第35話 灰色の仮面
翌朝、ノアは目を覚ますと、部屋の隅に置いてある黒い箱を見た。昨夜と何も変わっていない。当然だ。封印された箱が一晩で勝手に開いていたら、さすがに宿を変えたくなる。
「……ここでやるのはやめよう」
昨日までは宿の部屋でも呪物を浄化していた。だが《灰色の仮面》は少し違う。《魔力感知Ⅰ》で調べた時点で、昨日浄化した《血縛りの指輪》より明らかに強い魔力を持っていた。しかも、何が起きるのか完全には分からない。三人が装着して意識を失った。一番長い者は二日間。時間が消えたように感じたという話もある。
「宿の人巻き込むのは駄目だな」
魔道具店には呪物を扱うための石室がある。あそこでやった方がいい。ノアは朝食を済ませ、《蓄魔の腕輪》へ追加の魔力を送り込んだ。満杯近くまで貯めたことを確認してから、黒い箱を《遠征用収納鞄》へ入れる。《聖護の首飾り》。《清流の指輪》。《呪耐性Ⅱ》。装備も問題ない。
「よし」
準備を整え、魔道具店へ向かった。
◇
「《灰色の仮面》を落札されたのですか?」
店主は少し驚いた顔をした。
「はい」
「昨日の競売に出されていた品ですよね?」
「銀貨四十九枚でした」
「随分と思い切りましたね」
「壊れてなさそうだったので」
ノアは収納鞄から黒い箱を取り出した。まだ封は開けていない。
「ここで浄化してもいいですか?」
店主はすぐには答えなかった。
「危険性は?」
「結構あると思います」
「……それを聞いた上で断りにくいのですが」
「宿でやるよりいいでしょう?」
「それは間違いありません」
結局、昨日《血縛りの指輪》を浄化した石室を貸してもらえることになった。店主と支配人は隣室から魔法窓越しに確認する。
「何か異常があれば、すぐ中断してください」
「はい」
「扉はこちらからも開けられます。ただ、呪いが広がっている場合はすぐに入れない可能性があります」
「その時は入ってこないでください」
「承知しました」
ノアは石室の中央に置かれた台へ黒い箱を載せた。まず《魔力感知Ⅰ》。箱越しでも感じる。大きい。仮面本来の魔力。その上に、濁った魔力が何層にも重なっている。
「やっぱり強いな」
《危険察知Ⅰ》も反応している。だが逃げるほどではない。
「開けます」
留め具を一つずつ外した。最後。
カチッ。
蓋を開く。灰色の仮面。昨日見たままだ、目元だけを覆う形。額の中央には黒い石。装飾は少ない。しかし、箱を開けた瞬間。
「……?」
音が遠くなった。隣室から聞こえていた僅かな物音。店の中を歩く足音、外の馬車、全部。一瞬だけ遠ざかったように感じた。ノアはすぐ箱から離れた。
「今の何だ?」
《危険察知Ⅰ》。反応。強くなっている。ただし仮面は動いていない。黒い靄も出ていない。ノアは《魔力感知Ⅰ》へ集中した。
「額の石か」
黒い石。そこに呪いの大部分が集まっている。だが昨日見た《血縛りの指輪》とは構造が違った。本来の魔力と呪いが、ほとんど同じ流れを通っている。
「面倒だな」
雑に《浄化》すれば、本来の機能まで壊すかもしれない。ノアはまず身体の中へ《浄化循環》を回した。次に右手を向ける。
「弱く」
《浄化》。白い光が仮面へ触れる。変化はなかった。
「もう少し」
少しだけ強める。灰色の表面から、ごく薄い黒い靄が浮かび上がった。その瞬間――
「――っ!」
景色が揺れたように見えた。いや、実際に揺れたわけではない。ノアは違和感に気づき、右手を下ろした。
「……今」
自分は何をしていた?仮面へ《浄化》を使っていた。それは分かる。ただ、ほんの一瞬、途中が抜けたような感覚があった。石室の壁を見る。店主たち。隣室。二人とも驚いた顔でこちらを見ている。
「何かありました?」
ノアが聞く。支配人が魔法窓越しに答えた。
「ノア様。今、動きを止めておられました」
「どれくらい?」
「十秒ほどです」
「十秒?」
ノアには一瞬だった。
「……これか」
装着した三人が言っていたこと。時間が消えた。仮面を着けなくても、呪いに強く干渉すれば同じ現象が起きるらしい。
「嫌な呪いだな」
身体を調べる。異常なし。呪いが残っている感覚もない。だが意識だけが一瞬途切れた。
「続けるのですか?」
店主の声。
「続けます。でも、やり方変えます」
一気に浄化しない。それはいつものことだ。今回はさらに慎重にする。ノアは《魔力感知Ⅰ》で、仮面内部の魔力を細かく追った。本来の魔力。呪い。両方とも額の石へ集まっている。だが完全に一つではない。
「細い」
境目はある。かなり細いが、そこだけを狙えばいい。ノアは《魔力循環Ⅱ》を使い、一つ目の流れを自分の身体を守る《浄化循環》へ、二つ目をごく細く仮面へ送った。
「《浄化》」
ノアは白い光を一本だけ細く伸ばし、黒い魔力の端へ触れさせる。少しだけ削り、すぐに止めた。
「……大丈夫」
意識は飛ばない。もう一度、今度は少しだけ長く。黒い膜が僅かに薄くなる。
「これならいける」
◇
時間のかかる作業になった。数分浄化。休む。《魔力感知Ⅰ》で確認。再び浄化。同じことを繰り返す。途中、二度ほど意識が一瞬抜けた。一度目は数秒。二度目は店主によれば三秒ほどだった。そのたびにノアは作業を止め、自分の身体へ《浄化》を回した。
「入ってる」
呪いは腕や胸ではない。頭。正確には、頭部周辺へごく薄い濁りがまとわりついている。《呪耐性Ⅱ》が侵入をかなり抑えている。《聖護の首飾り》も働いている。それでも完全には防げない。
「意識に触る呪いか」
身体を傷つける《血縛りの指輪》とは種類が違う。ノアは額へ手を当て、《浄化》を流した。薄い濁りが消える。
「まだいける」
魔力にも余裕がある。体調も問題ない。作業再開。仮面の表面。少しずつ色が変わってきた。灰色だった部分の下から、黒に近い深い青色が現れる。
「灰色が元の色じゃなかったんだ」
額の石も変化していた。黒。その奥には、僅かに紫。
「まだ半分くらいか」
思ったより呪いが深い。午前中だけでは終わらなかった。
「一回休みます」
店主たちへ伝え、箱の蓋を閉める。封を戻す。石室を出た。
「顔色が少し悪いですよ」
支配人に言われ、ノアは鏡を見る。
「そう?」
「はい」
「腹減ったからかも」
「昼食を用意させましょうか?」
「お願いします」
店側が食事まで用意してくれた。パン、肉、スープ、果物。ノアは普通に全部食べた。
「よく食べられますね」
店主が言う。
「食べられない方がまずいので」
「確かに」
食後は一刻ほど休んだ。その間に《蓄魔の腕輪》から少し魔力を補充する。自分の頭部。もう一度《魔力感知Ⅰ》。濁り。なし。
「午後でもう少しやります」
「今日中に終わらせる必要はないのでは?」
「無理なら明日にします」
ノアもそのつもりだった。ただ、今のところ、まだ続けられる。
◇
午後。呪いの中心へ近づくほど、抵抗が強くなった。仮面のほとんどは本来の色を取り戻している。濃紺。細い銀の縁取り。左右の目元には小さな魔法文字。残っているのは額の石だけ。
「ここが本体だな」
石は少しずつ本来の紫色へ戻りつつあるが、中心だけはまだ真っ黒だった。《魔力感知Ⅰ》で見ると、本来の魔力と呪いが複雑に重なっている。ノアは深く息を吐いた。
「最後だけ強そう」
白い《浄化》を細く入れる。黒い魔力。反応。次の瞬間――何もない。
「……え?」
ノアは瞬きをした。気づくと右手が下がっている。いつ下ろしたのか分からない。隣室を見ると、店主が慌てた様子で魔法窓を叩いていた。
「ノア様!」
「何秒?」
声を返す。店主の顔色が悪い。
「一分近くです!」
「そんなに?」
ノアの感覚では一瞬だった。
「これはまずいな」
今までより明らかに長い。すぐ身体を確認する。頭。濁った魔力。先ほどより多い。
「《浄化》」
自分へ。消す。時間をかける。完全に消えたことを確認する。
「今日は止めます」
無理をしない。残りは少ない。だからこそ危ない。今日終わらせたいという理由だけで意識を失えば意味がない。箱を閉めようとした。そこで。
「……待って」
《魔力感知Ⅰ》で仮面を見ると、黒い中心部に変化が起きていた。
「小さくなってる」
今の一回でかなり削れた。残りはごく僅かだ。
「……」
やるか。やめるか。ノアは数秒考えた。
「やめよう」
箱を閉じた。支配人が少し安心した顔をした。
「正しい判断だと思います」
「明日やればいいので」
銀貨四十九枚払ったからといって、今日中に結果を出す必要はない。仮面は逃げない。
◇
翌朝。ノアは再び魔道具店へ来た。昨日と同じ準備、食事、睡眠。《蓄魔の腕輪》。《浄化循環》。全部問題ない。
「今日で終わらせます」
石室へ入り、箱を開ける。中の仮面を見ると、黒い中心部は昨日から変化していなかった。
「残りはここだけ」
今回は最初から慎重に進めた。短く《浄化》を使い、休んで自分の状態を確認してから、もう一度流す。それを少しずつ繰り返し、黒い中心を縮めていった。途中で一度だけ意識が飛んだが、五秒ほどだった。
「まだ大丈夫」
ノアは自分へ《浄化》を使ってから作業を再開した。残っている黒い部分は、もう針先ほどしかない。
「これで最後」
ノアは《蓄魔の腕輪》から魔力を引き出し、《呪耐性Ⅱ》《聖護の首飾り》《魔力循環Ⅱ》《浄化循環》をすべて維持した。そのうえで右手を仮面へ伸ばす。
「《浄化》」
白い光が紫の石へ触れた瞬間、内部の黒い部分が揺れ、ノアの意識が引っ張られた。
「……っ」
視界が暗くなっていく。それでもすぐには止めない。《危険察知Ⅰ》は強く警告しているが、まだ命に関わるほどではない。
「あと……少し!」
ノアは《浄化》を強め、最後に残っていた黒い点を消した。
パキッ。
小さな音。ノアは反射的に手を引いた。黒い靄が仮面から噴き出す。だが昨日までとは違う。新しく湧いてこない。
「《浄化》!」
白い光が石室全体へ広がり、黒い靄を次々と消していった。数秒後、辺りが静かになる。ノアは動かずに《魔力感知Ⅰ》を使った。仮面から濁りは消えている。《危険察知Ⅰ》の反応もなくなっていた。
「……成功」
今回は意識も失わなかった。
◇
浄化された仮面は、昨日までとは完全に別物だった。濃紺の表面。銀色の細い縁取り。額には透明感のある紫色の魔石。派手ではない。むしろ装飾は少ない。だが、その内部にある魔力は《黒銀の戦籠手》より明らかに大きかった。
「鑑定します」
支配人が石室へ入る。念のため何種類かの鑑定具を使った。一つ目、二つ目、三つ目。
「呪染反応、ありません」
「よかった」
「ただ……」
「何です?」
「こちらを」
鑑定結果。
────────────
《静刻の仮面》
等級:希少級
効果:装着者の認識速度を高める。
使用中、魔力を継続消費する。
身体能力そのものは上昇しない。
────────────
「認識速度?」
ノアは仮面を見る。
「周りがゆっくり見えるってこと?」
「おそらくは」
「時間を止めるわけじゃない?」
「違います。鑑定結果を見る限り、使用者の認識能力を一時的に高める魔道具です」
「なるほど」
だから呪われた後は逆になった。本来は、短い時間の中でより多くを認識するための道具。呪いによって。その認識する時間そのものが奪われていた。
「つけてみてもいい?」
店主と支配人が同時に止めた。
「まず確認を!」
「昨日まで三人を昏倒させた品です!」
「もう呪いないですよ?」
「それでもです」
「分かりました」
店側は念入りに鑑定した。異常はなく、魔力経路も正常で、呪染も残っていない。そこでようやく使用を許可された。
「じゃあ」
ノアは《静刻の仮面》を顔へ装着した。何も起きない。
「普通」
次に魔力を流すと、紫の石が淡く光った。その瞬間――
「……おお」
支配人の瞬き、店主の服の裾の僅かな揺れ、窓の向こうで落ちる埃。そのすべてが普段よりはっきり見えた。
「止まってない」
身体は普通に動いている。ただ、周囲の動きが細かく、長く見えるような感覚があった。ノアはすぐに魔力を止めた。
「結構減る」
数秒。それだけでも魔力消費を感じた。《魔力纏装Ⅰ》と同じ。常時使用には向かない。だが――
「戦闘なら強いな」
《静刻の仮面》は、敵が攻撃する瞬間だけ数秒使えばいい。《危険察知Ⅰ》と《魔力感知Ⅰ》で兆候を捉え、必要な瞬間だけ《静刻》を重ねる。この三つはかなり相性がよかった。
「売られますか?」
店主が聞いた。「売りません」
即答した。
「ですよね」
「使います」
銀貨四十九枚。高い買い物だった。だが、結果だけ見れば安い。ノアは仮面を外し、《遠征用収納鞄》へ入れた。
「研究者の人にも見せるって言ったな」
「研究者?」
「昨日、競り合った人です。エルドって名前でした」
店主の表情が少し変わった。
「ラグナ魔術院のエルド教授ですか?」
「教授?」
「呪術史では有名な方ですよ」
「研究員って言ってましたけど」
「ご本人はよくそう名乗られます」
「へえ」
ノアはあまり気にしなかった。約束した以上、一度見せればいい。それより。
「銀貨四十九枚か」
呪物を安く買った。二日かけて浄化。希少級の魔道具へ戻った。今回は売らない。自分で使う。
「競売、悪くないな」
支配人が苦笑する。
「普通の方はそういう利用方法をされません」
「また事故品出たら教えてください」
「……承知しました」
ラグナへ来てから、装備が二つ増えた。《黒銀の戦籠手》。《静刻の仮面》。どちらも普通に買えば、もっと高かったはずだ。ノアは収納鞄へ仮面をしまいながら、次は実戦でどこまで使えるのか試してみようと考えていた。




