった。
「いらっしゃいませ」
若い女性がノアを見る。一瞬だけ視線が《月銀の剣》へ向いた。
「どうされました?」
「冒険者になりたいです」
「登録ですね。年齢は?」
「十五歳」
「ギフトの儀は受けましたか?」
「昨日」
「それなら問題ありません」
受付の女性は棚から一枚の紙を取り出した。
「名前をこちらへ。字は書けますか?」
「名前くらいなら」
木炭筆を借りる。ノア。書けるのは、その程度だ。
「ギフトは?」
「《浄化Ⅰ》」
受付の手が止まった。
「《浄化》?」
「はい」
「清掃系でしょうか?」
「多分」
「戦闘技能は?」
「《剣術Ⅰ》」
「え?」
受付の女性が顔を上げた。
「ギフトが《浄化Ⅰ》で、技能に《剣術Ⅰ》?」
「はい」
「剣術はどこで習ったんですか?」
「習ってないです」
「では、どうやって?」
ノアは少し考える。
「昨日、使えるようになりました」
嘘ではない。
「……珍しいですね」
「そうなんですか?」
「ギフトとは別に技能を習得する人はいます。ただ普通は、長く訓練した結果として身につくものです」
「そうなんだ」
「剣の訓練経験は?」
「ないです」
「……」
受付の女性が、もう一度《月銀の剣》を見る。ノアはそれ以上何も話さなかった。余計なことまで自分から教える必要はない。
「まあ、登録には問題ありません。最初は全員Fランクです。受けられる依頼にも制限があります」
「分かりました」
「では登録料をお願いします」
「……登録料?」
「はい」
嫌な予感がした。
「いくら?」
金額を聞く。ノアは財布を見る。銅貨二枚。まったく足りない。
「……ない」
「え?」
「お金が足りない」
「ああ……」
受付も事情を察したらしい。
「登録料を払えない場合は?」
「ギルドの雑務で相殺することもできますよ」
「やります」
即答した。受付の女性が少し驚く。
「内容を聞かなくても?」
「登録できるなら」
「分かりました。ちょうど倉庫へ届いた荷物があるので、それを運んでもらいましょう」
「荷物?」
「食料や薬品、魔物素材です。裏の荷下ろし場から倉庫まで運びます」
「それで登録料になる?」
「決められた分を全部運べば」
「やります」
◇
軽く考えていた。それが間違いだった。
「……重っ」
ノアは両腕で麻袋を抱えたまま、歯を食いしばった。中に入っているのは乾燥させた穀物らしい。持ち上げることはできる。問題は、そのまま倉庫まで運ばなければならないことだ。荷下ろし場から倉庫までは、それほど遠くない。だが、一往復。二往復。三往復。回数を重ねるたびに腕が重くなる。
「おい、坊主」
横から声がした。三十代くらいの男だった。ノアと同じように荷物を運んでいる。太い腕に汗が浮かび、古いシャツは背中まで濡れていた。
「それ、腰で持て。腕だけで抱えると最後までもたねえぞ」
「腰?」
「こうだ」
男が自分の荷物を一度下ろし、持ち方を見せる。袋を身体へ寄せ、少し腰を落として持ち上げる。
「荷物を身体から離すな」
「……こう?」
「そうそう。さっきより楽だろ」
本当に少し楽だった。
「ありがとう」
「礼は全部終わってからにしろ。まだ山ほどあるぞ」
男が顎で荷下ろし場を示す。ノアはそちらを見た。木箱。麻袋。樽。まだかなり残っている。
「……本当に山だな」
「ははっ。登録料がないなら働け、ってことだ」
男は笑いながら荷物を持っていった。ノアも後を追う。それから何往復したか分からなくなった。腕が痛い。太腿も重い。腹は空腹を通り越して、時々きゅっと痛む。途中で運んだ木箱は、麻袋よりさらに厄介だった。
「これ、一人で?」
「そいつは二人でやれ」
さっきの男が反対側を持った。
「持てるか?」
「多分」
「多分で落とすなよ。中身、薬瓶だからな」
「先に言ってよ」
「だから手伝ってんだろ」
二人で持ち上げる。それでも重い。
「せーので行くぞ。せーの」
少しずつ運ぶ。途中でノアの足がもつれた。
「うわっ」
「危ねえ!」
男が木箱を自分の方へ引き寄せる。瓶のぶつかる音が中から聞こえたが、落とさずに済んだ。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
「腹減ってんのか?」
言われた直後、腹が鳴った。男が笑う。
「分かりやすいな」
「昨日からほとんど食べてないから」
「無理すんなよ」
「でも、これ終わらないと登録できない」
「そうだけどな」
男は何か言いたそうだったが、それ以上は言わなかった。ノアも運ぶ。休めば少し楽になる。だが休んでいる間にも、腹は減る。それなら早く終わらせたい。昼近くになった頃には、手のひらが赤くなっていた。指も痛い。背中には汗が流れ、せっかく廃品置き場で綺麗にしたシャツにも土埃がついている。
「あと何個?」
「七つだ」
男が答える。
「……七つ」
「最初より減っただろ」
「最初、数えてなかった」
「数えない方が幸せなこともある」
「そうかも」
それでも運ぶ。六つ。五つ。四つ。最後の二つは、また木箱だった。
「一緒に持つぞ」
「うん」
男と二人で運ぶ。最後の箱を倉庫の指定された場所へ下ろした瞬間、ノアはその場へ座り込みたくなった。でも、なんとか立っていた。
「終わった……?」
「終わったな」
男が大きく伸びをする。
「お疲れ、坊主」
「……疲れた」
「そりゃそうだ。お前、細いからな」
ノアは自分の腕を見る。確かに細い。十五歳とはいえ、まともに食べてこなかった身体だ。《剣術Ⅰ》を覚えたからといって、筋肉まで増えるわけではない。
「もっと食べないとな」
「まず今日の飯を食え」
「そうする」
男が笑った。その顔も、首も、服も汗と埃でひどい状態だった。ノアはふと、自分の右手を見る。
「ちょっと動かないで」
「あ?」
「《浄化》」
白い光が男を包んだ。
「うおっ!?」
汗。身体にこびりついた埃。服についた泥。全部が一気に消えていく。汗でべたついていた髪まで、綺麗になった。男は自分の腕を見て、それから服の臭いを嗅いだ。
「……すげえな、おい」
「汗も落ちるみたい」
「お前のギフトか?」
「《浄化》」
「へえ……便利じゃねえか」
男は何度も自分の服を見た。
「これ、いくらだ?」
「いらない」
「いいのか?」
「さっき手伝ってくれたお礼です」
男が少し黙った。それから笑う。
「そうか」
「はい」
「ありがとな、ノア」
「……なんで名前知ってるの?」
「受付で聞こえてた」
「ああ」
男は肩を回した。
「汗臭くないだけで、ずいぶん楽だな」
「疲れは取れないけど」
「そこまでできたら治癒術師だ」
確かに。ノアは自分にも《浄化》を使う。汗と埃が消えた。疲れた身体はそのまま。腕も痛い。腹も減っている。でも、少しだけ気分は良くなった。
「じゃあな。冒険者になったら死ぬなよ」
「うん」
「危なくなったら逃げろ。新人はそれが一番大事だ」
「覚えとく」
男は手を振って倉庫を出ていった。ノアはその背中を少しだけ見送った。名前も知らない。それでも、手伝ってもらった。だから返した。それでいいと思った。
◇
「全部終わりました」
受付へ戻ると、女性が少し驚いた顔をした。
「本当に?」
「倉庫の人に聞いてもらえば分かります」
「いえ、疑っているわけでは……その、思ったより早かったので」
「途中で手伝ってもらったから」
「そうでしたか」
受付の女性は書類を確認する。
「では、登録料分の労働は完了です」
「じゃあ」
「はい。正式に登録できます」
少し待つ。やがて、小さな金属製の札が渡された。
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ノア
冒険者ランク:F
ギフト:《浄化Ⅰ》
技能:《剣術Ⅰ》
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「これが冒険者証です」
ノアは札を受け取った。思っていたより軽い。でも。
「……俺、冒険者?」
「今日からは」
「本当に?」
「そのためにあれだけ荷物を運んだんでしょう?」
「そうだった」
ノアは金属札を握る。腕が痛い。手のひらも赤い。腹も減っている。それでも、嫌ではなかった。自分で働いて手に入れた。
「依頼も受けられる?」
「Fランク向けなら。ただし初めてなら、採取や簡単な雑用をおすすめします」
「討伐がいい」
「……やっぱりですか」
「稼ぎたいから」
「危険も増えますよ」
「分かってる」
「実戦経験は?」
「ない」
「……」
受付の女性が頭を押さえた。
「《剣術Ⅰ》があっても、魔物が止まってくれるわけではありませんからね」
「それも分かってる」
「本当に?」
「多分」
「そこは『はい』と言ってください」
「はい」
受付は少し迷ったあと、依頼板の一番下から一枚の紙を外した。
「では、これ以上危険なものは駄目です。最初はこれにしてください」
ノアは受け取る。
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《ゴブリン討伐》
対象:ゴブリン
討伐場所:街外れの森
報酬:討伐数に応じて支給
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「ゴブリン」
「単独なら、新人でも倒せることが多い魔物です。ただし複数いた場合は逃げてください」
「分かった」
「それと」
「何?」
「先に何か食べた方がいいですよ」
「……分かる?」
「さっきからお腹が鳴っています」
言われた直後。また腹が鳴った。
「……聞こえてた?」
「かなり」
少し恥ずかしい。でも、事実だった。ノアは依頼票を懐へ入れる。手持ちの銅貨二枚。一枚だけ使おう。何か腹へ入れてから森へ行く。昨日までの自分にはなかったものが、今はいくつもある。綺麗な身体。穴のない服。《月銀の剣》。《剣術Ⅰ》。そして、Fランクの冒険者証。まだ何も成し遂げてはいない。でも。少なくとも、働く場所は手に入れた。
「行ってきます」
「無理はしないでくださいね」
ノアはギルドを出た。まずはパンを買う。それから。初めて魔物を殺しに行く。




