第36話 数秒で十分
翌朝、ノアは宿で朝食を済ませると、そのままラグナ魔術院へ向かった。競売会で《灰色の仮面》を競り合ったエルドに、浄化後の姿を見せる約束をしていたからだ。魔術院は冒険者ギルドとはまるで雰囲気が違った。石造りの大きな建物で、出入りしている人間の多くが杖や本を持っている。剣や鎧を身につけた者はほとんど見当たらない。受付でエルドの名前を出すと、少し待たされた後、小さな研究室へ案内された。
「来たか」
眼鏡を掛けた老男――エルドは、机いっぱいに広げていた紙を脇へ退けた。
「持ってきました」
「まさか、本当に浄化できたとはな」
「二日かかりましたけど」
ノアは《遠征用収納鞄》から《静刻の仮面》を取り出し、机の上へ置いた。濃紺の表面。銀色の細い縁取り。額には紫色の魔石。競売会で見た灰色の仮面とは、まるで別物だった。エルドはすぐには触らず、小さな鑑定具をいくつか取り出した。
「呪染反応は?」
「魔道具店で何度も確認しました。もうないです」
「念のためだ」
光を当てる。魔石を近づける。細い金属棒で魔力の流れを確認する。しばらくして、エルドは眼鏡を外した。
「……本当に消えている」
「言ったでしょう」
「それだけではない。本来の魔力回路もほぼ損なわれていない」
「壊したくなかったので、呪いだけ少しずつ剥がしました」
「簡単に言うな」
エルドは呆れたように仮面を見た。
「普通の浄化術では、呪いと魔道具の魔力が深く絡んだ時点で処置を諦めることも多い」
「俺の《浄化》、ちょっと変なのかも」
「ちょっと、で済むかは疑問だがな」
改めて鑑定結果を確認する。
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《静刻の仮面》
等級:希少級
効果:装着者の認識速度を高める。
使用中、魔力を継続消費する。
身体能力そのものは上昇しない。
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「昨日、少し使いました」
「どうだった?」
「周りがゆっくり見えました」
「正確には、お前の認識が速くなっただけだ」
「同じじゃないんですか?」
「かなり違う」
エルドは椅子へ座り、指を一本立てた。
「例えば矢が飛んでくる。普通なら一瞬で目の前まで来るところを、この仮面を使えば長く認識できるだろう」
「避けやすくなる」
「見えるだけならな」
「……身体は速くならない」
「そういうことだ」
ノアは昨夜使った時の感覚を思い出した。確かに、支配人の瞬きも空気中の埃もゆっくり見えた。だが自分が歩いたわけではない。
「敵の攻撃が見えても、身体が追いつかなければ当たる?」
「ああ。むしろ無理に長時間使う方が危険だ。認識と身体の動きが噛み合わなくなる。頭痛、吐き気、酷ければ平衡感覚まで乱れる可能性がある」
「どれくらいなら?」
「それは個人差がある。最初は数秒ずつにしろ」
「数秒」
「戦闘中ずっと使おうなどとは考えるな」
「俺もそんなに魔力使いたくないです」
「ならいい」
エルドは少し安心したようだった。
「それと、元の所有者について何か分かりました?」
「何も」
「そうですか」
「お前は気にならんのか?」
「性能が分かれば十分です」
誰が作った。誰が使った。なぜ呪われた。知れば役に立つこともあるのだろうが、今のノアが欲しいのは戦闘で使える情報だった。
「実戦で試してみます」
「人の忠告を聞いた直後にそれか」
「だから数秒だけ」
エルドは何か言いたそうだったが、最後には諦めたように手を振った。
「壊すなよ。研究対象としても興味深い」
「俺のなので売りませんよ」
「分かっている」
◇
魔術院を出たノアは、そのまま冒険者ギルドへ向かった。ここ数日は呪物ばかり扱っていた。《黒銀の戦籠手》。《静刻の仮面》。新しい装備が二つ増え、《魔力纏装Ⅰ》まで覚えた。
「そろそろ戦いたいな」
試すなら実戦が一番分かりやすい。Cランク用の依頼掲示板を見る。魔物討伐、護衛、採取、調査。ラグナは依頼の数そのものが多かった。その中から、一枚を取る。
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《Cランク》
《岩殻犀討伐》
確認数:一体
出没地:ラグナ北東部岩原
危険度:Cランク中位相当
報酬:銀貨四十八枚
素材買い取り別途
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「これにしよう」
受付へ持っていく。
「《岩殻犀》ですね」
「はい」
受付係が冒険者証を確認した。
「単独で受けられますか?」
「そのつもりです」
「岩殻犀は外皮が非常に硬く、一般的な刃物では致命傷を与えにくい魔物です。Cランクでも複数名で受ける方が多いですが」
「硬いから受けたいんです」
「……硬いから?」
「試したい技能があるので」
受付係は一瞬黙った。
「危険を感じた場合は撤退してください」
「もちろんです」
勝てないなら逃げる。そこは変わらない。依頼書と簡単な地図を受け取り、ノアは町を出た。
◇
ラグナ北東部の岩原までは、徒歩で数時間だった。街道を外れると草が減り、灰色の岩が露出した地面が増えていく。大きな岩が点在しているため、見通しは良いようで悪い。ノアは足跡を探す前に《魔力感知Ⅰ》を使った。
「この辺には……」
小さな反応が二つある。かなり遠く、おそらく小型魔物だ。ノアはさらに奥へ進んだ。
「いた」
大きい。鉄背大猿よりも重い魔力。動きは遅い。距離はそれほど遠くない。
「便利だな、これ」
最近、特にそう思う。敵を探す時間が短くなる。姿を見る前から、おおよその位置まで分かる。ノアは岩陰を使いながら近づいた。やがて。
「……でかい」
岩殻犀。名前通り、大型のサイに似た魔物だった。肩まででもノアの胸より高い。全身を覆う灰色の皮膚は、皮というより岩そのものに近い。背中には何層もの硬い板が重なり、額には太い一本角が伸びている。地面に生えた硬い草を食べていた。
「まず普通にやってみよう」
いきなり新技能を全部使う意味はない。どの程度硬いのかを知る。ノアは《月銀の剣》を抜いた。《身体強化Ⅱ》。《俊足Ⅱ》。魔力を必要な分だけ流す。岩陰から出る。岩殻犀。気づく。
「ブォォッ!」
顔がこちらへ向く。
「来るか」
魔物が前脚で地面を掻く。《危険察知Ⅰ》が警告した次の瞬間、巨体が一気に走り出した。
「速っ」
見た目よりずっと速い。ノアは《俊足Ⅱ》で横へ飛んだ。角が脇を通過。風。強い。岩殻犀はすぐには止まれない。
「今」
背後へ回り込み、《剣術Ⅱ》で斬りつける。
ガキンッ!
「っ!」
《月銀の剣》が弾かれた。手が痺れる。岩殻には浅い傷が一本入っただけ。
「硬っ」
受付で聞いた通りだった。岩殻犀が身体を回す。ノアはすぐ離れる。
「普通に斬るのはきついな」
なら、次に、右腕の《黒銀の戦籠手》へ魔力を通す。そこから《月銀の剣》へ。
「《魔力纏装》」
薄い魔力の膜が刀身を覆う。再び岩殻犀が突進してきた。ノアは今度も横へ避け、その脇腹へ剣を走らせる。
ザシュッ!
「入った!」
先ほどとは違う。岩殻を割り、刃がその下まで入った。血が滲む。
「ブオォォッ!」
岩殻犀が怒って身体を振った。ノアはすぐ後退する。
「通る。でも」
傷は浅い。致命傷には程遠い。《魔力纏装Ⅰ》を使えば斬れる。だが、一撃で岩殻を無視できるほどではない。
「ちょうどいいな」
強すぎない。弱くもない。技能を試す相手としては悪くなかった。
◇
問題は、岩殻犀の突進だった。直線だけなら避けやすい。だが何度か繰り返すうちに、単純な魔物ではないと分かった。
「曲がるのかよ!」
巨体が地面を蹴り、こちらへ進路を変える。急旋回はできない。それでも、最初に横へ避けただけでは追ってくる。ノアは岩の間を走った。後ろ。重い足音。
ドドドドドッ!
《危険察知Ⅰ》。強い。
「このままだと」
前方、大岩、左右。狭い。追い込まれる。ノアは《静刻の仮面》を顔へつけた。
「試すか」
魔力を流す。額の紫石。淡く光る。その瞬間、世界が変わった。
「……おお」
後ろから迫る岩殻犀。前脚が地面へ降りる。砂。跳ねる。首が少し動く。角の向き。全部がはっきり見える。ゆっくり。十分に考える時間があるように感じる。
「右」
避けられる。そう判断した。身体を動かす。
「……遅い!」
頭で思ったより、身体が動かない。仮面で速くなったのは認識だけ。エルドの言葉通りだった。
「《俊足Ⅱ》!」
すぐ技能へ魔力を流す。ようやく身体が間に合う。岩殻犀の角がすぐ横を通る。ノアは岩の脇へ転がるように逃れた。
「危なっ」
すぐ仮面への魔力を止める。普通の速度。戻る。
「見えるけど、避けられるとは限らない」
分かっていた。でも実際に使うと、感覚が違う。
「三秒くらいでいいな」
必要な瞬間だけ。それ以上使う必要はない。
◇
そこからは、岩殻犀を倒すより観察することを優先した。突進。かわす。横から一撃。離れる。《魔力纏装Ⅰ》を使えば傷は入る。だが魔力消費が大きい。何十回も繰り返す方法ではない。
「どこか薄いところないのか」
目、喉、腹、普通なら弱点になる場所。しかし岩殻犀は頭を低くして突進するため、正面から顔を狙うのは危険だった。腹も身体が低いため剣を入れにくい。
「もう一回見る」
突進。《静刻》。世界が遅くなる。《魔力感知Ⅰ》も重ねた。岩殻犀の身体。魔力。動く。
「首と……前脚?」
突進直前、首、前脚。そこへ魔力が集まっている。地面を強く蹴り、角を支えるためだろう。ノアは横へ避けた。解除。魔力を節約。
「もう一回」
次に《静刻》を使い、二秒だけ前脚の動きを観察した。
「……あ」
脚を踏み出す瞬間。付け根。岩殻が僅かに開く。硬い板が重なっているが、関節を動かすため完全には覆えない。
「そこか」
仮面を止める。狙う場所は決まった。次は当てる。
◇
ノアは岩殻犀の正面へ出た。
「来い」
「ブオォォォッ!」
怒った魔物が前脚で地面を蹴り、突進してくる。ノアはすぐには避けず、距離が十歩、七歩、五歩と縮まるのを待った。《危険察知Ⅰ》の反応が一気に強くなる。
「今」
《静刻》を使うと世界が遅くなる。岩殻犀の右前脚が前へ出た瞬間、付け根の岩殻が開いた。
「見えた」
《俊足Ⅱ》で身体を横へ移し、今度は認識だけでなく実際の動きも間に合わせる。さらに《身体強化Ⅱ》《魔力纏装Ⅰ》《剣術Ⅱ》を一瞬だけ重ね、右腕から《月銀の剣》へ魔力を集中させた。
「そこ!」
斬る。
ザシュッ!
「ブオォォォォッ!」
刃が関節の奥、腱まで入る。岩殻犀の右前脚が崩れたが、巨体の勢いは止まらず、そのまま地面へ倒れ込んだ。
ドォン!
砂と小石が舞った。
「よし!」
ノアはすぐ仮面を解除した。ここから先に使う必要はない。岩殻犀が起き上がろうと暴れる。右前脚。動かない。
「首の下」
倒れたことで見えた。喉。そこは背中や脇腹ほど岩殻が厚くない。ただ、まだ動く。角もある。不用意に近づけば危険。《危険察知Ⅰ》。反応。ノアは少し待った。岩殻犀が首を持ち上げる。角。振る。空振り。その後。一瞬だけ喉が開いた。
「今なら」
魔力はかなり減っていた。《静刻》《俊足》《身体強化》《魔力纏装》を重ねて使ったのだから、消費が大きいのも当然だった。
「腕輪」
《蓄魔の腕輪》から魔力を引き出す。身体へ戻る。十分。
「最後」
ノアは踏み込み、《身体強化Ⅱ》と《剣術Ⅱ》を重ねた。そして――
「《魔力纏装》」
刀身、薄い膜、喉。斬る。
ザシュッ!
傷は深く、大量の血が流れ出した。
「ブ……ォ……」
岩殻犀が首を振ろうとする。もう一度、同じ傷。
「はっ!」
ザンッ!
刃がさらに深く入ると、巨体から力が抜け、身体が地面へ沈んだ。ノアはすぐには近づかない。《魔力感知Ⅰ》で見ると、大きな魔力反応が弱くなり、さらに消えていった。
「終わった」
◇
《月銀の剣》についた血を拭い、鞘へ戻す。その時になって、頭の奥がずきっと痛んだ。
「……痛っ」
仮面を外すと、こめかみが重く、目にも疲労が溜まっていた。
「十秒くらいしか使ってないよな」
合計しても、その程度だったはずだ。一回ごとは二秒、三秒。長くても数秒。それでも負担がある。
「エルドの言った通りだ」
《静刻》は使えばかなり強い。相手の攻撃動作だけでなく、関節の動きや重心、魔力の流れまで、普通なら見逃すようなものを拾える。ただし、常時使い続けるのは無理だ。
「三秒あれば十分だな」
決定的な瞬間だけ。それでいい。ノアは《静刻の仮面》を収納鞄へ入れた。
◇
次は素材。岩殻犀は大きい。普通なら解体して持ち帰るだけでも大変だっただろう。ノアには《遠征用収納鞄》がある。
「魔石から」
胸部、解体、大きな魔石。
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《岩殻犀の魔石》
品質:上質
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「当たり」
次に、一本角。硬い。武器や防具の素材になる。時間をかけて切り取る。さらに岩殻の中でも特に状態のいい部分。
「これも高そう」
戦利品をすべて収納する。それでも鞄にはまだ余裕があった。
「便利すぎる」
大物を倒すほど、収納鞄の価値が上がる。回収を終えると、ノアはラグナへ戻った。
◇
ギルドへ戻った頃には、日が傾いていた。
「《岩殻犀》の依頼です」
「お帰りなさい。討伐確認用の魔石を――」
「これです」
上質の魔石。受付係が目を見開いた。
「討伐されたのですか?」
「はい」
「単独で?」
「はい」
「……少々お待ちください」
素材査定へ。角、魔石、岩殻。まとめて確認される。結果。報酬。討伐依頼そのものの銀貨四十八枚。それとは別。素材代。
「こんなに?」
「《岩殻犀の角》は加工需要が高いです。それに魔石が上質でしたので」
「よかった」
戦った価値がある。金袋を受け取り、《遠征用収納鞄》へ入れる。受付係が改めてノアを見る。
「Cランクへ昇格されたばかりと記録されていますが、かなり戦闘経験を積まれているのですね」
「それなりに」
「次回も単独で大型種を受けられる場合は、十分お気をつけください」
「はい」
ギルドを出る。頭痛はもうかなり弱くなっていた。ノアは歩きながら、《静刻の仮面》が入っている収納鞄を軽く叩いた。強い。だが、使い方を間違えれば危ない。《魔力纏装Ⅰ》も同じだった。強いからといって、ずっと使う必要はない。必要な瞬間だけ。
「三秒あれば十分だな」
ノアはそう呟き、夕食を食べるため宿へ戻っていった。




